時の円環-Reconstruction-




 鈴麗が朝起きると、なんとなく家の中が雑然としていた。あちこちに物が積み重ねられている。昨日の夜まではきちんと収納されていた物ばかりだ。
「……どうしたの?」
 二人暮しには充分な家の中を飛び回っている母を見て、鈴麗は思わず尋ねていた。
「こうしてみるとけっこう色々なものがあったのね」
 どこから片付けよう、と母はため息をつく。が、その顔に困った様子はない。
「朝から何してるの」
「だって、七日しかないんでしょう。少しでも片付けないとと思ったのだけれど、出せば出すほど収拾がつかなくなるわ」
 それであちこちに物の山、というわけだ。

 七日後には、ここを捨てていく。――二度と戻らない、きっと。
 ここにある全てを持っていくことはおそらくできないはずだから、自分たちにとって捨てられないもの、そしてこれからに必要なものだけを持っていかなければならない。

「まだ、芳姫様も目覚めさせてないのに」
 鈴麗が苦笑すると、心外とばかりに光玉が頬を膨らませる。
「あら、できないはずがないでしょう。昨夜あんなに二人で話して大丈夫だって言ったのだから」
 それは娘と夫に対する絶対の信頼だ。もちろん鈴麗もそのつもりでいるのだけれど、なんとなく気恥ずかしくなってくる。
「ご飯、私が作る?」
「ご心配なく、もうちゃんとできてるわ」
 鈴麗が言うと、母は誇らしげに胸を叩いた。よもや気持ちが高ぶりすぎて眠れなくなって徹夜してるなんてことはないだろうか。一瞬そんな考えが鈴麗の頭をかすめる。
「鈴麗」
 思考を遮るように、母の声が響く。引き寄せられるように視線を向けると、母はにこやかに笑った。
「芳姫様を、しっかり助けていらっしゃい」



 父が書き付けてくれた紙切れをお守り代わりに懐に入れて、鈴麗は城へと参上した。門を通過し、ふとどうやって龍炎を呼び出したらよいのか、ということに思い当たる。
 芳姫が目覚め最初に見るのは、龍炎であって欲しいと思う。けれど、あまりに人に見られているのも鈴麗自身が集中できない気がするのだ。何より人々に鈴麗が魔術を使えることを見せ付けることにもなってしまうし。

 悩みに悩み、結局答の出ないまま鈴麗は芳姫の眠る廟に辿り着いてしまった。
(うう、龍炎様にどうやってきてもらおう……)
 それよりは日課となっている芳姫への面会を狙ってきたほうがいいだろうか。廟の扉の前で鈴麗が考え込んでいると、ふと背後で気配が動く。
「……鈴麗?」
 驚いて振り返ると、そこに立っているのは当の龍炎だった。今日も髪を上げておらず私服で、幸いなことに護衛は連れていない。まるで会うことを示し合わせたような巡り合わせに、だが鈴麗は運が良いと安堵の息を吐いた。
「龍炎様、今日はお休みですか?」
 この時間に朝服をまとわずにいるということはおそらくはそうだろう。鈴麗の問いに龍炎は穏やかな笑みを浮かべたまま頷いた。
「しばらく執務に追われていたので、昨日から休暇をいただいている」
 だからこそ昨日もここで会ったときに私服だったのかと鈴麗は納得する。しかし、なんとも都合がよい。
 やっと欠けていた物が元に戻るのだ。早く、二人が並んだ姿を見たかった。

 姿勢を正した鈴麗を見て、龍炎は驚く。
「龍炎様、今お時間をいただけますか」
「かまわないが。一体どうしたんだ?」
「今から、芳姫様にかけられた魔術を解こうと思うのです。上手くいくかどうか見守って……、芳姫様が目覚められたとき、お傍にいてくださいますか」
 二人のために頑張りたいと思う。いつでも見守っていてくれた龍炎と芳姫がいれば、頑張れる気がするのだ。
 鈴麗の言葉に龍炎は一瞬だけ何とも形容しがたい表情になったが、すぐに頷いてくれた。
「……そうか。わかった」
 それだけ言って、龍炎は鈴麗を追い越し廟の扉へと手をかける。慌てた鈴麗より早く扉を開くと、龍炎は静かに鈴麗を中へ導いた。主の婚約者、上の存在である人にこう丁寧な扱いを受けるのは何とも奇妙な気分だ。心のどこかで嬉しいという不謹慎な気持ちもわずかにあるのだけれども。

