時の円環-Reconstruction-




 鈴麗は向かい合う父が無言で紙に文章を書きつけていくのを見ていた。
 最初にあった眠りの魔術の文章よりも数段長い。しかもあれは魔術の基本的な概念も含めての文章だから、実際には先ほど父が言った魔術を解くための術は相当複雑だということだ。
「文章は長く見えるけれど、考え方は同じだ。これはあらゆる解術の基礎になるから、これを覚えておけば、鈴麗なら応用が利くのじゃないかと思う」
 鈴麗の思考を読んだように父が言った。ややしばらくして父が手を止め、差し出された紙を鈴麗は受け取る。
 記された長文に斜めに目を走らせ、鈴麗は思わず卓に突っ伏したくなった。
 これが基礎か。
 どんな魔術も解けるというなら判る気がするが、父が言うほど簡単でもなさそうだ。休憩と称してちょっと逃げ出したくなる。
 鈴麗の表情を見たのだろう、父は苦笑していた。
「確かに簡単なものではない。だが皇女殿にかけられた術を解くにはどうしても必要なものだ。父さんが少しずつ教えるから、まずは読んでごらん」
「うん……」
 どうやら父まで鈴麗をたきつけるこつをつかんだらしい。芳姫のことを持ち出されては、投げ出すわけにはいかないのだ。
 鈴麗は一息ついて、紙に目を落とす。

 文章はひたすら長いが、それは父がわかりやすいように平易に書いてくれたからのようで、何とか読むことはできそうだ。
「まずは、解こうとする術が何かを確かめること……」
 対象に絡んでいる魔術の残滓を探り、正体を明らかにすること。そしてそれを解いていくことがこの術の基本形。術の種類が違えば、その先に構築される呪文と印の構造が少しずつ変わってくる。
(これは、診断と同じだね)
 自分が普段慣れ親しんでいる領域に還元すれば、わりと理解は容易いようだ。問題はどうやってかけられている魔術を探るかということ。

 鈴麗は顔を上げると父に尋ねた。
「ああ、それはまず魔術をたくさん知っていることだ。知らないものは解けない。だから、よりよく魔術を消せる者とは、よりたくさん魔術を知っている者、ということになるね」
 鈴麗にとって問題になるのは現在芳姫にかけられている眠りの魔術だから、それを知っておけばこの場合は事足りる。父があえてわざわざ教えるのが難しい基本形を選んだのは、後々のことを考えてなのだろう。
 今鈴麗が知っているのは眠りの魔術だけだ。そしてそれを感じ取るにはどうすればいいか。
 こればかりはどうやら文章を読んでいただけではわからない。
 だからこそ父は少しずつ教えると言ったのだ。

「実際にやってみるのが早いだろう? ……光玉、少し手伝ってもらえるかい」
 父は振り返り、少し離れた場所で観客となっていた母を呼んだ。にっこり笑って歩み寄ると母は卓の上の紙を覗き込む。
「母さんは実験台になればいいのかしら?」
「頼めるかい」
「ええ、もちろんよ。よく練習してちょうだい」
 父は席を立ち、代わりにそこに母を座らせた。何が起こるのか興味津々の母にも知らせるように言う。
「いまから私が眠りの魔術を母さんにかけるから、それを探ってごらん。見つけられたら、次はそれを解く方法だ」
「……わかった」
「私が目覚められたら、成功、ということね」
 母も一緒になって頷く。

 父が何かを呟き軽く手を振ると、一瞬後には光玉は瞼を閉じた。軽く首が傾いて、耳を澄ませると小さな寝息まで聞こえてくる。
 鈴麗は思わず目を見開いた。これが神族の魔術か。
「すごい……」
「母さんが素直に魔術を受け入れたからね、これだとたいして疲れない。相手が気が高ぶってたり抵抗すれば、術をかけるのも大変になる。……まあ、私たちは理屈で覚えたわけではないからね」
 物心つく頃にはごく当たり前にその感覚を手にしているのだという。今までさっぱりわからなかったのだが、時々何か手ごたえを感じることがあるのは、つまりはそれなのかもしれない。
 そして、鈴麗はまず父がかけた魔術を感じなければならないのだ。

