悠久の絆

第6章




 約定となる言葉をエルティスが紡ごうとしたとき、開け放たれたままの扉の外から、馬のいななきが聞こえてきた。何か叫び声が響いてくる。
「何事だ?」
 訝しげな表情で王子が階段を見下ろす。エルティスも覗き込んでみると、一人残っていたままの兵士が扉へ向かっていくのが見えた。

 ―――いたよ、間に合った!
(え……?)
 勢いよく飛び込んで、兵士とすれ違った風霊の姿に、エルティスは目を見開いた。
 何故、幼馴染みの守護をしているはずの風霊がここにいるのか。

 扉のところに人影が現れ、兵士は槍を構えてそこへ突っ込んでいく。すると突然彼の持っていた槍の持ち手が燃え上がった。
 悲鳴を上げて兵士は槍を放り出す。彼自身にも王子にも、そして扉の前に立つ人物にも、急に武器が発火したように見えただろうけれど、エルティスには火霊が見えていた。そして、その精霊もエルティスが力を与えた一人だった。

 エルティスは手すりにしがみつくと、身を乗り出した。
「……どうして……!」
 中へ入ってこようとしていた青年は、持っていた剣を鞘ごと兵士の鳩尾へ叩き込む。急所を突かれたらしい相手は身体を折り曲げたまま倒れこんだ。そのままぴくりとも動かない。
 青年は剣を腰に戻して額の汗をぬぐうとこちらを見上げる。その瞳が真っ直ぐエルティスを捉えると、彼は階段を目指して走り出した。束ねられた茶色の髪がそれに合わせて跳ね踊る。
 エルティスは心の中で叫んでいた。ここにいられるはずがないのにどうして!
(どうやって出てきたの、デュー……!?)
「あそこから、どうやって出てきたのだ」
 明らかに上擦った王子の言葉に、エルティスは隣を見上げた。唖然としているその姿には焦りがあって、演技ではないようだ。
 デュエールがここに現れたのが予想外のことなのだ。
 それはそうだろう。彼が『地下牢につながれた犯罪者』でなければエルティスとの取引は成立しない。
 彼がここにいるなら、エルティスがこの王子に従う理由は何もないのだ。

「エル!」
 その、名前を呼ぶ声音。
 聞き馴染んだ声に我に返ったエルティスがその方向を見ると、デュエールは階段のちょうど踊り場のところに立ち止まっていた。
 その瞳は貫くような強さでエルティスを見つめている。
 言葉にはしていないけれど。
 呼んでる。来いって、言ってる―――。
 未だ立ち尽くしたままの王子はたぶん動揺している。デュエールが何をエルティスに伝えようとしているか、彼にはわからないだろう。
 風霊を呼ぶ間くらいなら、大丈夫だと思う。
 そう判断するよりもずっと早く、エルティスは王子から数歩離れて風霊を呼んでいた。

 さすがに動けば気づくだろう。だが王子が隣の異変に気づいたときにはエルティスは既に風の力で飛んでいた。踊り場で待っている幼馴染みに向かって。
 揺らいだエルティスの身体をデュエールが支えてくれる。見上げた青年の表情が安堵したように緩んだ。
「どうして、ここにいるの……?」
 エルティスは呟いたがデュエールからの返事はない。彼は彼女を見ておらず、視線はその上を越えて回廊に立っている王子のもとへ向けられていた。
 エルティスが振り返ると、憤激に満ちた表情の王子がこちらを睨み下ろしている。王子はエルティスの瞳を捕らえると歪んだ笑みを浮かべた。
 それでもエルティスはその表情を怖いとも不愉快だとも思わなかったのだ。肩に触れる温かさのせいだった。

 下から複数の足音が響き、兵士たちが飛び込んでくる。それを確認した王子は、エルティスを指差すと高らかに命じた。
「<アレクルーサ>を捕らえろ! 邪魔をする者は容赦するな!」
 王子の命令に従い、兵士たちは駆け上がってくる。エルティスが幼馴染みを見上げると、デュエールは彼女を手をとった。
「―――逃げるぞ」
 思い切り引っ張られ、エルティスは転びそうになりながら、王子とは反対の階段を駆け上がる。デュエールに引かれるまま、さらに回廊を駆け抜けた。少し後ろには二手に分かれた兵士たちが回廊の両側から二人を追いかけてくる。
 当然ながら、逃げる方向は上にしかない。だが、そこからはどうするのだ。下への道はふさがれているというのに。
 エルティスは、彼女の手をしっかり握ったまま前を行くデュエールに尋ねた。
「デュー、どこに行くの!?」
「とにかく、逃げるんだ」
「だって……!」
 追い詰められたら、それ以上どこに行けばいいの!?
 走るためで手一杯で、エルティスの問いかけは喉の奥から出てこなかった。屈強な男たちを背後に引き連れて、三階への階段を勢いよく駆け上がった。これが最上階のはずだ。天井が迫っている―――上はない。
「少しだけ、引き離すぞ」
 それだけ言って、デュエールは一瞬も立ち止まらずにさらに走る速度を上げ、エルティスを引っ張っていく。導かれるままにエルティスは走り続け、ついに廊下の途切れた突き当たりの扉に飛び込む羽目になった。