 廟内の冷気が外に零れてくる。冷えた空気に肌を撫でられ、鈴麗は我に返った。
 そんなことより、今はきちんと魔術を成功させることを考えなくては。
 鈴麗のあとに続いた龍炎が扉を閉め、廟内は再び冷気で満たされる。仄かな明かりが中央の寝台に眠る芳姫を浮き上がらせていた。
「では、俺はどこへいればよいだろう?」
 後ろから響いた声に鈴麗は振り返る。はたと気付いて鈴麗はわずかに考え込んだ。
「できるなら、私の反対側で見守っていてくだされば」
 そうすれば、芳姫が目覚めたとき、視界に龍炎が映るはずだ。龍炎は無言で応じると、奥へ向かい鈴麗の反対側から芳姫の顔を覗きこむ。
 ゆっくり呼吸を整えて、鈴麗は芳姫の眠る寝台の前に立った。
 ここまで一月。長かったなと思う。けれど、もしかしたらもっと長くかかるはずだったのかもしれない。
 一言芳姫に声をかけてから、鈴麗は彼女の手をとった。こちらを見ている龍炎の視線を感じる。触れ合う手から伝わってくる魔力の痕跡。それを解くべく、鈴麗は目を閉じた。



 魔術の形はもうわかっている。解かなければならないのはふたつ。複雑に絡まりあった魔術の構造が、鈴麗の目の前に『見えて』いる。
 父に予想された通りのものだ。おそらくは昨夜話し合った手順で進めれば大方問題はないだろう。

 糸を引くように、鈴麗は魔術を解くための鍵となる場所を探っていった。時々抵抗されて逆に力をぶつけられそうになったりもするが、なんとか耐える。しばらくして、鈴麗は手ごたえのある場所を見つけた。父が言った場所とまったく同じ。
(ここ!)
 ただ鈴麗の話を聞いただけなのに、これだけ正確に言い当ててみせる父を素直にすごいと思った。魔術・法術に堪能だという神族はみんなこうなのだろうか。相当な努力をしなければ並ぶことはできそうにないと鈴麗は頭の片隅で嘆息する。
『術を解くというのはかけた相手の意思と向き合うということ』
 父の言葉を思い返し、鈴麗は芳姫に触れていた手をゆっくりと離した。昨夜のことを思い出しながら、両手で静かに印を結んでいく。それに呪文を重ねて、ふたつの魔術を解いていくための術を作り上げるのだ。
 相手が術を使うときにこめた力とその意思と対決することがこの魔術の要点だと父は説明した。ただし、鈴麗が魔術を解く方法は若干視点が異なるから、相手の魔力の強さや術の意図には神族ほど左右されない。

 複雑な構造を壊すためには、それだけ対する術も長くなる。印を重ね呪文を紡ぎながら、鈴麗はだんだんと全身が重たくなっていくのを感じていた。意識をしっかり保っていないと、弾き飛ばされそうになる。今までの刺すような抵抗とは違う。
(これが、『相手の意思』……?)
 芳姫を眠りにつかせたのは、海苓、という人なのだという。どれだけの意思を以って芳姫を眠らせようとしたのだろう。
 ふと疑問に思ったが、意識を逸らせば抵抗に負ける。鈴麗はすぐに術の続きに戻り、残りの呪文と印を一気に終わらせた。
 芳姫の意識を眠らせ、身体の活動を押さえ込んでいる神族の術。
 それをすべて消滅させ、再び芳姫を目覚めさせる。
 相手の意思に負けないように、鈴麗はぶつけるつもりで魔術を発動させた。押し返すような抵抗を見せていた眠りの魔術は、だが道を開くように呆気なく抵抗を止め、驚くほど簡単にほどけていった。
(え……っ?)
 魔術の構造は、思ったよりも脆かったようだ。――否、それは少しずつ勝手にほどけているところだったのかもしれない。
 予想外の効果に鈴麗は驚き目を開ける。瞬間、澄んだ音が響いたが、それは鈴麗にしか聞き取れなかったようだ。