 椅子から立ち上がり、鈴麗は眠り込んだ母の傍に歩み寄った。確かに眠っている。
(術をかけるときも触ってみたんだから、逆でもやっていいのかな)
 少し逡巡し、鈴麗は恐る恐る母の肩に手を触れてみた。ぴり、というかすかな痺れが伝わってくる。
「?」
 鈴麗は首を捻った。摩擦で起きるものとは違う。何か揺さぶられるような不思議な振動。
「何か感じるかい?」
「う……ん、なんとなく、痺れるような感じが……」
 鈴麗が自信なく言うと、それが術の残滓だと答が返ってきた。
「鈴麗もわかってきたようだね」
 そう呟いた父の顔は本当に嬉しそうだ。確かに、鈴麗自身も驚くほどの進展振りだった。幼い頃からあんなに悩んでそれでも全くつかめなかったものなのに。
「そこから、眠りの魔術の構造を思い出しながら同じものを探ってごらん」
 それが、術を解くということ。母の肩に触れた手で、もう一度残滓を探ってみる。一度魔術が使えたせいなのだろうか、鈴麗はさほど混乱をきたすことなくその抽象的なことをやってのけた。

 その手につかんだ痺れのような感覚。糸を手繰るように探っていくと、やがて母を取り巻いて彼女を眠りに落としているものがおぼろげながら見えるようになってきた。
(……がんじがらめのような感じがする)
 それが鈴麗の感じた印象。父が神族の魔術は大雑把で力任せと言った意味がわかる気がする。
 これを解けばいいのだと、漠然と感じた。

「絡まっているのを、解けばいいんだよね」
 鈴麗は呟いて、ちらと卓の上の紙に目を走らせる。不思議なことに、わかってしまえばさほど難しいものではなかった。そこに書かれているのは、作られた魔術の構造を崩すための呪文だ。
「魔術の残滓が見えたのなら、それを解くように像を描いてみるんだ。眠りの魔術より難しくはないんじゃないか」
 父に言われた通り、鈴麗は母に絡んだ魔術が解け、目覚める光景を想起してみる。最初よりずっと簡単に心に描くことができて、鈴麗はなんとなく楽しくなってきた。
 この構造を崩すのだから、呪文と印は自ずから導き出される。父に教えられる前に、鈴麗は空に印を結び、呪文を紡ぎ出していた。
 弾けるような感じがして、母を取り巻いている魔術が融ける。
 あとは沈み込んでいる意識を覚醒へ持ってくればいい。心身の働きを高めるには、どうすればいいか――。
(構造としては、眠りの魔術とはきっと真逆のはず)
 覚えたばかりの魔術の構造を思い返して、鈴麗はもうひとつ印を結ぶ。
 魔術をふたつ発動させて鈴麗が息をつくと、乾いた音と同時に光玉がぱちりと目を開いた。
「あら?」
 眠らされる前と全く変わりない様子で、光玉はきょとんと目を瞬かせる。それを確認して、鈴麗は父を振り返る。呆気に取られた様子の華瑛が立っていた。

「父さん、これで成功?」
「ああ、合格だ。……まったく、たいしたもんだな」
 全くその通りだろう。一度成功したら、新しい術も一度で成功したばかりか、別の術まで応用して使ってみせた。鈴麗がなんとなく得意になって笑うと、父は肩をすくめる。
「すごいわ、鈴麗、本当に魔術が使えるようになったのね!」
「ぅわっ!」
 突然後ろから突き飛ばすような勢いで抱きしめられ、鈴麗は目を白黒させた。椅子から飛び上がった母が、そのまま鈴麗に抱きついてきたのだ。あまりのはしゃぎようだから、代わりに鈴麗は落ち着いて母を宥める羽目になる。
「母さん、脅かさないでよ……」
「だって、母さん本当に嬉しいのよ」
 思い切り頭を撫でられて、鈴麗は顔をしかめた。ある意味すっかり幼子扱いだ。気を取り直して、鈴麗は急かすように父に尋ねた。
「次は何を覚えればいいの?」
 ここまで順調に進んできたら、自信がついてくるのも当然だ。こうなれば今夜のうちに全部覚えてしまいたい。

 だが、父は予想外のことを言った。
「これで充分だ。今の術のやり方なら、わざわざ高等魔術をあらためて覚えなくてもできるはずだ」
「あれ? でも解きたい魔術そのものを知らないと駄目だって……」
 先ほどそう言わなかったか。
「鈴麗は、さっき眠りの魔術を応用して覚醒の魔術を使っただろう。皇女殿にかけられた魔術は、鈴麗の知ってる魔術より少し位が高くて複雑ではあるけれど、基本は同じなんだ」
 だから、鈴麗のやり方なら、今のままで充分できる。