 中はエルティスが閉じ込められていた部屋と似たようなつくりだ。天蓋のついた寝台と、装飾が施されたテーブルと椅子が置かれている、ひんやりとした場所。違うのは、窓が天上から足元まで大きくつくられ、外に出られるようになっていること。
 エルティスの手を離すと、デュエールは迷うことなくそこへ向かった。テラスへの扉が開かれ、風が吹き過ぎていく。
 幼馴染みの後姿の向こうに広がった、久しぶりに見る空は、蒼く澄んで輝いていた。
 背後の扉の向こうに乱暴な足音が聞こえる。デュエールは振り返ると、エルティスに手を差し伸べた。
「エル、行こう」
 エルティスは躊躇うことなく幼馴染みの手をとる。一体ここからどうするつもりなのだろうとは不安だったのだけれど、その目が真剣だったから大丈夫だと信じたのだ。何をする気でいるのかはまったくわからないのだけど。
 でも大丈夫。ずっと昔から知ってる幼馴染みだから。

 再び迫りくる兵士から逃れるように、デュエールとエルティスはテラスへ飛び出した。
 そんなに広くない空間の先に見えるのは屹立する木々の緑。エルティスが隠れていた森や犬神の森ほどではないが、空の青と深緑の翠が眩しかった。
 同じ向きにあった部屋すべてから繋がるテラスは、それでも大きなものではない。すぐに柵へと追い詰められてしまう。二人は兵士に囲まれ、当然ながら逃げ場はなかった。

 エルティスはデュエールに庇われながら、柵に寄りかかっている。首だけ振り返り下を見下ろすと、すぐ傍まで木々が密集していたけれど、遙か下の地面が見えていた。
 ―――高い。
 風霊を呼んで、下りられない高さではない。現にデュエールを見送るときなどは、エルティスはここより遙かに上の木の枝まで昇っていたし、<アレクルーサ>であれば自由自在に空を飛べる。
 けれど、二人だったらどうだろう。小さい頃は風の力に包まれたまま二人で下りるくらいはしたことがあるけれど、今は明らかに身体の大きさが違う。
 扱える力も強くなっているとはいえ、今までそんな経験がない。しかも、エルティスよりデュエールの方が体格が大きい。いくら強い魔力があっても、二人を空中に支えておく力があるのだろうか。
 加えてこの囲まれている状況で、今思いついたこの提案をデュエールに話すことができない。
 せめて逃げるときに気づいていればよかったとエルティスは悔いた。
(どうするつもりなの、デュー……?)
 信じている。信じているけれど、どうするつもりなのだろう。せめて、ここに来るまでに教えてくれたらよかったのに。そうすれば自分にも何か出来るのに。
 エルティスは兵士たちの様子を伺っているデュエールの横顔を見つめる。二人を包囲する兵士たちも、こちらの動きを計りかねているのか、その場から輪を狭めてくる様子も今はない。

 睨み合いを続けたまま、どれくらい時間が経ったのだろうか。たぶん、それほどではないとエルティスは思った。
 新しい靴音がテラスの石畳に響く。エルティスたちが逃げてきた出口から、ゆっくりと王子が現れたのだ。勝ち誇った表情で向かってくるその姿を、兵士の壁越しにエルティスは睨みつける。
 そのとき、デュエールが兵士たちへ視線を向けたまま、静かに囁いたのだった。その声はエルティスにしか聞き取れないほど小さかった。
「エル、少しだけ、我慢してて」
「……え?」
 何を、と見上げたときにはデュエールは勢いよく振り返っていて、同時にエルティスはデュエールに腹を抱え上げられていた。思い切りデュエールの腕に力が入って、エルティスは一瞬息ができなくなる。そのまま引っ張られるような感覚がして、足が宙に浮いた。
 エルティスを抱えたまま、デュエールは柵に足を引っ掛けて駆け上がったのだった。
 兵士たちの驚いた顔が見えたのも一瞬。体が傾いて、視界が青一色で占められる。
「なんだと!?」
 焦った男たちの声が遠くを掠める。

 状況を理解できずにいたエルティスはようやく自分たちが飛び降りたことに気付いた。
 風霊を呼び出して空を飛ぶような感覚があったのはほんのわずかな時間。
 ―――落ちる!
 見えない手に乱暴に引かれるように、デュエールとエルティスの身体は地面に向かって落ち始めた。
 ぐいと視界が反転し、エルティスはデュエールに抱え込まれる。肩越しに、濃く色付いた緑が迫っていた。
(ぶつかる!)

 ―――助けて!


初出 2007.5.7


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