時の円環-Reconstruction-


20



「ごめんなさいね。でもいい機会だと思ったから」
 清蘭の声は周囲に配慮してそれほど大きな声ではない。未だしゃがんだままの鈴麗にも聞き取れるくらいではあるが鈴麗は彼女を追いかけて立ち上がった。並んでしまえば、身長はほぼ並ぶ。靴底の厚みが違うから、それを考慮すれば間違いなく鈴麗の方が高い。
 誰もかれもがしゃがみ込み、地面に視線を向けていて、二人のように立っているのはごくわずかだ。光玉たちのようにあちらこちらを巡り指導する者たちと、少し離れた所から人々を見守っている護衛の者たちと。時々立ち上がってやおら腰を叩いている者もいるが、鈴麗たちの動きに気付いた様子はない。

「海苓の過去世は、あなたにとって何にあたる人なのかしら」
「え……と、仕えていた人の、生まれたときからの婚約者、です」
「そう……それじゃあ、あなたにとってはどんな人だったのかしら」
「私にとって……?」
 主の生涯の伴侶。鈴麗が初めて会ったときから、龍炎は芳姫の婚約者としてそこに居た。鈴麗にとっては清蘭に答えた以上の表現はできない。
 しかし、彼女の瞳に在る光を見て、鈴麗は考え込んだ。たぶん、彼女が訊きたいのはそういうことではないのだろう。鈴麗にとっての龍炎の存在は――。
 神族の娘として価値付けられた鈴麗を初めてただの娘として扱ったのは、芳姫と龍炎だ。主と仰いで仕えてきたが、ときには姉や兄のような態度で接してくれていた。
 二人ともいつでも優しくて、常に鈴麗のことを気にかけ世話をしてくれたのだ。彼らに褒められると本当に嬉しくて、いつも以上に頑張れた。そしてあんな風に在りたいと目標にも思える人たちだった。
 だから――やはり、鈴麗にとって特別な人であるのだろう。
 自分でも思考があちらこちらへ迷ったのだから、その言葉を聞いていた清蘭に自分の気持ちが正しく伝わったとは思えない。
 それでも清蘭は鈴麗の話を静かに聞いている。鈴麗の言葉が途切れたところでふっと息をつくと、強い視線をこちらへ向けてきた。
「特別、な人、ね。きっとその人もそう思ったのでしょうね――だから海苓がここにいるのだそうよ。あなたに逢うために……」
 芳姫の運命の伴侶であるはずの龍炎は、鈴麗に逢うために海苓へと転生することを選ぶ。
 鈴麗にはどうしても納得のいかない不思議な話だ。あんなに仲のよさそうな二人だったのに。幼い頃からずっと一緒にいて、結ばれるべき相手だと娶せられて、それでもその宿命に疑問を差し挟む余地もないほど、まるでつがいのような二人だったのに。
「あなたはどうなの? それは嬉しいことなの?」
「……」
 その清蘭の質問は、鈴麗にとっては予想外のものだった。――嬉しい?
(嬉しい……? そうなの……?)
 明確に思いつく感情は、困惑だ。どうして龍炎がそんな選択をしたのか、どう考えても解せない。けれど、それは鈴麗自身にとって嬉しいことなのだろうか。運命まであるはずの伴侶を捨てて鈴麗を選ぶことが?

