悠久の絆

第4章




 その姿を見て、心に焼き付けたら、二度と忘れない。
 すべてを終えた後ルシータから別の場所へ逃げたように、<アレクルーサ>であるエルティスならば今すぐにでもルシータへ飛ぶことができる。人々の目を盗み、あるいは姿を隠してだっていいだろう、どこかにいるはずのデュエールを捜して垣間見てくることくらい雑作もない。
 湖のほとりに片膝をついて覗き込めば、そこにあるのは変わらぬ波打つ銀の髪。
 水面に映る自分の顔、波紋で歪んだ銀の瞳を見つめて、エルティスはため息をついた。何度も反芻した言葉をまた心の中で呟いて、エルティスは胸元で手を握り締める。
 なんてことはない。自分の呼び出した風に身を委ね、ルシータを思い描けばいい。
 繰り返す度その指先が震えることにエルティスは気付いていた。
 自分は何かを恐れている。それが何かもわかっている。

 デュエールへの想いを認めることは何も怖くなかった。けれど、誰かと笑いあう当の幼馴染みを見てしまったら、想いが叶わないことを確認してしまったら、もう二度と立ち直れないような気もするのだ。
 思い出も居場所も想いも全部失って、この世界に独り取り残されるとしたら―――。
 想像しただけでエルティスは血の気が引く思いがした。かき抱くように自分の身体を抱きしめる。

 慰めるように傍にまといついてきた風霊の報告に、エルティスは表情を強張らせた。
 見知らぬ人間が来る。
 慌てて湖のほとりから身を退き、いつもの隠れ場所となっている樹の梢へと舞い上がる。縮こまるように枝へ腰掛けると、エルティスは慣れた様子で自分の姿を隠すよう幻を呼んだ。

 森の外にあるという集落の人間であってもそうでなくても人が来ると聞けばエルティスはすぐに姿を隠すようにしていた。引き寄せられるようにこの場所で休んでいると時々人々が現れる。最近はこの森に自生する薬草を採取する人間も多く出入りしていたから、エルティスはかなり頻繁に隠れる羽目になっていた。
 また薬草を求める旅人だろうか。そのわりに精霊たちが憤慨する様子がないのが不思議だとエルティスは思った。
 集落の人間はともかく旅人は好きなだけ草花を採って森を荒らしていくことが多いし、ついでに騒がしい。木々に宿り、静かな場所を好む一部の精霊たちが憤るのは無理もなかった。
 まさかまたあの男ではないだろう。魔法の力を与えろと迫ってきた王子だと名乗った男を思い出すと、エルティスの身体は嫌悪感でひどく震えた。触れられたところが厭わしくて仕方ない。

 湖に近付いてくる、と傍で耳打ちしてくれた水霊は人間が来るというのにひどく楽しそうな様子だった。エルティスの周りでくるくると円を描いて飛んでいる。
「……どうしてそんなに嬉しそうなの」
 エルティスは眉をしかめて思わず尋ねていた。
 ふと見れば辺りを舞う精霊たちは誰もがそんな様子だ。人間が森に入ることを喜ぶのは無邪気な子供が来る時だけだと思っていたのに。
 素敵な人、とだけ言われますます意味がわからず、エルティスは頬を膨らませた。
 あっちから来るよと右手の木々の間を示され、エルティスは思わず目を向ける。それは確かに森の入り口の方向だ。
「見てなさいってこと?」
 小声で呟いて、エルティスは枝の上で身じろぎする。幻を重ねて姿を見えないようにはしているけれど、自分がきちんと隠れているのか不安になった。
 もうすぐと笑いさざめく精霊たちの声を聞きながら、エルティスはじっとその方向を見つめる。

 たいして時間が経たないうちに、木々の合間から旅装束に身を包んだ人影が現れた。
 肩を過ぎた茶色の髪を無造作に束ねた青年。長く旅をしてきたような少しくたびれた上着が風に翻る。大抵の人間は籠やら大量のものを持ち帰ることを想定した荷物を持っているものなのに、彼は肩から小さな荷袋を下げているだけだ。
 青年は眼前に広がった光景に目を奪われたらしかった。ほんの一瞬動きを止めて立ち止まる。一呼吸おいて彼は再び歩き出したけれど、その緑色の瞳は湖を見つめたままだ。
 エルティスは息を呑んだ。そこから視線をそらせなかった。

 ―――その横顔を、覚えている。

 霧が晴れるようだとエルティスは思った。あんなに何度も何度も思い描こうとして一度も成功しなかったのに、こうして実物を見てしまった後では懐かしい思い出と共に鮮やかに思い出せる。
 ずっと隣で見つめてきたその顔。
 そこにいるのは、会いたいと思った幼馴染みだった。

