時の円環-Reconstruction-


16



 海苓の視線を追ってその姿を見とめたとき、最初に清蘭の心によぎった感情は明確に嫌悪だった。海苓を介してしか関わることはまずないが、できれば関わり合いにはなりたくない最たる人物だ。

 その日海苓にそんな場所ではち合わせたのは本当に偶然だった。休憩時間に入り一度王宮を辞して街へ戻ろうと治療院を出て程なくしたところに海苓がいたのだ。ごく偶に奇妙なところに何をするでもなくいることがある人なのだが、どうやら今日はそんな日だったようだ。
 何をしているのかと声をかけ、そのまま世間話に興じる。遠くの廊を渡っていく女官がこちらに意味ありげな視線を送っているのを視界の端にとらえて、清蘭はかすかに笑った。
 女性である限り、この穏やかに談笑する海苓を間近で見ることはまずできない。それもこれもあまりに才を持ち希代と噂される海苓を放っておかない女性たちに辟易しているからで、唯一それができるのは、清蘭だけだったのだ。
 ――今までは。

 話をしている途中、海苓の視線がふと動き、何かをとらえたようだ。会話が途切れ、清蘭が追って視線を向ける頃には海苓は相手に向かって軽く手を挙げていた。
 挨拶に応じにこやかにこちらに歩いてくる武官の青年。残念ながら、清蘭が彼を心底嫌っていることを海苓は知らない。正確には、互いに気の合わない部分がある、程度には理解しているのだが、そこまで激しく嫌悪しているとは思ってもいないだろう。
 合わない――というよりは、ある重要な事柄について見解とそれに伴う行動が真逆なのだ。妥協することはもちろんできない。
 何か大きな包みと数冊の書籍を抱えて、凍冶が清蘭たちの前へ辿り着いた。
「やあ、こんなところにいたのか」
 どうやら彼は海苓を探し歩いていたらしい。対する海苓は怪訝な顔で応じていた。
 正直なところ、医学の研究に没頭する『変人』である凍冶の姿が軍部棟で見られることは稀だ。そのせいで海苓は奇妙な表情をしているのだが、当の本人は何も気にしたところがない。
 凍冶の用件というのは海苓の力を借りたい、ということらしい。その詳細を聞かないうちに快諾するあたり二人の付き合いの長さが窺える。幼い頃からの親友同士だという二人であるから、清蘭としても凍冶に対する嫌悪を表に出すに出せない。
 だが、続いて投下された発言に清蘭は反応せずにはいられなかった。
「これを鈴麗殿から預かってきたよ。何だか君から借りた上着だそうだが、どの道会う用事があるからと私が代わりに持ってきたんだが……」
 そう言って凍冶が差し出してきた包み。海苓も心当たりがあるようで、なんでもないことのようにその包みを受け取る。
 ――それは一体、いつの話?
 海苓の毎日の行動を知り尽くしているわけではない。しかし、つまりは清蘭の知らないところで彼と鈴麗の接触があったということなのだ。しかも凍冶の言った通りなら、海苓はわざわざ彼女に上着を貸したのである。

 過去世の記憶が鈴麗に暴露されたあの日の、海苓の表情と噴き出した感情を清蘭は鮮明に思い出せる。
 用意された忌まわしき未来を変える――それが海苓と清蘭の共通する願い。
 海苓は自分の命が過去の誰かのためにあることを厭うため、清蘭は海苓とともに未来を歩んでいきたいがため。
 彼の過去世である『龍炎』は、自分の未来の姿を見て、鈴麗の傍に在ることを望み海苓の手にかかるのだという。
 異なる種族同士。結ばれるはずのない者。叶うはずのない想い。
 それでも転生を繰り返せば、いずれ彼女を傍で護ることができる。
 だから、今の海苓は『龍炎』の願い――託された想いのために存在する。
 遙か遠い過去の記憶が海苓の過去と未来を縛っていて、そこに関連するのが鈴麗なのだった。
 それでは、清蘭が一緒に生きていくことはできない。
 だから、捻じれた時間を戻すために未来を変えるのだ。
 本当に存在するべき運命にある人ならば、どんな道筋を辿ろうとも生まれ来るはず――神族にとって重要な存在である海苓ならば、運命を変えたとしてもきっと現れる。
 そうして初めて清蘭と海苓は同じ位置に立つことができるのだ。

