時の円環-Reconstruction-


17



 青空に向かって屹立する石碑。
 神族が未だ道半ばに在る者であることを示し、なお一層の鍛錬を促すもの。神族における寄る辺だ。鳳族の寄る辺が、比翼の魂を持つ皇族の存在であるように。
 だが――それを見上げる鈴麗には未だにわからなかった。
 この石碑が、ここに書かれた文章が、自分の支えたりうることが。
(神族になるっていうの、結構難しいのかも……)
 幼い頃から鳳族の世界に身を置いていたせいで、価値観も染みついているのかもしれない。どうにも父親から説明されたそれが馴染んでこない。
 天候は穏やかで、森に包まれているせいなのか陽光も温い。無風のそこに佇んで、鈴麗はぼんやりと石碑を見つめる。しばらくしてから、重くため息をついた。

 凍冶たちと繰り返される法術の分析もうまく進んでいない。次の戦までには形にしておきたい、というのが彼らの考えなのであるが、同じ所で躓いている。鈴麗がうまく言葉にできないところが、今回の傷口から入った毒を浄化する術の肝心なところであるようなのだが、そこをうまく伝えられないでいるのだった。
 法術士がなんなく使って見せる法術を鈴麗がただ真似ることができないように、鈴麗が感覚的に法術を組み立てるようなことを彼らはできていないのだ。凍冶も江普(こうしん)も辛抱強く付き合ってくれるのだが、説明する当の鈴麗の方が焦ってしまう始末だった。
 それでも、まだ彼らがいてくれるからいい、とは思う。できる限り鈴麗の視点に近付こうと努力してくれる二人がいなければ、神族相手に説明できる気がしなかった。特に凍冶は鈴麗の言い回しを高確率でうまく通訳してくれるのだ。それを以てしても未だ鈴麗と神族の溝は埋めきらないが。

『なかなか難しいものですね。海苓の表現や考え方も時々妙だと思うことがありましたが』
 鈴麗の説明の仕方が海苓と似ていると凍冶は言っていた。
(自分のものじゃないただの記憶でも、やっぱり何か影響するのかな……)
 ふと考えてみる。彼と鈴麗にだけ共通するものがあるとしたら、それは鳳族における何かになるだろうか。鈴麗はその感覚の中に、海苓はその記憶の中に。けれど、海苓は神族として生まれて神族の中で生きてきた人だ。
 訊いてみたい。今自分が引っ掛かり表現できずにいる部分を、彼ならどう現すのか。鈴麗よりも容易く神族に伝えてみせるか、あるいは凍冶や江普と同じように及びもしないことなのか。
 実際に訊けるはずもなかったのだが。海苓との関係性を考えれば、もっと先に訊くべきことはたくさんある――。
 自分の意識がつい先ほどまで悩んでいた事柄から逸れたことを鈴麗は自覚する。
 もう一度深く息をついて、鈴麗は家に戻るべく石碑に背を向けて歩き出した。



 神殿を抜け、王宮の中の決められた通路を歩く。最初は見事に迷子になったわけであるが、さすがにもう迷うことはない。
 所々の調度を眺めながら鈴麗はつい先ほど頭に思い浮かんできてことを考えていた。
 新たな法術を次の戦までにまとめなければならない。その他にも個人的に鈴麗は考えなければならないことがある。

 ――神族との戦の中で、海苓によって龍炎は討ちとられる。
 次の戦か、もっと先の戦か、それは全く分からない。けれどそれは定められている宿命で、だからこそ海苓は今存在しているというのだ。
 それが本当なら、龍炎と芳姫は引き裂かれてしまうということになる。芳姫は一人残される。もう二度と会うことは叶わなくとも、ずっと慕っていたあの人が嘆き悲しむのは嫌だ。
 それを防ぐためには。
(龍炎様が死ぬ未来を変えるにはどうしたらいいの)
 どうしたらいい。神族と鳳族とに戦が起こらなければいいが、それは無理だ。龍炎か海苓が戦場にいなければとも思うがそれも不可能のような気がする。龍炎が他の者に討たれれば――それでは意味がないではないか。
「あれ……でも」
 思わずつぶやき、鈴麗は慌てて口を塞いだ。あたりを見回してみるが、幸いにして見えるところに人影はない。鈴麗はほっと肩を撫で下ろす。

(海苓様が龍炎様を討つ、っていう未来が変わったら、海苓様が生まれてくる条件が消えてしまうんだから……)
 海苓の時間の流れは捻じれているはずだ。その未来が変われば、海苓が存在するという過去と今が変わる。海苓の存在が消えたとしたら、その先の時間はどうなるのか。
 ――海苓がいなかったら、芳姫が眠りの魔術をかけられることはなかっただろうか。
 もし、芳姫が深い眠りにつくことがなかったら。あの戦で鳳族はよりよい戦績を出していたからも知れない。少なくとも無残な惨敗を喫することはなかったはずだ。死者の数もきっと少なかった。芳姫を護るために法術士たちが力を尽くして怪我人の治療が遅れることもなかったし、それから一月も鳳族が苦しむこともなかっただろう。
 そして、鈴麗も魔術を使えるようになろうと必死で努力することもなかったはずだ。あのまま、芳姫と龍炎に仕え続け、未だ母と共に鳳族の街のあの家に住んでいたはずで。父がいくら神族にかけあったとしても魔術の使えない神族が認められることはなかったのだから、神族の地に移住するのだってずっとずっと先になっているに違いない。あるいは芳姫たちの傍にいたくて、一人だけ残るとごねたかもしれない。
 少なくとも、『そこ』にいるのは今のような法術を使える鈴麗ではない。
(全部、変わるの?)
 未来が変わり過去も変わる――時間の流れが再構成されると、何が起こるのか。ただ、海苓が存在しなくなるだけではないはず。
 もしかしたら、すべてが終わった瞬間、鈴麗は再構成された時間の中、ここではない場所に立っているのかもしれなかった。

