悠久の絆

第6章




 あんなところでデュエールを失わせはしない。何をしても助け出す。


 エルティスがするべきことは朝を待つことだけだった。灯りが落とされた暗い部屋の中で、エルティスは椅子に腰掛けてじっと時間の過ぎるのを待っている。
 煌々と輝く炎はなく、生い茂る木々に隠され外から零れる光もない。それでもエルティスには室内の様子がくっきりと見て取れる。彷徨いの果てにすっかり慣れてしまった力だった。
 テーブルの端には空の食器が寄せられていて、これはエルティスが戻ってきてから食べたものだ。少し冷めていたし、<アレクルーサ>となってしまった彼女には必要もないものだったけれど、そのままにしておくのも申し訳なくて、手をつけた。
 寝てしまえば朝にはなるだろうけれど、あいにくと眠りは不要だ。眠気すらも感じないから、起きているしかない。考えてみれば、しばらくの間はずっとそんな過ごし方をしていたのだから慣れているはずなのだが。
 頬に零れかかる髪を指に巻きつけて、エルティスは椅子にもたれかかる。その色は艶やかな光を放つ銀色だ。
 エルティスはそのまま背中を預けると、瞼を閉じて目の前の風景を追い払った。代わりに思い浮かべるのは、数時間前のこと。
 王城の地下牢だという場所で、幼馴染みと逢えたこと。


 ルシータの頃と同じようなやり取りと、その頃とは違うやり取りとを思い返す。
 心に強く焼きついた出来事は、エルティスの望むように色鮮やかに瞼の裏に蘇った。
 少し見慣れなくて、でもずっと求めていた幼馴染み。
 離れ離れだった時間を示す長く伸びた茶色の髪と、閉じ込められながらも光を失わなかった瞳。
 優しく頭を撫でてくれた、温かい手。
 思わず決意が揺らぎそうになった彼の言葉と、思っていたよりもずっと力強かったぬくもりと。
 それから、口付けたときの熱と、その瞬間の締め付けられるような息苦しさ―――。

 刻み付けたように全身の記憶に残る、あの時間を決して忘れない。
 たぶん、あれほどデュエールのすぐ傍にいたことは今まで一度もないはずだ。ルシータにいた頃は絶対に有り得なかった距離。
 かつての日々でも、彷徨う日々でも、エルティスが得られるとは思っていなかったものだ。
 幼い頃とは違う意味で、生まれて初めて抱きしめた。生まれて初めて、触れた。
 だから、もう充分なのだ。
 二度と描けないと思っていた思い出の日々は、デュエールに再会することで鮮やかに蘇った。楽しかった子供の頃も、ただ一つの望みのために過ごした時間も、ずっとエルティスを苛み続けた最後の出来事も、すべて明瞭に思い出すことができる。

 大丈夫だと、エルティスは思った。神々に願ったように、この記憶を抱えて永遠に生きていける。世界から切り離されて彷徨い続けることが、まったく怖くない。 
 たとえずっと想い続けた幼馴染みが他の誰かと結ばれて、血を残してやがてこの世界を去ったとしても。同じ大地にいるだけで、何も要らないと思う。
 だからこそ、その幼馴染みを助け出さなければならない―――。
 やがて陽が昇り、室内を明るく照らし出すまで、エルティスは何度も取り戻した思い出を心の中で繰り返していた。



 エルティスは勢いよく扉を開けた。見張りとして立っていた兵士が目を剥き、持っていた槍を構える。エルティスは波打つ銀の髪を後ろへ流すと、相手を睨みつけた。
「さっき返答したでしょう、逃げたりしない。せっかくだもの、見て回るだけよ」
 あなたに従う―――。
 ようやく夜が明け、館に現れた兵士に開口一番エルティスが告げた言葉だ。
 兵士二人の片方が王子へ報告に行き、残りの一人が今目の前にいるこの兵士なのだ。一刻ほど前のやり取りを思い出したのだろう、彼は無言で槍を戻した。
 王子が来るまでただ黙っているのも面白くない。どうせなら三階建てらしい館を見て回って時間を潰してやろうと思ったのだが、兵士の方も特に言いとがめる様子もないから一応問題はないのだろう。