 思わず絶句していると、凍冶は珍しく清蘭の方にも声をかけてきた。
「ところで、清蘭嬢。秀連(しゅうれん)殿は治療院にいらっしゃるだろうか」
「え……ええ。けれども怪我人にかかりきりだから、あと数刻は手を離せないと思うわ。何か用件でも?」
 虚をつかれてやや間抜けな声で清蘭が答えると、凍冶はもう一つ持っていた書籍を示してみせる。
「例の件の報告書を不完全とはいえ届けに来たのだけれど、そんな状態では出直した方がよさそうだね」
「渡すだけで構わないなら、私が預かりましょうか?」
「それならお願いしてもよいだろうか」
 清蘭が応じると、凍冶は書籍の間からひとまとめにされた数枚の紙を取り出した。手渡された一枚目の紙に目を走らせると、そこに書かれていたのは今回の戦の死傷者の詳細な報告と今後の対策について述べられたものであるようだ。
 それを見て、清蘭は例の件、というのが何のことであるか瞬時に理解する。
 街へ行く前に一度治療院に戻ってこれを提出することにして、清蘭は海苓に声をかけてその場を辞することにした。



 例の件、とは第三治療所で出てしまった死者に関連する事柄のこと。
 街での用件を済ませ、清蘭は再度治療院に戻る。今度はさすがに海苓や凍冶の姿はなかった。
 代わりに――というわけでもないが、治療院には新たな来客があった。正確には来客と言うには語弊があるのだが。

 先日の戦からしばらく経つが、治療院にはいまだ床について治療の順番を待つ兵士が多くいた。ささやかながら用意されていた寝台がすべて使用中なのだ。
 ごく軽傷の者たちは法術を受けず手当のみで済ませてあるが、それでも法術士の治療が必要な者が数十人いる。腕などの骨折でなんとか生活できる者に至っては自宅療養を余儀なくされている者も少なくない。
 法術士の消耗を考慮しながら治療を進めており、清蘭もちょうど休憩になったので街へ出たのだった。
 今回大活躍だった医術のおかげで、治療を待つうちに相当回復する者もいたりする。法術師側としても法術の使用が抑えられるのはありがたい話なので、治療院に彼らを迎え協力体制をとっていた。

 そうして今日訪れているのが鈴麗だ、というわけだ。
 慣れた手つきで薬を塗り、包帯を取り換えている。傷の様子を見ながら兵士にそれを伝えるので、手当てを受ける側も安堵するらしく表情がよい。彼らにしてみれば、こんな怪我を抱えて数日過ごすこと自体があまりない経験なのだから、相当な不安があるらしかった。
 その様子を横目で見ながら、清蘭は鈴麗のいる部屋とは違う治療用の部屋に入る。
 医学、医術の心得のある者――医師と法術士とで見立てたより重傷の者を順番に運び、一人ずつ法術を施していくのだ。戦の翌日あたりなど、数人で一人癒すのがやっと、などという状況もあったのだが、この頃は一人で一日に数人を癒すこともできている。自宅療養する兵のところへ法術を施しに行く者も交代で休んでいる者もいるのだが、この調子であれば数日で治療院を空にできるのではないかと思われた。

「ああ、清蘭戻ったか。次の患者が入っているので、頼む」
 部屋の中では上司である秀連がつい先刻清蘭が手渡した書面を見ながら声をかけてきた。
「はい。どこの損傷ですか?」
「この間胸の創傷を癒した奴だ。残っていた右足の骨折を治療する。大腿のちょうど真ん中あたりが折れているようだ。骨の位置がずれたりはしていないらしいので接ぐだけでいい」
「わかりました」
 秀連が告げたのは医師たちの見立て。これを聞くことで清蘭たち法術士は格段に消耗が減ったのだ。どの部分に力を注げばいいのかわかるのは、ずいぶんと楽だった。
 医学というのは意外と役に立つものであるらしい、というのが最近の法術士の認識である。
 治療場はせいぜい二人同時に術を使うことができる広さしかないが、ちょうど今の時間清蘭以外に治療にあたっている法術士はいなかった。休憩中、ということなのだろう。
 寝台に寝かされている兵を見て、清蘭は早速法術に取り掛かった。



 いくら負担が減ったからと言って、そう簡単に法術を頻発できるものでもない。聞いた話では折れた骨が自然にくっつくには数月かかる場合もあるらしい。それだけのものを法術で治してしまうのだから、やはり消耗は激しいのだ。
 骨折の治療を終えて、清蘭は茶をもらって一息ついていた。この調子であれば、少し軽傷の者なら夕刻までにもう一人くらいは治療できそうだ。なんといっても彼女は法術士の中でも能力が高い方なのだ。
 書類を読み終わった秀連は清蘭の様子を確認してから手ごろな患者を見立てに出て行っている。部屋には清蘭ひとりきり、静けさが耳に痛いほどだ。
 湯呑に残っている茶を一息に飲み干して、清蘭はため息をついた。
 ずっしりと肩が重い。今日が終われば明日は休養となっている。実際のところ一日寝ているくらいでないと疲労が取りきれないのだ。しばらくはこの繰り返しだろう。

