時の円環-Reconstruction-




 鈴麗と光玉は約束の日まで慌しく追われることになる。姿を消すことを、誰にも悟られてはならない。準備はだからこそ、周囲を憚りながら静かに進行されなければならなかった。
 ―――が。

「おや、光玉殿、今日はずいぶんと張り切っておいでだね」
 庭先に目一杯洗濯物を干し不要なものを片付けていた光玉と鈴麗に、通りがかりの隣人から声がかけられた。
 鈴麗が一瞬冷や汗を流す隣で、思い切り腕まくりをした光玉は満面の笑みで隣人に答える。
「ええ、芳姫様が目覚められて、鈴麗も休みを頂けたのよ! これはもう大掃除をするしかないでしょう?」
「はは、鈴麗も運の悪いことだね。よく母を手伝っておやり」
 うなだれた鈴麗を見て隣人は笑い、一言二言言葉を交わすと何事もなく去っていった。

「……すごいよね、母さんって」
「あら。こういうのは堂々としていればいいのよ。鈴麗の事だって嘘じゃないでしょう?」
 確かにしばらく休むようにと鈴麗たち芳姫の護衛が休暇を得たのは事実で、母が言った内容はまったく嘘ではないのだ。その本当の理由が伏せられているだけで。
 皇女を目覚めさせるため一月奔走していた娘がやっとゆっくりできる。その娘を利用して人手の要る掃除をしようとする母。
 どうしたって大掛かりにならざるを得ない片付けのため光玉が作り上げた状況は見事なものだった。誰一人母の言い分を疑わない。そしてばれやしないかと焦る鈴麗にご苦労様と労りの言葉さえ残していく。
「あとはここは母さんがやっておくから、鈴麗は自分の準備をしなさいな」
「え? いいよ手伝うよ」
 鈴麗が驚いて言うと母はこれ見よがしにため息をつき、小声で言った。
「何を言っているの。昨日だってあれだけ書物の整理をしていたのに、全然進んでないでしょう」
 耳の痛い話で、鈴麗は反論すらできず家の中に戻ることにする。

 自室に戻り、床一杯に広がっている本や紙束を見てため息をついた。
「確かにその通りなんですけどね……」
 どれを持っていき、どれを処分し、どれを置いていくのか。ひとつひとつ確かめるほどどれも惜しいような気がして、まったく選別が進まないのだ。これだけは必ずと選べたのは既に端に寄せてあるが、これもなかなか呆れる量である。
 椅子に座るより早いと置いた敷布の上に座り込んで、鈴麗は目の前の紙類を少しずつ分類し始めた。
「えーと、これは……」
 殴り書きのようなものは不要だろう。医学書から書き写してきたものはあとでまとめたほうがいい。同じものが書かれているなら、より詳しいほうを選べば良いだろう。

 そうやって少しずつ山を崩しているうちに、鈴麗はひとつの紙束を見つけた。
 なんだったかとめくり、ぎっしり書き込まれた文面に鈴麗は眉をしかめる。
「これ、煉(れん)国の資料……」
 その内容はかの国の一族が使うという『呪』についての報告書――-の草稿のようなものだ。それが何故鈴麗に言い渡されたのだったか、『呪』とは何か、魔術や医学で対抗できるものなのか、そういったものについて調べ上げまとめるために使った資料。あちらこちらにさまざまな書き込みがしてある。よく頑張ったものだと二ヶ月の苦労を鈴麗は思い返した。
「要るかな、これ……」
 努力の跡を思えばなんとなく持って行きたい気もする。しかし、と鈴麗はちらりと横目で山になった書物を見た。まだこんなに未整理の山があるのに、あれもこれもではさすがに持ってはいけないだろう。きっと母にも呆れられる。
 これは棚にでもしまっておこうと鈴麗は再び紙束をまとめて別の箇所に置いた。
「次は……これも報告書だよね……」
 今度は薬草に関しての報告書だ。どの生薬が鳳族領のどこでとれるか、他族の領地についてもいくらか言及されている。どうやら自分は何度も清書をして失敗や草稿を自宅に保管しておいていたらしい。もしかしてこの紙の山はほとんどこんなのばかりなのだろうかと自分で自分に呆れてしまった。
 そして結局のところ鈴麗は一日を費やしてようやく部屋の書物や紙の半分を整理しきったのだった。