 エルティスは久しぶりに好奇心を発揮して、あたりを歩き出した。
 あちらこちらの調度品はルシータの神殿の中で似たようなものを見た記憶もあるが、王族関連の建物など余程のことがなければ見ることなどできないのだから、探検してやろうと意気込む。
 ちらりと横目で兵士の様子を伺うと、音を立てずに外への扉の前に移動している。万が一、のつもりらしい。まず王子と対峙しなければどうしようもないのだから、逃げ出すはずがないのに、とエルティスは心の中で毒づく。
 気を取り直して、エルティスは一番上まで吹き抜けになっている広間の中央に立った。
 二階への階段はそこから真っ直ぐ伸びて、途中から左右へ分かれている。その上にも空間は続いているが、階段は別のところにあるらしい。
 エルティスは軽く手すりに手をかけながら上へと昇っていくことにした。一階を歩き回って変な勘繰りを受けてついてこられるよりはいいだろう。
 そこまで考えて、上の階だって窓から出るという方法があることにエルティスは気付いた。そもそも<アレクルーサ>に戻っているのだから、見張りが立っていようとどこだろうと彼女だけなら出られるのだった。
 まったく無駄なことをしているものだとエルティスは入り口に直立不動を続ける兵士に目を向ける。
 本当に、デュエールを助けるのでなかったら、こんなところに長居などしないのに。
 軽くため息をついて、エルティスは二階に上がった。回廊状に吹き抜けを取り巻く通路に面して扉が幾つか並んでいる。三階へ上がる階段はエルティスが上がってきた対面にあった。
 どこか部屋に入ってみるか、それとも三階へ行ってみるか、エルティスがその場で考えていると、にわかに下が騒がしくなった。

 重い音が響いてきて、エルティスは回廊の手すりから階下を見下ろす。
 扉が開いて、誰かが入ってきたのだ。兵士に何事か話しかけている人影は、エルティスが朝から待ちわびていた王子グレイスその人。
 その姿を認めるとエルティスはぐっと唾を飲み込み、手すりを握る力を込めた。
 頑張らなければならないのは、今と、これからだ。
 デュエールのためにこの想いを永遠に抱えて生きることは怖くない。
 けれど、これから待っているのは憎んでも足らない人の傍にいること。好きでもない人に触れられることに耐えるだけの心を持つこと。
 あの時は逃げ出したけれど、今度は逃げられない。自分で選んだことだから。

 張り番に立っていた青年が階段を指し示す。それを王子の視線が追い、二階にいたエルティスを捕らえた。端整な王子の顔に楽しそうな笑みが浮かぶ。何だがひどく腹立たしくなってきて、エルティスは極力無表情で睨み返した。
「答は出たのだな」
「あなたが条件を守るならね」
 軽い音を立てて王子は階段を上がってくる。彼が目の前に来るまでエルティスは動かずにじっと黙っていた。

 デュエールにかけられている犯罪者の汚名をはらす。地下牢から無事に解放する。できれば何事もなくルシータまで帰るまで。
 王子から言質をとって保証させなければならない。少なくとも最初のふたつだけでも。あとはデュエールが危険にさらされそうになってもエルティスが力を与えた三人の精霊が護ってくれるはず。

「ほう、また銀の髪になったのだな、<アレクルーサ>」
 エルティスの前に立った王子は満足そうに彼女を見下ろしている。エルティスは静かにその目を見据えて尋ねた。
「私が従うなら、デュエールは解放してくれるのね?」
「そのような条件だったな」
「それなら、彼を牢から出してルシータへ送り届けて。そうしたら、あなたのものになる」
「駄目だな。お前が先だ。解放したところでお前が逃げては意味がない。どこへでも飛べるようだからな、姿を消すことなど造作もなかろう」
 エルティスの言葉を王子は軽くあしらう。さすがにこちらは心得ているようだ。
 幼馴染みの救済を願ったデュエールも同じように言われて、同じような気分になったのかもしれない。彼はどうやって巫女姫たちと渡り合ったのだろう。
「私は逃げないわ」
「それをどうやって証明する? あの男が安全な場所へ逃げたところでお前もそこに行けばいいわけだからな。私の方が不利な条件だ」
 エルティスはゆっくり息を吐いた。

 予想通りの面白くない展開だ。否、わかっていたから、デュエールを護るための精霊を送り出したのだけれど。
 神々に誓う、というルシータでは当たり前の行為も、この王子相手ではあまり効果がなさそうだ。あれは神々の存在を普段から感じている人々にしか通じまい。
「お前が私に従う。そうしたらあの男を牢から出し、犯罪者の名も取り消す」
「その約束は守られるのでしょうね?」
 もし果たされなければ、それ相応の代償がある。
「デュエールに何かあったら、すぐにわかる。そのときは、私の全力であなたに報復する。隠そうとしても精霊にはすべて見えるのだから」
「私を脅すか?」
「このくらいは当然のことでしょう」
 からかうように笑う王子に、エルティスは宣言した。神の子である<アレクルーサ>は人の命を奪う術など知らない。それでも、王子が彼女を手に入れて果たそうとする望みを打ち崩すくらいはできるはずだ。
「いいだろう。私はそれで構わぬ。あの男が無事に帰るか、精霊で見張っているといい」
 挑むような王子の返答に、エルティスはゆっくり瞼を閉じる。

 姫の婚約者になることを選んだときのデュエールの気持ちはどうだったのだろう。自分が本当には望まない道へ進む気分。
 きっと今の自分と同じだったのだと、信じたい。相手の無事だけを願うこの心と同じだったと。
「それなら、私はあなたの……」


初出 2007.5.7


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