時の円環-Reconstruction-




 落ち着いてから床につき、目が覚めると案の定陽は高く昇っていた。
 親子二人朝食と昼食を兼ねた食事を取ると、鈴麗は王宮へ参上した。間が一日開いているだけなのに、昨日一日がめまぐるしかったせいか久しぶりのような気がする。
 休暇についての報告を済ませると、鈴麗は真っ直ぐ芳姫の眠る廟へと向かった。

 目的地が近づく度、鈴麗の心臓は緊張していく。
 いつも廟を覗き芳姫の様子を伺う度、自分の無力さを痛感せざるを得なかった。今日はきっと違う気持ちで向き合える。
 廟の前は人気がなく静まり返っていた。中を確かめるために叩いた扉の音がやけに響いている。
 誰もいないことを確認して、鈴麗は静かに扉を開けた。
 冷え切った空気が中から零れてくる。予想外の冷たさに鈴麗は思わず身震いした。
 わずかに開いた隙間から滑り込み、鈴麗は後ろ手に扉を閉める。
 中は外と比べて明らかに寒かった。涼しい、などというものではない、夏間近とは思えない寒さだ。
 中央の寝台には相変わらず眠り込む芳姫の姿がある。
 今までは、見つめるのが辛かった。だが今日は違う。
(芳姫様、必ず助けますから)
 祈るように、鈴麗は呟いた。
 まずは、芳姫にかけられた魔術を確かめなければならない。鈴麗は静かに一歩進み出た。

 魔術を確かめるためには、触れなければならない。いつも鈴麗が芳姫に挨拶する位置よりも少し前に行かなければならないのだ。術士や医師が処置をしようとするとき、龍炎が芳姫に触れようとするときのその位置まで。
 寝台の前に立つと、ほっそり痩せこけた芳姫の姿がはっきりと見えてしまう。
 青白い顔、明らかにこけた頬、精彩をなくした肌、筋肉が落ちた腕。いつも鈴麗を思いやってくれた佳人とは別人のような姿だ。目覚めさせるだけではなくて、この姿を元に戻せる魔術はないのか聞けばよかったのだと一瞬思うほど。
 一日で魔術を使えるようになって本当に良かったと鈴麗は安堵の息をついた。
「芳姫様、少し手を触らせてくださいね」
 龍炎の言葉ではないけれど、返事がないとわかっていて鈴麗は声をかける。黙って触れる気にはなれなかった。

 魔力の残滓を確かめる。糸をたぐるように残る力を探ってみるのだ。
 ゆっくり深呼吸をしてから、鈴麗は恐る恐る芳姫の右手に触れてみた。
 冷たい。何よりも感じたのはそれだった。
(父さんは眠りの魔術と同じものだって言った。だったら、やっぱりこれも芳姫様を取り巻いているのかな……)
 焦ることはない、と華瑛に言われたその言葉を思い出して、鈴麗は自分に再度言い聞かせる。
 大丈夫、明日もあるのだ。今日わからなくても、明日までにわかればそれで構わない。
 冷たさに慣れてくると、鈴麗は何か別のものが感じられてくることに気がつく。じわじわと滲むように広がってくるその感覚は、やがて突然弾けるように鈴麗に襲い掛かってきた。
「!」
 母に触れたときに感じられた痺れとは全く違う、熱く焼けたものに触ってしまったときの貫くような痛み。
 鈴麗が飛びのくように手を引っ込めるとそれは一瞬で霧散した。
「……びっくりした」
 これが魔術の位の違いなのか、それともこの魔術をかけた海苓という術者の強さなのか。
 それでも、一瞬だけとはいえ感じ取れたこともある。
 この魔術は解こうとすれば抵抗されるのだ。慎重にいかなければ鈴麗が手ひどい目に合う。魔術に対しての経験はほぼないに等しいから、どうすれば良いのか全くわからない。これは父に相談してみるしかないだろう。