 次の日、鈴麗は太陽も高く昇った頃城へ赴き主である芳姫の私室を訪れた。
「まあ、鈴麗、来てくれたのね!」
 寝台の上に身体を起こしていた芳姫は、訪問客の顔を見て表情を明るくする。三日前と比べても血色がよく、頬がいくらかふっくらしてきた気がする芳姫の姿に、鈴麗は安堵した。
 これならきっと大丈夫。元気になる。
「はい、お元気になられましたね、芳姫様」
「ええ、ずっと気分がいいのよ。いくらか動けるようになったら庭を散歩したいわね」
 どうやら芳姫の回復ぶりは彼女自身の自己治癒力だけでなく、継続して法術士から術を受けているせいでもあるらしい。これなら鈴麗がここにいる間に元気になり民の前に芳姫が姿を現すのを見られるかもしれなかった。
 昨日は顔を見に来られなかったのだが、鳳族の領地を去るまでは毎日顔を出そう――そう鈴麗は決意する。
 どうやらやっと話し相手を捕まえたと見えて、芳姫は鈴麗相手にひたすら話し続けた。どんな人が来て、あるいはどんな話をしてくれたのかを、事細かに話してくれる。どうやら客人は多くいたのだが、自分の話を聞いてくれる人に飢えていたらしい。
 眠りにつく前と変わらない芳姫の姿に、鈴麗は思わず微笑んだ。一ヶ月前、あんなに切望した姿。

 芳姫の傍らに座り、ひたすら彼女の話を傾聴していた鈴麗の耳に、遠慮がちに扉を叩く音が響いた。芳姫も気付いたらしく誰何の声を扉へ向ける。
「申し訳ありません、こちらに鈴麗殿はご在室ですか」
 応じた女官らしき人の声は、鈴麗の知らないものだった。芳姫がにこやかに返答する。
「ええ、話し相手をしてもらっているところよ」
 芳姫の許可を得て扉を開けたのは、やはり鈴麗の知らない年かさの女官だった。彼女は鈴麗と芳姫を前に臣下の礼をした。
「陛下が鈴麗に話されたいことがあると呼んでいます」
 休暇のところ申し訳ありませんが、と続いた言葉に鈴麗は首を捻る。皇帝陛下が自分に対して何の用事があるのだろう。 
 できれば今すぐとの話に、鈴麗は部屋を辞することにした。明日も来ることを芳姫に告げ、扉へ向かう。思い出したような声が背後に響いた。

「ねえ鈴麗。魔術が使えるようになったのね」
「え……はい」
 突然の芳姫の言葉に鈴麗は上ずった声で返答した。まずかったかと鈴麗は一瞬眉をしかめ、振り返って向き直る。対する芳姫は何も気にした様子なくにこにこしていた。
「龍炎に教えてもらったのよ。鈴麗が私にかけられた魔術を解いたのだって」
 魔術を使えるようになったなんて、頑張ったのね。何の含みもなく紡がれた言葉に鈴麗は顔を引きつらせた。
 隠すようなことではない。だが、芳姫がどうやって眠りから覚めたのか、龍炎しか見ていない。彼が告げない限り、鈴麗が報告しない限り、誰も真実を知らないのだ。
(ああ、もしかしたら――)
 今皇帝に召喚されたのはひょっとしなくても――鈴麗の頭の中に警鐘が鳴り響く。上手く事を切り抜けなければ。
 案内のため先行する女官の後ろで、鈴麗は静かに息を呑みこんだ。



 鈴麗が案内されたのは謁見の間だった。開いた扉の向こうに控える幾人もの重鎮の姿に鈴麗はたじろぐ。
 予想していたよりも多い。遙か奥の玉座におわす陛下、そしてその傍らに控える次期後継者龍炎。その下に官吏が列を作って並ぶ。
「よく来たな、鈴麗」
 値踏みするようなぶしつけな視線の中を歩き玉座の前まで来た鈴麗に向かって、現皇帝――つまり芳姫の父親はにやりと笑みを浮かべて言った。我に返った鈴麗は慌てて臣下の礼をとる。
「よいよい、礼儀など気にせずとも」
 陛下の声は鈴麗が怪訝に思うほどに弾んでいた。