 入口に扉はない。そちらの方から音がして、清蘭は顔を上げる。
「あの……」
 恐る恐る、といった様子でこちらを窺う少女を見て、清蘭は怪訝な顔をした。神族の父親と鳳族の母を持ち、純粋な神族とはまた異なると思われるのに、思わず目を見張るほどの艶やかな黒髪が揺れる。まさか自分に話しかけてくるとは思わなかった、鈴麗である。
「治療しているところ、見ていてもいいですか?」
「……手当ての方は終わっているの?」
 答える声が、疲れているという以外の理由で冷淡になるのも仕方ないことだと清蘭は思う。鈴麗の方にも何かこちらに対して思うことはあるようなのだが、それでもはっきりと返事をしてきた。
「はい。包帯も消毒して干してきました。掃除も終わってます」
 彼女がこうして治療風景を見学したがるのは、別に今に始まったことではない。法術の勉強は始めたばかりも同然で、様々な人の術の様子を見て何か学べるものがあるらしい。たまたま居合わせることが少なかったからか、それとも鈴麗側でも清蘭を避けているのか、今まで清蘭のところに彼女が来たことはなかったのだが、残念ながら今は清蘭しかいない。
「悪いけれど、あまり近くに他人がいると気が散ってしまうの。部屋の端で離れていても良いのなら、見ていてもいいわ」
 あまり彼女に近付かれたくないというのも本音であるが、今の状況で近くにいられても集中できないというのも事実だった。
 清蘭の淡々とした返答にもかかわらず、鈴麗は表情を明るくする。あたりを見回してから、床に描かれた陣を避け、入口から少し入りこんだところの壁に寄りかかった。

 程なくして秀連がもう一人の法術士とともに怪我人を運んでくる。またも足の骨折であるが、先ほどの患者よりも程度が軽く、消耗は少なくて済むと予想できた。
 固定に使われていた添え木を外し、患部の状況を見て、清蘭は法術を開始する。じっとこちらを見つめる鈴麗の視線がわずかに意識に入り込んでくるが、努めてそれを振り払うようにして術に集中した。
 一挙手一投足を眺め、どんな風に法術を使うのか観察しているのだろう。
 そんな視線を向けられては、こちらとしては真似できないほど完璧な法術を使って見せるしかない。なんとなく意地になってきて、清蘭はいつにない速度で呪文を紡ぎ印を結んでいく。
 淡い光が患部に収束すると、熱を持ち腫れていた皮膚も含めて骨折は完全に治癒された。兵の顔からすっかり元に戻ったことがわかる。
 教本に理想と書かれるほど完璧な法術の発動だった。清蘭自身でも年に何度できるか否かというほどの出来だ。本来なら重くのしかかってくる疲労がほとんどない。
 横目で見学していた鈴麗を見てみると、目を丸くして驚いていた。しばらくして目が輝きだす。そこに宿っているのはどう見ても羨望的――むしろ憧憬的な色だ。頬が紅潮しているあたり、少なくとも清蘭の法術を見て打ちのめされた、という感じはない。
 ほんの少し期待はずれで、しかしなんとなく気恥ずかしく清蘭は視線を元に戻す。

 秀連に促された兵士が寝台から身を起こし、立ち上がった。今まで骨が折れていたとは思えないほどごく自然な身のこなしで、秀連や鈴麗どころか彼自身が驚くほどだ。
「さすが神族一の使い手ですね」
 兵士の賞賛に笑顔を返して、清蘭は体を休むべく退室する。まだ入り口近くの壁で固まったままの鈴麗に顔を向けた。別に無視したまま出て行ってもよかったのだけれど。
「――何か勉強になったかしら」
 鈴麗は話しかけられたことに驚いたようで、一瞬間をおいて満面の笑みを浮かべた。まとめられた黒髪が腰のあたりで揺れている。
「はい!」
 何が、とは聞かず、清蘭はそのまま診察室を出た。奇妙な気分に陥って、清蘭は軽く頭をかいた。
 

 彼女に関するしがらみが何もなければ、よい後輩ができたとでも微笑ましいところなのだが。



2009.12.12


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