 最後の姿よりさらに伸びた髪が、エルティスがルシータを去ってからの時間を示すようだ。あれからどれだけ時間が経ったのだろう。
 少しずつ近付いてくる青年を見つめていて、エルティスはおかしなことに気がついた。彼は迷いなくこちらに向かってきているのだ。
(……!?)
 湖に沿って歩いているから道筋は直線ではない。けれど目的地を目指しているような足取りにまったく躊躇いはなかった。その視線はこちらを見つめているような気さえする。
 人に見つからないように隠れているはずなのに。エルティスは焦り慌てて周りを見回すが、確認するすべがない。知らず両手を胸の前で握り締める。

 土を踏む足音が止んで、彼はエルティスの座る樹を見上げる位置に立ち止まった。見上げた瞳が確かにこちらをとらえたような気がして、エルティスは唾を飲み込んで息を潜める。
 目の前の青年は、ふと穏やかに微笑んだ。
「エル、そこにいるんだろう?」
 優しい声がエルティスの耳を打った。懐かしい響きに包まれて、エルティスは全身が震えるような錯覚に陥る。一つ大きく鳴った鼓動はそのまま早鐘を打ち始めて止まらない。
 幼馴染みが自分を愛称で呼ぶのを、実に数年ぶりに聞いた。
 そこにいるのは間違いなく自分が顔を見たいと切望した―――デュエールその人だった。
 髪形が変わっても、想い続けたその顔は同じ。

 エルティスは放出している魔力を操作して、自分を包んでいた幻を解いた。こうすれば幼馴染みにも自分の姿が見えるはずだ。正確に居場所を言い当てたのはまるで幼い頃のようだが、それならば姿を隠す意味はない。
 否、応えなければそれが拒否の返答になったはずだ。けれど、会いたいと願った相手に呼ばれて、エルティスが抗えるわけがなかった。
 たぶん姿が見えたのだろう、デュエールの瞳に灯る光がさらに優しくなったような気がする。どんな様子でいればいいのかわからず、エルティスは眉をしかめたまま困ったような顔でいるしかなかった。
「……やっと見つけた」
 そう言うデュエールの表情はひどく嬉しそうだ。どうしようか逡巡して、エルティスは座っていた枝の上から彼の傍に降り立った。向き合ったら、何も言葉が出てこない。

 デュエールの右腕が伸ばされるのをエルティスはぼんやりと見つめる。横髪に触れられた瞬間、頬の辺りを痺れが走った。さらに心臓の音が大きくなって、エルティスは何事かと目を瞬かせる。
 しばらくすると何か身体の力が抜けたような気がして、エルティスは自分の身体を見回した。
「それでいつものエルに戻ったな」
 デュエールに満足そうに言われて、はっと気付いたエルティスは湖に駆け寄る。恐る恐る水面を覗いてみると、そこに映っているのは亜麻色の髪をした娘だった。見慣れてしまった波打つ銀色の髪の女ではない。瞳の色も不可思議な光を失い水色に煌めいている。
 エルティスは背後に立つ幼馴染を振り返った。
 この青年が<アレクルーサ>であった自分の魔力を制御できる<器>であることを思い出す。絆がなければ力は発現されず、その繋がりはあの時失われたものだとばかり思っていた。デュエールがエルティスが隠れているのを見出したのも、もしかしたら幼い頃のように力を取り戻したのだろうか。

「どうして……?」
 ルシータにいるのではなかったのか。ミルフィネル姫を置いてきて、どうして彼はここにいるのだろう。
「逢いたかったんだ」
 彼女の問いにデュエールは事も無げに答えた。あまりの即答振りにエルティスは言葉もない。
「だって、ミルフィネル姫と」
 ようやく絞り出した声に、今度はデュエールの方が嫌そうな顔をした。あまりその話題に触れられたくなさそうだった。
「あれは……仕方なかったんだ」
「……」
「姫と婚約するなら、エルを助けてやると言われたから」
 結局、傷つけただけで何の意味もなかったけど。呟かれたそれはゆっくりとエルティスの心に浸透していった。
「あたしを助けるため?」
「それしか方法が思いつかなかった……そうでもなかったら、あんなことはしない」
「じゃあ、婚約の誓いは……」
「破棄してきたよ、当然。最初に約束を破ったのはあっちなんだし」
 エルティスは幼馴染みの顔を見上げる。デュエールの額にあの時の飾環はない。エルティスを苛んだ翡翠の光はもうないのだ。エルティスはぎこちなかったけれどようやく笑みを浮かべることができた。
「あたしに逢いたかった?」
「さっきも言っただろう。だから捜してたんだ、ずっと」
 先ほどから身体の隅々まで広がっているのは喜びかもしれない。嬉しくなってエルティスは自然と微笑んでいた。