 何か寒いものが背中を走り抜けていった気がする。急に髪を煽られて、鈴麗は自分が王宮を出て渡り廊へ出ていることに気がついた。
 中庭に出たすぐそこには人目から隠れて東屋があったはずだ。鈴麗は惹かれるようにそちらを見て、そこに人影を発見した。誰かいる。腰かけて何かを見ている。一番最初に認識できたのはその髪の色――特別茶の混じる明るい色をした黒髪。
「――」
 それが誰なのか確信して、鈴麗は中庭に降りた。伸びた草が足を撫でるのもかまわず、鈴麗は足場となる平石の上を渡っていく。

 東屋の中にいる青年は、腰かけて柱に寄りかかり、足を組んですっかりくつろいだ姿勢だ。膝の上にある書類らしきものへ目を落とし、時折頁をめくったり戻したりしては何か考え込んでいる。その真剣な表情は、今まで見たことのあるもののどれとも異なっていた。
 さわさわと鳴る風に、鈴麗が最初に見つけ出した髪が揺れている。
 柔らかい靴底が音を立てることなく歩いていても、気配を感じるらしい。鈴麗が相手の姿をはっきり見えるところまで近づいたときには、向こうも顔をあげてこちらを見ていた。
 何の感情も見えない瞳に、心が震えそうになる。睨みつけているわけではないけれど、憎しみの込められた光はないけれど、だからこそあっという間に豹変するから。
 つい先ほどまで考えていたこと――それを頭の中で反芻しながら、鈴麗は恐る恐る口を開いた。
「海苓様」
 思った以上に声が掠れ、鈴麗は内心焦る。海苓はわずかに目を瞠ったが、その顔に浮かぶ表情にほとんど変化はなかった。
(でも、これを言ったら、きっと)
 彼の表情は変わるだろう。それはもう確信で、鈴麗はだからこそ胸の中で渦巻き始めた緊張を振り払うように息を吸い込む。
「……教えてください。龍炎様が、亡くなるときのこと」
 海苓は、『龍炎』の名に過敏に反応した。瞬間的に眉がしかめられ、険しい表情になる。
 鈴麗は眼を逸らしはしなかったが、射竦められて肩がわずかに震えたことだけはどうすることもできなかった。
「何も知らなかったら、芳姫様も龍炎様も、助けられません」
 振り絞るように訴えると、海苓の表情がわずかに緩む。ほんのわずかだけで、鈴麗には何の救いにもならなかったが。瞳は冷たい光を帯びたまま、鈴麗をまっすぐ見つめていた。
「未来を変えられるか?」
 少し考えた後、海苓はそう問い返してきた。

 未来が変われば過去が変わる。
 それは海苓の存在の消滅を意味するかもしれないということ。
 海苓が存在しなければ、過去の戦も変化してしまうかもしれないということ。
 ――その結果、鈴麗が法術を習得することはないかもしれないということ。
 それは今現在の有り様すら変わるということ。

 石碑の前から戻る間考えていた事柄が、鈴麗の脳裏を駆け抜けていく。思うことも願うこともあって、恐ろしく感じることもあって、自分では考え切らないこともたくさんあって、鈴麗の頭はこんがらがりそうだった。
 それでも、今言える答はひとつしかない。護りたいものがあって――怖いこともある。
 鈴麗は貫くようにまっすぐ見つめてくる視線に耐えきれず顔を逸らしていた。
「変え、ます」
 芳姫と龍炎を護る。あの二人の幸せがこれからも護られることが、鈴麗の一番の望み。

 しばらく返答はなかった。静かな風のざわめきだけが響いている。あまりに続く沈黙にどうしたものかと鈴麗がそっと視線を戻すと、海苓は膝の上に置いていた書類を閉じて横に置いたところだった。
「そこに座るといい。立って聞いているのはひどいだろう」
 海苓は自分の向かい、空いている腰かけを示す。そこは今よりもずっと彼との距離が近くなるため鈴麗は若干遠慮したかったのだが、そこに座るまでは海苓が話しそうにないこともわかったので、仕方なく東屋の屋根の下に入った。
 少し足を伸ばせば触れ合ってしまうほどの狭さしかない東屋で、二人向かい合って座る。
 いつかもこんな風なことがあったと鈴麗はふと思い、そしてすぐに思いついた。
 たまたま二人この東屋で行き合い、それぞれ本を読んで過ごしたのだ。何か言葉を交わし、自分の読む本や相手の読むものについてやり取りするわけでもなく、風の音鳥の声を聞きながら、無言で読書に興じていた。それでも居心地がよかったことだけははっきり覚えている。
 たぶん、戻れない。あのときはあんなに優しい雰囲気だったのに。
 敷き詰めた針の山にでも座っている気分で、鈴麗は海苓が話し出すのを待った。

 それは、これから先に起こるはずの、遠い昔の思い出話。



2010.2.16


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