「本当に? これだけでいいの?」
 後ろに母を背負ったまま問いかけた鈴麗に、父は静かに頷いた。
「間違いなく皇女殿を眠りから覚ますことができるよ」
「明日にでも、できる?」
「そうだね……ただ、まずは皇女殿にかけられた魔術を確認してきたほうが良いだろう……海苓殿もなかなか魔術の才のある人だからね、どんな細工をされているかわからない」
「かいれい?」
 父の話に耳慣れない言葉を捕らえ、鈴麗は思わず聞き返す。はたと気付いたのだろう、華瑛はばつの悪そうな顔をした。
「……命を受けて皇女殿へあの矢を打ち込んだ武官の名だ。鈴麗にとっては良い人ではないんだろうね」
「ん……それは、仕方ないよね」
 あのとき芳姫を貫いた一条の光。それが打たれた先にいたはずの人。鈴麗にはまったく捉えることのできなかった出来事。
 良いか悪いかで区別できることではないと、鈴麗にはわかっている。父が神族にいて、娘が鳳族にいた。そのふたつの種族は争いあっていた。そのせいで生まれる齟齬だ。むしろ、父には厳しいことを強いているのだろう。
 それを言うと、華瑛はなんでもないように笑った。

「さあ、鈴麗。最後の課題だ。皇女殿にかけられた魔術の構造を探ってくることだ。それがわかれば後は呪文と印で術を形作るだけになる」
「それで完成だね」
「明日の夜――では準備が間に合わないな。二日後の夜にしよう。父さんと鈴麗で魔術の構造を確認して、それで次の日にでも施術をすればいい。それでいいかい」
「うん、わかった。二日後までに見つけてくる」
「頼もしいことだ」
 力強く答えた鈴麗に、華瑛はもう一度笑う。そうしてすっかり更けた夜闇の中をとても機嫌よく帰っていった。



 いつの間にか夜も更け、とっくに日をまたいでいたらしい。とにかく朝早く参上しようかとも思ったのだが、光玉に少しはいいだろうと窘められた。どの道父は明後日にしか来ないのだ。
 しかも、母同様鈴麗もやや興奮気味で今床に入ったとしても寝付けそうになかった。きっと寝坊する羽目になる。
 どうせ夜更かしついでにと光玉は二人分の茶を淹れにいった。

 母を待っている間、鈴麗は椅子に腰掛けて卓に広げられたままだった紙片を見る。
 呆れるほど長ったらしい文章なのに、今の鈴麗には医学の基礎教本のように簡単だった。長い間苦しめられていたものだとは自分でも信じられなかった。
「わかってしまえば簡単って、こういうことを言うんだね」
 かつて医学を志したばかりのときに医学書に悩まされて母に言われた言葉だ。そして魔術が使えず悩んだときにも父親が洩らしていた言葉。どちらも最初聞いたときには慰めにもならないと腹が立ったが、今ならわかる。
「どうしたの、急に」
 ただの独り言のつもりだったのに言葉が返ってきて、鈴麗は顔を上げた。母が二人分の湯飲みとお茶請けを持って戻ってきていたのだ。

 卓に並べるのを手伝いながら、鈴麗は曖昧に笑う。
「ううん、こうやってできちゃうと、思ったより簡単なんだなって」
「そうね、あんまりすいすい進むから、びっくりしたわ」
 魔術が使えないことは、鈴麗にとっては長い間の悩みの種だった。両親のために、護ってくれる主のために、それぞれ頑張ってみたけれど結果は惨敗。魔術に頼らずに医学の道に進もうとした後も、やっぱり何度か試したりもしたのだ。
 母が座るのを待って、鈴麗は茶を口にする。鎮静効果のある薬草茶だ。あまり夜遅く食べ物を口にするのも良くないが、空腹で寝るよりかは少し口にしておいても良いかもしれない。落ち着いてから横になったほうが良く眠れる。

「でも、よかったわね。魔術が使えるようになって」
 向かい合わせの光玉はにこやかな笑顔で言祝ぐ。
「うん、これで神族のところに行けるよね」
「違うでしょう」
 鈴麗の言葉に母は少しむっとしたように眉をしかめる。返答が少し不機嫌そうだ。だがそれも一瞬のことで、ふわりと笑う。
「ずっと悩んでいたでしょう。良かったわ、もうあんなに泣かなくてもいいのね」
 二人で支えあって暮らしてきて。魔術を試してみる度にやっぱり使えなくて、悔しくて悲しくて涙が止まらないことが何度もあった。それを母は全部知っているのだ。
 もう仕事につくような年齢で、子供ではないのに、それでも鈴麗は不覚にも泣きそうになった。

 やっと魔術が使えた。これで芳姫を救うことができるのだ。
 そして、魔術が使えるようになったということは、鈴麗は神族の娘だと認められるということ。
 その先に待つものは――。
(今はまだ、考えなくていい)
 鈴麗は頭を振った。後回しにしてきた考えが首をもたげる。
(まずは芳姫様を助けることが先。考えるのは、その後だって良いんだから、まずは、二人を――)



2008.1.29


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