 鈴麗にとって見れば、それ自体が驚嘆に値する事実だ。光玉が産んだ『神族の娘』が期待したような魔術の才を発揮せず神族の情報を手に入れることもできそうにないと知ったとき、彼はすぐに鈴麗に興味を失くした。
 愛娘の芳姫に強く願われたからこそ、異種の娘が皇女に仕えることも医術を学ぶことも禁じられはしなかったものの、それでも皇帝陛下が鈴麗を単独で呼び出すことなど片手で足りるほど稀だ。
 しかも、笑顔を向けることなど無きに等しい。だからこそ、最初に見せた笑顔が鈴麗に警鐘を鳴らすのだ。
 そしてその皇帝の傍らに無表情で立つ龍炎を視界に収めて、鈴麗は覚悟した。この官吏たちが居並ぶ中で、皇帝が鈴麗に対して何を言い出すのかを。
 芳姫の魔術を解いたときよりもひどく緊張しているという自覚があった。

「鈴麗。そなたが芳姫にかけられた神族の魔術を解いたそうだな。龍炎より報告があった」
「……はい」
 そのやり取りに鈴麗の背後がざわつく。交わされる囁き声。官吏たちにとってもそれは驚倒なのだろう。
 たぶん、龍炎の行動は間違ってはいないのだ。今まで何の方策もなかった芳姫の目覚め。それは神族に対抗するための手段でもある。だから鈴麗が魔術を使い芳姫を目覚めさせたのだと知らせることは鳳族にとっては益だ。
「面を上げよ、鈴麗」
 皇帝の言葉に従い、鈴麗は顔を上げた。
「今まで使えなかった魔術が何故ようやく使えるようになったのかはわからぬが……やはりそなたは『神族の娘』だったのだな」
 鈴麗は表情を変えないように必死だった。いずれ気付かれるかもしれないのだ、鈴麗と神族の繋がりを。あと数日間だけでも隠し通さなければならない。
「これからも芳姫に仕え、その力を役立ててくれ。我らにとってそなたの力は重要だ」
 それはつまり鳳族の役に立てと言うこと。そして、今までがそうであったように鈴麗はそれに逆らう力などない。
 目の前にいる皇帝はにやりという表現が似合う笑みを浮かべている。その隣にいる龍炎は意図的だとわかる無表情で鈴麗を見つめていた。そしてここに今いない芳姫が、退室するときに見せてくれた笑顔を思い出す。
 自分の訪問を喜んでくれた佳人に、鈴麗は心の中で謝罪した。
(申し訳ありません、芳姫様。私は……)
 今から自分は、嘘をつく。
 不思議だと思う。鳳族に対する忠誠は、ない。鈴麗にとって芳姫も龍炎も重要な人ではあるけれど、自分に優しくてくれる人は大事だけれど、それでも鳳族に対する恩義などないのだ。だからこそ、ここを捨てて神族のところへ行ってみようと思えるわけで。
 それでも。
 鳳族の頂点、皇帝の威圧に確かにひれ伏す自分がいる。鳳族ではない、『異種』なのに。
「……御意」
 かろうじて声が震えそうになるのを堪え、鈴麗は再び叩頭した。



 鈴麗の力が暴露されたため奇妙な雰囲気となった謁見の間から出て、鈴麗はゆっくりため息をついた。
(疲れた……)
 しかし、ぐったりもしていられない。あと数日の間に鈴麗と光玉の行動を気取られてはならないのだ。周囲には母がうまく立ち回っているが、王宮内では自分の行動がすべてだ。気を付けなければ。
 目下やるべきは部屋に残っている残り半分の紙の整理だ。そういえば控え室の自分のところも簡単にだが整理しておいたほうがいいかもしれない。芳姫の護衛のほとんどが休暇を得ている今ならちょうど良いだろう。
 仲間であった他の護衛が再び出仕する頃には鈴麗はここにはいないのだ。
 それを思うとなんとなく寂しく思わないわけでもないが――けれど、繋がりは一緒に芳姫を護衛しているということ以外にはない。