「芳姫様?」
 鈴麗が寝台を覗き込むと、状況を見守っていたらしい龍炎も一緒になって芳姫の顔を見た。
 どうか、成功していますように。
 祈るように手を組んで、鈴麗は固唾を呑む。すっかり痩せてしまった芳姫の瞼が、わずかに動いた。
「……芳姫」
 鈴麗の向かい側で、龍炎が目を見開く。二人が見守る中で、芳姫の瞳はゆっくりと開かれた。
 そして、鈴麗は一月ぶりに大好きな声を聞いた。
「……りゅう、えん?」
 芳姫がその目に最初に映したものは、運命の伴侶たる龍炎。鈴麗が安堵する中、龍炎はまだぼんやりとしている様子の芳姫に優しく微笑みかけていた。
「ああ、久しぶりだな、芳姫。お前を目覚めさせてくれたのは、鈴麗だよ」
「りんれい……」
 わずかに瞳が動き、その名の持ち主を探そうとする。鈴麗は嬉しくなってその顔を覗きこんだ。
「芳姫様、お久しぶりです。気分は如何ですか?」
 芳姫と目が合う。鈴麗の姿を見つけた芳姫は、とても嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、鈴麗は泣きたいくらいに嬉しくなる。

 しばらくして、芳姫の様子がはっきりとしてきてから、龍炎は芳姫の身体を起こした。ずっと横になっていたせいか眩暈を起こしそうな芳姫をしっかり支える龍炎を見て、鈴麗は微笑む。
 やっぱりこの二人はこうして一緒にいるのがいい。ずっと見てきたから、こうあるのが当然なのだと思える。
 まだまだ顔は蒼かったけれど、芳姫は龍炎に支えられたまま鈴麗に笑顔を見せた。
「鈴麗が、私を助けてくれたのね。ありがとう」
 もうこの言葉だけで報われる。二人の傍にずっといられたらと思っていたけれど、この言葉だけ持っていこうと鈴麗は思った。

「私、報告してきます」
 二人にそう言い置いて、鈴麗は寝台に背を向け廟を出ようとする。龍炎も芳姫も動けないし、もともと自分が行くつもりだった。だが、一体誰に報告するのが一番良いのか迷い、思わず足を止める。
 背後から龍炎の声が響いた。
「俺の護衛に伝えればいい。計らってくれるだろう」
「はい、わかりました」
 龍炎の采配は見事だと言えるだろう。実際鈴麗が芳姫と龍炎以外に近しいのは役目を同じくする芳姫の護衛と龍炎の護衛くらいだからだ。いつも傍に仕えている二人の青年たちならば、上手く他の重鎮や皇帝陛下に伝えてくれるだろう。
 今ここに執務中でない龍炎がいるなら、おそらく彼らは控え室にいるはずだ。そこならばなんら問題なく鈴麗も行ける。
 今まで何度となく通った廊を抜け、鈴麗は龍炎の護衛が控える部屋の扉を叩いた。



 鈴麗が芳姫の覚醒を報告した後の騒ぎは、それはもう末代まで語られるに違いないものだった。
 当然ながら、鈴麗の話を聞いた龍炎の護衛の青年二人は訝しげな顔をしたのだ。それも無理はない。けれど彼らは鈴麗の言葉を信じてくれ、一人は陛下への報告へ出向き、そしてもう一人は鈴麗と共に芳姫が眠らされていた廟へと向かった。
 そしてそこで奇跡の光景を目のあたりにした護衛の青年はひどく喜ぶこととなった。
 大分慣れてきたのかなんとか座っていられる芳姫は婚約者の護衛である青年に笑いかけてみせる。たいして時間が立たないうちに、もう一人の護衛を伴った皇帝陛下が直々に芳姫の様子を確かめに来て、そして彼は一月ぶりに愛娘と対面したのであった。

「芳姫様が目覚められたそうだ!」
「何、それは本当か!」
 その喜びは人伝にあっという間に王宮中に伝わり、この一月ひっそりとしていた廟は次々と人が訪れ賑やかさに包まれる。
 芳姫が目覚めのない眠りに落ちていたことで、鳳族はこんなにも活気を失っていたのだ。
 人で溢れそうな廟から早々に逃げ出していた鈴麗は、少し離れた回廊からその様子を眺めてしみじみと思った。ここ最近、こんなに賑やかな様子は王宮でも見かけていない。
 やがて、人々が流れを作り廟から出て行く。瞬く間に人が去って、驚くほどあたりは静かになる。最後に苦笑して人々を見送る龍炎が出てきて、廟の扉を閉めた。
 どうも芳姫は先ほどの人々に連れて行かれたらしい。
 鈴麗が首を傾けると、龍炎はこちらに気付いたようで笑ってみせる。再び眩暈を起こした芳姫を見て、皇帝陛下は慌てて担架を作らせもともとの芳姫の部屋へと運ばせたらしいのだ。
「いくらなんでもあれだけ人に囲まれてはな」
 皇帝の父としての慌てぶりを間近で見せられたらしい龍炎はまだ笑っている。どうして一緒に行かなかったのだろうかと鈴麗は眉をひそめた。芳姫についていて欲しかったのに。
「親子対面の邪魔はしないほうがいい。陛下は芳姫を大切にしているから」
 譲った、ということらしい。きっと芳姫は龍炎に傍にいて欲しかったのだと思うけれども。皇帝の娘への溺愛ぶりは知っていることだったから、鈴麗もそれ以上の言及は避けた。