 鈴麗は呼吸を整えると、気を取り直して再び芳姫の前に立った。
 まだまだこれくらいたいしたことはないと鈴麗は思う。一ヶ月眠り続ける芳姫に比べたら、それを毎日顔を見に来る龍炎に比べたら、一瞬の痛み程度なんということはないはずだ。
「よし、もう一回!」
 気合を入れて拳を振ったところで、ふと空気が動いた。冷気が後方へ流れていく。
 誰か来たのだと鈴麗が振り返ると扉を開けて入ってきたのは私服をまとった龍炎だった。
 龍炎は鈴麗に気付くと優しい笑みを浮かべる。
「やはりここに来ていたのか」
「龍炎様」
 鈴麗が呼びかけると龍炎は扉を閉め、こちらへ歩いてきた。
「回廊をかけていく姿が見えたのでね。昨日は城に上がらなかったようだが……」
「あ、はい。調べ物をしていましたので……」
 鈴麗の答えには反応せず、龍炎はこちらを覗き込んで訝しげな顔をした。鈴麗はどうしたのかと首を捻る。
「顔色が悪いようだが、あまりここに長く居過ぎたのではないか?」
 昨日は良く寝たはずだし、もし調子が良くないようなら絶対に母に止められたはずだ。この廟に入って大した時間は経っていない。何も思い当たらず鈴麗は一瞬考え込み、だがすぐに思い出して苦笑した。
 つい先ほど不用意に術を探ろうとして手ひどい攻撃をされたせいに違いない。
「大丈夫です。何でもありません」
 鈴麗の返答に、だが龍炎は納得した様子を見せなかった。眉をひそめたまま鈴麗の手をとる。龍炎の反応はあまりにも珍しいものだった。
「あまりにも冷えすぎだ。長居するものではない」
 指摘され、自分の手足が明らかに冷え切っていることにようやく気付く。あのたった一瞬で熱を奪い去られたらしい。相当な威力だ。これは休みながらやるしかないだろうか。

 気をつけます、と小さく答えると龍炎は苦笑して鈴麗の手を離す。そのまま彼の視線は傍に横たわる芳姫へと向かった。その顔にわずかに浮かぶ憂い。
 鈴麗はその顔を見上げて呼びかける。
「龍炎様」
 その憂い顔を何とかしたかった。やせ衰えていく芳姫も、悲しげな瞳をする龍炎も、見ていたくはない。力のない厄介者の自分でも、何か役に立ちたかった。
 何かを振り払うように、龍炎がこちらを見下ろす。
「芳姫様を助ける方法を見つけました。上手くいくか……まだわからないけれど、芳姫様を目覚めさせます。必ず」
 もう二度とこの人たちから笑顔が失われることのないように。
 決意を込めて紡いだ言葉に、龍炎が目を瞠る。
「鈴麗、それは……」
 喜ぶかと思った龍炎は、だが困惑したように何かを言いかけ、口ごもった。わずかに逡巡した後、思い直したのか再び口を開く。
「……まさか、神族絡みの何かなのか」
 龍炎の問いに、鈴麗は言葉では答えず曖昧に笑った。自分の背後に神族の存在をちらつかせてはならないことを、父に言われるまでもなく鈴麗は承知している。それは自分たちの立場を危うくする行為だからだ。
 だが、鈴麗が魔術を使えるようになっただけなら、誤魔化しは効く。鈴麗が何度か魔術を試していることは、龍炎も芳姫も、この城の術士も知っていることだから。問題は、今まで使えなかったのに何故このときになって使えたのかということ。

 それ以上龍炎は何も言わず、最後に鈴麗を労わる言葉だけを残すと静かに廟を出て行った。
 礼をして見送り、鈴麗も冷え切った手足を温めるために一度外に出ることにする。芳姫に一度挨拶をして扉まで戻り、取っ手に手をかけたところで、鈴麗は奇妙なことに気がついた。
(龍炎様、芳姫様に声をかけていかなかった……?)
 一昨日ここで見た光景を思い出してみる。廟に入ってきた龍炎は鈴麗の姿を見て笑い、そしてそのまま芳姫の傍へ行って声をかけていた。
 だが、今日はどうだっただろう。入ってきてすぐ、龍炎は鈴麗を見咎め、その顔色の悪さを指摘した。珍しくも手までとって確かめて、鈴麗がそれを大丈夫だと否定して。確かに龍炎は芳姫を見たけれど、声はかけていない。その前に鈴麗が報告をしてしまったからだ、そして龍炎は廟を出て行った……。
 自分が割り込んでしまったのだろうか……。それとも芳姫が助かるということで、日課を失念してしまったのだろうか……。
(どうなされたんだろう、龍炎様)
 首を捻り、だが答えの出ないまま、鈴麗は扉を開けて外へ出た。


 一休みすること一刻ほど。ようやく手足の温度が戻ってきた鈴麗は再び芳姫の眠る廟の前に立っていた。
「……もう一回」
 一回だけでなく、見出すまでは何度でもやってやる。握り拳に力を込めて、鈴麗は扉を開けて中に入る。相変わらず冷気に満ちた室内に横たわる芳姫の姿。
 今度は慎重に行かなければならない。冷え切った芳姫の手。先ほどと同じように鈴麗は声をかけてからその手に触れた。