 今日はどうだろうかと控え室へ向かおうとして、鈴麗は背後に足音を聞いた。
「鈴麗」
 珍しく固い声が鈴麗を呼ぶ。驚きながら振り返ると、龍炎がひどく奇妙な表情でそこに立っていた。
「……すまないな、折角の休暇だというのに」
「いいえ、ちょうど芳姫様のところへ参上していましたので」
 鈴麗は困惑した様子の龍炎に笑った。鈴麗が魔術を使えるようになれば、人々の目が変わる。まさか皇帝直々に動くとは思わなかったが、遅かれ早かれ起きたことだ。
 しかし、龍炎は笑わなかった。その顔から困惑が消えると、見たこともない真剣な瞳が鈴麗を見据えた。
「鈴麗……これからも芳姫に……俺たちに仕えてくれるのだろう?」
 思わぬ質問に鈴麗は目を瞬かせる。内心は自分たちの行動を見透かされているのではないかと焦ったのだが。
 ああ、自分がいなくなったなら、龍炎も芳姫も悲しんでくれるだろうか、それとも裏切ったと罵るだろうか――。それだけ大事にしていてくれたのなら、嬉しい。
 芳姫を思ったときより、胸が軋んだ。それでも、皇帝へ向き合ったときよりずっと滑らかにその言葉は紡がれた。
「はい。これからも芳姫様に仕えたいと思います」
 嘘だ。だがこれを言わなければ隠し通せない。
 鈴麗の言葉を聞いた龍炎は、一瞬だけ訝しげな表情をして、だが安堵したように笑った。
「そうか」
 応じて鈴麗も笑ってみせると、龍炎は回廊を歩いていく。そちらは鈴麗が今しがた来た芳姫の私室のほうだ。今から団欒の時間だろう。二人が仲良く話している光景を想像して、鈴麗は心から笑顔を浮かべて龍炎の背中を見送った。




 
 そしてついに、約束の七日目。

 芳姫はすっかり元気になったようで、鈴麗が訪問したときには既に庭先に出ていた。お目付け役の龍炎も一緒で、鈴麗は嬉しくなる。
 明日には民の前に姿を出せるとの事で、それを見れないことが鈴麗は残念だと思う。
 この数日のうちに嘘を取り繕うのが上手くなったようで、芳姫の「明日も休暇だけど、私が元気なところを見に来てちょうだいね」との言葉に鈴麗はにこやかに頷けるようになっていた。
 あまり人に会うと余計なことに感付かれるかもしれない、と鈴麗は速やかに退出することにする。

 家に戻ると、玄関先で往診鞄を持っている光玉と鉢合わせした。
「……あ、最後の往診?」
 鈴麗が問いかけると母は笑って鞄を示す。春藍のところへ行っていたのだという。
 中に入ってさっさとお茶の支度を始めると、母は少しだけ寂しそうに言った。
「春藍さんの調子は良かったわ。何とか夏の間は平気そうだと思うけれど、よい医者に見てもらえるといいのだけれどね……」
 だが、条件よく見てくれたのは光玉くらいのものだろう。街中でようやく菓子屋を営む程度の春藍に他の医者にかかるだけの経済的な余力があるだろうか――と母は憂う。
 それを聞いて、鈴麗は母にもやはり心残りはあるのだと納得した。父と一緒に暮らすことを夢見ていたはずで、もう明日にもそれは叶うのに、それでも今自分を頼りにする人を思わずにはいられない。
「母さんも、やっぱり残ったほうがいいって思うこと、ある?」
 鈴麗が尋ねると、母はきょとんとした後笑った。
「そうね、鈴麗と同じくらいにはね。楽しみなこともあるし、不安なこともあるし、何より嬉しいこともあるし、――自分がいなくなったらどうなるんだろうって、心配することもあるのよ」



 自分の部屋を見回して、鈴麗はよしと頷いた。
 持って行くべきものは既に夕暮れ前に運び出してある。長年使った机と寝台、そして置いていくことに決めた書物や紙類が棚にきっちり納められていた。
(もう、ここには来ないんだね)
 それを思うと感慨深い。十五年以上、まだ二十年にはならないが長い付き合いの家だ。
「準備はいいの、鈴麗」
 様子を伺いに部屋を覗きこんできた母に鈴麗は振り返る。
「うん、こうすると少し寂しいよね」
「その割りにずいぶん持っていくものがあるようだけど」
「母さんだって同じでしょ。……と言っても二人とも服より本とか薬草のほうが多いよね」
 一部屋に集められた荷物は二人分にしては呆れるほど多い。これはきっと父に苦笑されるだろう。そしてその荷物の約半分は医学書やら薬草やらの医術関係のものばかりだ。
 求められているから、というだけではなくて、二人ともきっと医術を手放せない、ということなのだろう。それは仕方ないと思うのだ。鈴麗にとっても、唯一自信を持てるのは医学だから。
 魔術の力は父には褒められたけれど、神族に比べればたいしたことはない。彼らから見れば、幼子と同じようなものだろう。
 医学の地位はまだ低いと聞く。しかしそれでも、母には及ばないにしても、医学についてなら鈴麗は胸を張っていられると思うのだ。
「ねえ鈴麗。神族のところに行っても、医学の勉強は頑張りましょうね」
「うん。薬草も探しに行こうね」
 客人を告げる音が玄関から響く。顔を見合わせて、鈴麗は母と笑い合った。
 予定通り、約束の時間に父が来たのだ。