 会話が途切れて沈黙が落ちる。
「……鈴麗は術が使えるようになったのだな」
 固く響いた声に、鈴麗は顔を上げた。龍炎がこちらを見る目は、どうしてかとても真剣な目をしていた。
 どう答えたものか。鈴麗は逡巡してから、ようやく頷いた。
「はい。自分でも驚いています」
 習得した経過を問われたら、なんと誤魔化したらよいだろう。龍炎は、鈴麗が魔術を覚えようとして何度も失敗しているのを知っている。今になって何故と言われたら。
 だが龍炎の言葉は、鈴麗が怖れていたようなものではなかった。
「鈴麗はまさか……」
 そのまま龍炎は口ごもってしまい、それ以上の言葉が続かない。鈴麗が待っていると、龍炎は諦めたようなため息をつき、視線を逸らしてどこか遠くを見つめた。さらに一呼吸分くらいの時間が過ぎてから、ようやく龍炎は鈴麗を見る。
「ありがとう、芳姫を助けてくれて」
 その声は鈴麗の心にひどくあたたかく響いた。芳姫に礼を言われたときよりも、さらに嬉しい。この人の役に立ててよかった、喜んでもらえてよかったと鈴麗は思わず微笑んだ。
「いいんです、私の望みですから」
 二人が並んで笑っていてくれること。それこそが鈴麗の一番の望みだ。かつてはその傍に自分がいられることを望んだ。今望むのは、これから先も分かたれることなく二人笑顔でいて欲しいということ。
 もう見ていることはできないけれど、どうかその笑顔がこれからも続きますように。



 芳姫の部屋へと赴いてみたが、人がひっきりなしに訪れているらしく、侍女が忙しく出入りしていた。
『あれだけ人に囲まれてはな』
 龍炎の苦笑混じりの言葉を思い出し、鈴麗は今日芳姫の様子を伺いに行くのを諦めた。本当は顔を見たかったのだけれど、診察なら医師がしてくれるだろうし、あまり疲れさせてしまうのも問題だ。
 なんとかまだ時間はあるから、また今度にしよう――と鈴麗は涙を呑んで回廊を引き返す。
 あとは母に報告しよう、と鈴麗は早々に退出することにした。仕官の時間があまりにも短いが、喜びに沸き立つ王宮の人々はさほど気にしないようだ。城門を出るとき門番がまったく見当たらなかったのにはさすがの鈴麗も呆れたが。

 自宅に辿り着いて門をくぐると、何だかとても嬉しそうな母が玄関で待っていた。
「うまくいったのね。もう城下のほうにも噂が聞こえてきているわ。門番もいないから、今ならお宝盗り放題だなんて物騒な冗談を言ってた人もいたけれど」
 道理で帰り道もなんとなく騒がしかったわけだ。けれど人々にとっては吉報だろう。鳳族守護の神女が敵対する神族の魔術から目を覚ましたということ。鳳族を繁栄に導く神女である芳姫は、まさしく民の希望なのだから。
「芳姫様にも、龍炎様にも、喜んでもらえたの。……本当に、よかった」
 確かに芳姫は目覚めたのだ。もうあの姿がやつれていくことも、龍炎の憂い顔を見ることもない。
 鈴麗の望みは叶い、そして時間は動き出す。
「お疲れ様。お茶を入れて一服しましょう」
「とっても疲れたよ、なんだか」
「それはそうでしょうね」
 母に労われ、鈴麗は全身の疲れを自覚しながら家に入った。


 今までの生活の終わりと、そして新たな始まりまで、あと七日。



2008.3.1


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