 冷たさの向こうにある、魔力の残滓。一度触れたせいだろうか、鈴麗は先ほどより短時間でその気配を探り出した。
 糸を引っ張るように、鈴麗は手ごたえを確かめる。手に触れる魔力の感覚と同じものを探していくと、それはおぼろげに芳姫を取り巻く幻となって立ち現れてきた。
(やっぱり、父さんの言ったとおり基本は同じなんだ)
 だが、あのとき解いた父の魔術より、ずっと深く強い束縛のような気がする。ただ眠るより、ずっと深い。
(うん……そう、何だろう、芳姫様はただ眠ってるんじゃなくて……)
 感じ取った手ごたえを確かめようとしたとき、再び何かが牙を剥いた。
「……っ!」
 慌てて手を離し飛びのく。今度鈴麗が感じたのは、痛みを覚えるほどの冷たさだった。寒さに震えるときのように、鈴麗は思わず暖めるようと両手に息を吐く。

「よっぽど魔術を解かれたくないんだ。……当たり前だろうけど」
 神族だったら、父だったら、こんなに抵抗する魔術でも簡単に解いてみせるのだろうか。母を一瞬で眠りにつかせた昨日の様子を思い返してみる。あれを考えれば、魔術一つにあれだけ時間のかかる自分のなんと稚拙なことだろう。
 だが、痛い思いをした甲斐はあったかもしれない。ほんの一瞬だけではあったが、抵抗されるそのときに何かが見えた。
 少しだけ近付けたということだろう。思い返そうとして、だが自分の手のあまりの冷たさに鈴麗は苦笑した。
「まずは外に出て、休みながら考えようかな」

 鈴麗は廟を出て回廊の欄干へと寄りかかった。中庭にしつらえられた池を渡る風が鈴麗の前髪を撫でる。その向こうの木々を眺めながら、鈴麗はとりあえず整理してみようと思い立った。
(あの、一瞬だけ見えたのがたぶん芳姫様にかけられた眠りの魔術)
 初めて見るものだというのに、鈴麗はなんとなくではあるが、その構造が分かる気がした。
 あれを解けば良いのだということは、容易にわかる。ただ、鈴麗が昨日母にかけられた術を解いたようにはいかないというのもわかるのだ。触れただけであんな痛い目を見るのだから。
 鳳族の術士たちは、どうやってこの術に対抗していたというのだろう。
 鈴麗は懐に忍ばせてきた昨夜使った紙切れを取り出した。父が書き出してくれた魔術を解くための術の構造をもう一度確かめてみる。
(目覚めさせるんじゃなくて、芳姫様を取り巻いている術そのものをなくすのがこの術だから……)
 芳姫が受けた魔術の姿が先程朧げに分かったとは言っても、術を解けるほど理解できたとは言いがたい。
 とにかく分かるまで何度でも挑戦するしかないだろう。幸いにも芳姫の所を訪れる者はあまりいないようだ。龍炎以降誰もこの近辺を通って行く気配は感じられなかったし、せいぜいが様子を見にくる医者や術士くらいなのかもしれない。

 鈴麗は顔をあげて空を見た。まだ朱色に染まるほどでもないようだが、陽の傾き具合からしてもまもなく退出の時間となるだろう。
「今日はあと一回ってところかな……」
 もう一度確かめて、あとは家で出来る限りまとめてみるしかないだろう。
 腕を天へ向け大きく伸びをすると、鈴麗はもう一度廟の扉をくぐった。



「どうだったの?」
 夕餉の席で、まず開口一番光玉が言ったのがそれだ。鈴麗はその瞬間口に入れてしまった野菜の煮付けを飲み込んでからようやく答えた。
「ん、なんとなくわかった……ような気がするだけ」
「何、そのなんだか頼りない返答は」
 娘の言葉に母は苦笑する。
「ああ、きっとこれが芳姫様にかけられてる術なのかなっていうのはわかったけど、初めて触れるものだし、自信ない」
 それに、さわるとひどい仕返しがくるし。
 最後にちょっと愚痴交じりに言うと、母は目を丸くした。そして笑い出す。
「治療というのもなかなか大変なものだけれど、魔術も同じなのね。鈴麗は、こちらの処方や治療にうまく反応してこない相手に対してはどうするかしら」
 その言葉が自分に対する助言だと気づき、鈴麗は考え込んだ。
「……こちら側の対応を変えるんだね。同じやり方を続けてても駄目」
 解こうという姿勢で向かうから、抵抗されるのかもしれない。鈴麗側の向き合い方を変えれば、もしかすると上手く入り込める可能性もあるのだ。
 ご飯茶碗を持ったまま、鈴麗は呟いていた。
「うん、そうだね。明日はそれでやってみよう」
「もう少しの頑張りね」
 母の言葉に鈴麗は素直に頷く。一月前の悪夢の瞬間からすれば格段の進歩。芳姫を救う方法を自分が手にできるとは思えなかったのだから。
 すべて自分にかかっている。だからこそ、頑張れるのだ。



2008.2.17


Index ←Back Next→
Page Top