 一部屋に積みあがった荷物に、予想の範疇とはいえ父は笑った。珍しく豪快な笑い方だ。
「まだ色々残っているようだけれど、これだけでいいのかい」
 その質問には鈴麗も母も頷いた。あんまり持っていっても整理できないね、というのがこの七日間で得た二人の結論だ。
 夕食後、最後の片付けと後始末を終えて、父は荷物を納めた場所に向かい、山のような荷物を目の当たりにした。それでも呆れなかったのはさすがというかそれとももっと多いと思っていたのか。
「では、行く準備を始めるよ。家のほうはもういいのかな」
 父の言葉に母は頷いた。
「ええ、戸締りもしっかりしてきたわ。……私たちがいないとわかったあと、ここがどうなるかわからないけど」
「そうだね。それもなってみなければわからないことだな」
 両親のやり取りに、鈴麗はいくつもの顔を思い出す。
 おそらくは自分を『神族の娘』として利用を目論んでいたであろう皇帝と、明らかに見る目が変わった官吏たちと、不思議なほど真剣な目を向けてきた龍炎と、変わらぬ笑顔で出迎えてくれた芳姫。
 もぬけの殻になったこの家を見たとき、人々はどんな顔をするだろうか。

 母から水晶球を受け取って、父は床にそれを置いた。不思議にも球体のはずの水晶は固定されたかのようにぴくりとも動かない。
「二人とも、私の傍に来てくれないか。今から移動の術を始めるよ」
 父が何事かを唱え始めると、床の水晶球がわすかに発光を始める。それが術の媒体なのだと鈴麗は理解した。
 青白い光はゆるやかに円状に広がっていき、やがて三人のいる部屋の隅々まで行き渡る。父の黒髪がゆるゆると舞い上がっているのが見えたとき、鈴麗は周囲の空気がゆっくりと持ち上がっていくのに気がついた。
 力が流れていくのだと、今の鈴麗にはわかる。自分の髪や服の裾も、母のそれも、風に揺られるように舞い上がっているのだ。
 父の口から紡がれる呪文は、鈴麗には聞き覚えのないものだった。あるいは昔の言葉とか古代語とか、呪文のための言葉とか、そういったものなのかもしれない。
 力の流れはどんどん強くなってくる。押し流されそうだと思ったとき、父の声が響いた。
「あとは目を瞑っていなさい」
 その声に従って鈴麗は強く目を閉じる。上に向かって流されていくと思った次の瞬間、突然放り出されるような感覚がして、鈴麗は思わず身体に力を込めた。



「もういいよ、目を開けてごらん」
 笑うような声に鈴麗は恐る恐る目を開ける。最初に飛び込んできたのは光。そして明るく照らされる荷物の山と、先ほどと比べて明らかに広い部屋だった。
 当然ながら、先ほどまでいた鈴麗たちの家とは違う。
 ぐるりと視線をめぐらせると、驚きで固まったままの母がいた。
「……ここは?」
「ここは、私の家だ。――これからは三人の家になる」
 鈴麗の問いに穏やかな父の声が答えた。鳳族の自分たちがいた家よりきっと広いと鈴麗は確信する。こんな広い部屋、普通の家じゃない。
 そしてつまり、今の一瞬で鈴麗たちは鳳族の領地から新たな場所、神族の領地へ移動してきたということだ。
「一人で住むには広い家だろう? 三人で住めるのを楽しみにしていたんだ」
 父は今いる部屋を見回して、鈴麗に笑ってみせた。確かに一人で住むなら今いるのこの部屋だけでも充分そうだ。
「私たち、本当に神族の領地へ来てるのね……」
 母が呆然と呟く。確かに、この部屋の変わりようを見れば明確だが、あまりにあっさりしすぎて信じられない。妻と娘の様子に華瑛は静かに笑った。
「今日は遅い。荷物は明日以降でもいいだろう。明日には王にお目通りをしなければならないから、今日は休もう」
 寝室に、と案内される途中、鈴麗は窓から外を見たみたが、灯りが点在するだけでよくわからなかった。



2008.3.9


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