 最後に別れたときよりもデュエールの髪は伸びている。ここまで髪の長い幼馴染みを見るのは初めてだった。
「髪、ずいぶん伸びたよね」
「ああ、あのときから切ってないからな」
「梳かすくらいしたらいいのに、ただ束ねただけでしょう?」
 折角綺麗な髪なのに、本当に無頓着だよね。昔もそんなことを言ったような気がすると思いながらエルティスがそう言うと、デュエールが腕を組んで苦笑していることに気がついた。
「何?」
「言われると思った」
「そんなにぼさぼさになるくらいならきちんと整えた方がいいじゃない」
「エルに切ってもらうって約束だったし」
「だから切らなかったの!? 会えるかどうかもわからないのに?」
 約束を覚えていてくれたことは嬉しかった。けれど。
 信じられないとばかりにエルティスが叫ぶと、デュエールは笑いを収めてこちらを見た。その瞳が真剣な光を帯びる。
「そう言われてたから、この世界のどこかにいることだけはわかってて、あとは探し出すだけだったから。髪を切らなかったのは、願掛けみたいなものだったんだ」
 寄る辺があったら、すがりつくものがあったら、この不安感にも耐えられる気がした。
 そう言われて、エルティスは自分が泣けたらよかったのにと思う。それ以上にこの歓びを表す方法が思い付かない。
 今なら、伝えられるかもしれない。行き場を失っていたこの想いを伝えることが許されるかもしれない。

 エルティスが口を開こうとした瞬間、危険を警告する音無き声が耳に響いた。
 ―――あの人たちが来る!
 簡潔な叫びの意味することを理解し、エルティスの表情が強張る。足が竦みそうになるより先にエルティスは森の入り口に向かって駆け出そうとした。
「エル!?」
 ぐいと引かれる感覚がして、エルティスはデュエールに引き止められていた。エルティスが振り返るとそこにあったのは幼馴染みの怪訝そうな顔。
「どうしたんだ、急に」
 あの人たち―――それがかつて<アレクルーサ>を探してエルティスの元へ来た王子たちを意味しているのは明らかだった。
 デュエールの顔を見つめ、エルティスは迷う。怖いという気持ちより、デュエールを巻き込まないようにしなければという気持ちのほうが勝っていた。
「デュエール、か……隠れて!」
「は?」
「いいから、早く!」
 せめて木々の間に身を隠してくれればいいとデュエールの体を押す。だが、当然ながらデュエールは抵抗した。
「ちょっと待て、エル。一体何なんだ」
 そう問われても説明している暇もないのだ。このやり取りの間だけでも……けれど、願いは届かなかった。

 乱暴な足音と二度と聞きたくないと思った声が響いたのは同時。
「ほう、前会ったときはずいぶん派手な髪だったと思ったが……一体どんな魔法だ?」
 その声にエルティスの腕がひくりと震えた。触れていたデュエールにも動揺は伝わってしまっただろうか。
 振り返りたくもなかったが、エルティスは諦めてその方向を見る。予想するまでもなく木々を分けて現れたのはあの王子だ。
「銀髪の幽霊を探している者がいると聞いて追いかけてきたが、そうか、そこの男も<アレクルーサ>の関係者だな」
 エルティスは立ちすくんだまま動けなかった。逢いたいと思っていた人に会わせてくれたのはいい。けれど、どうして会いたくないと思った人にまで再会させるのか。

 視線が絡めとられたように、エルティスは王子を見たままだ。どうしようか考え込んでいると、ぐいと体が揺らいで、視界から王子が隠される。割り込んだのはデュエールの手と肩。エルティスを庇うように前に出たのだ。
 エルティスは弾かれたようにデュエールの上着の裾をつかむ。ほんの少し垣間見えた横顔。その瞳は鋭く王子を睨みつけていた。
「どうしてエルが<アレクルーサ>だってことを知ってるんだ」
 デュエールの言葉に反応し、王子の両隣で、あの時見たのと同じような格好をした男たちが、素早く剣を抜く。その様子にデュエールの表情はますます険しくなった。
「あの人たち王子とそのお供なの。だからルシータのことも知ってる」
 エルティスの早口の説明は、少し言葉が足りなかった。それでもデュエールは何かを感じ取ったらしい。
 旅装束の下でデュエールの腕が動き、腰の辺りから何かを引き抜こうとするような格好になる。それが剣を抜くときの構えだとエルティスは気付いた。デュエールは剣術の心得がないはずなのに、だ。

「駄目、敵わないよ。目的はあたしなの、デュエールは関係ない。逃げて!」
 エルティスは上着の裾を引っ張って訴えるが、デュエールはエルティスの前に立ちふさがったまま動かなかった。前を睨みつけたまま、デュエールはきっぱり言い切る。
「嫌だね。二度と傍を離れないって、決めたんだ」
 その言葉が心の中に焼きついて、エルティスはその手を離せなかった。


初出 2006.11.13


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