 清蘭は鈴麗の答えを待たなかった。はずされた視線を鈴麗が追うと、その先には海苓がいる。
「海苓にしてみたら、どうなのかしらね。自分ではない誰かの記憶――逢ったこともない人への気持ちがあって、その強い想いが自分の存在価値のすべてだなんて、苦しいと思わない?」
 生まれたときから決められていること。結ばれる相手が決まっていること、自分の感情の行方が用意されていること。存在する意味が一方的に与えられること。
 それが苦しいことかどうか。きっとその本人がそれを受け入れられるかどうかだろうと鈴麗は思う。であれば、海苓はどうか。答えは簡単だ。あのときの表情がすべてを物語っている。
 馬鹿げていると思わないかと、彼は言ったのだ。
 そのやり取りのときの海苓の一挙手一投足を、鈴麗はすべて鮮やかに思い出せる。それより前、石碑の前で起きた出来事も合わせて、あの場面をもうきっと二度と忘れないだろう。
 脳裏にそのときの冷たい光を放つ瞳が蘇り、鈴麗は体を震わせた。
「私は彼を苦しめる記憶から解放してあげたいと思ってる。あなたはどうしたいの?」
「私……」
 清蘭から重ねられる質問を、鈴麗は静かに反芻する。返すべき答はもうずっと前から用意されているはずだった。海苓にもそう答えた。
 芳姫と龍炎の幸せを護る。二人が引き裂かれる未来を変える。それはつまり。
「私が言えることはこれだけ。あなたが何を望んでいるとしても、彼を記憶で縛りつけるのを止めて。それだけでいいの。本当に運命が決まっているのなら、どんな道筋を通っても必ず出会える――そういうものじゃないかしら」
 清蘭の声は凛として、紡がれる内容にも迷いがない。
「そろそろ終わりにしましょう。さすがにもう作業に戻らなくては、役立たずになってしまうわ」
 続けられた言葉で鈴麗は我に返った。今まで違う場所にいたのではないかと思えるほど急激に周囲のざわめきや匂いが飛び込んでくる。人々のやりとり、土の匂い、風に吹かれる草の香り。そう、今は薬草学の講義の最中だった。そろそろ鈴麗ももう一つの仕事に取り掛からなければならないはずだった。
 清蘭は道具を拾い、さっさと鈴麗の傍から離れて別のところへ向かっている。その背中に鈴麗は慌てて声をかけた。
「あのっ、でもそれじゃあ、未来だけじゃなくて――」
 過去も変わる。海苓の魂の時間の流れも含めて、すべてが変わってしまうのだ。
 鈴麗が言わんとしたことを、清蘭も分かっていたのだろう。けれど振り返った顔は何ひとつ不安を抱いていないようだった。
「ええ、そうね。でも、海苓は神族にとって必要な人よ。『証明者』が現れるのは今の神族には必然。だから、たとえすべてが変わっても時の流れが必要と見なすなら、彼はまた生まれてくるでしょう」
 そう言い切る。そして、彼女は海苓の出現こそが揺らぐことのない宿命だと信じているようだった。


 
「……そろそろ、薬草採取しなくちゃ」
 鈴麗はそれだけをようやく呟いた。地面に置いたままの採取袋をのろのろと拾い上げて辺りを見回す。あちこちで談笑しながら作業が進められており、もう鈴麗が指導しなくてもよいように思われた。
 目的の薬草がありそうな場所を探し、まだ手つかずの草むらへ踏み込む。若干輪から外れた形ではあるが、鈴麗が一人違う目的で動くことは護衛にも伝えられているという話であったし、前のようなことをしなければ大丈夫だろう。
 土を掘るための小さな匙を腰の鞄から取り出して、鈴麗は目を付けた場所へしゃがみこんだ。
 目的の薬草は、今回講義で採取している薬草の群生の中に混じって生えていることが多い。しかし、その生えている数は少ない。
 当然ながら気をつけないと土を掘り返すときに埋めてしまったりすることもあり、本来はこの二種は一緒に採取するように指導されるのだが、今回はあえてそうしていないのだ。
 だから、彼らの輪から離れて仕事をしなくてはならない。
 そっと株を分け、その根元を確認する。群生は多いが、目的の薬草にはなかなか当たらない。もしかしたら練習用の場所にあったのかもしれないが、そこから探すのはさらに至難の技だろう。
 鈴麗はある意味勘だけを頼りに目星をつけ移動しながら薬草を探していった。

 どれほど探し、場所を移動したであろうか。どうやら勘が当たったらしく採取袋にようやく二、三株がおさまり始めたとき、鈴麗の肩を誰かが突然叩いた。
 持っていた匙を取り落としそうになるのだけは何とか防ぐ。何が起こったのか分からず、とっさに背筋がぴんと伸びる。鈴麗はそれからようやくゆっくり叩かれた肩の方を振り返った。
「……なるほど、前ばかり向いて動くからはぐれるのか……」
 呆れたような表情で鈴麗を覗き込んでいるのは、海苓だった。
「!?」
 鈴麗は色々な意味で固まって動けない。何故突然肩をたたかれたのか、いやそんなことより何故彼が自分に声をかけるのか。少し前清蘭と話していた内容まで頭の中を駆け抜けていく。
「たまには後ろや横も確認した方がいい。これではまた迷子になる」
 海苓に諭されて、鈴麗は彼の背後に目を向ける。――つい先ほどまで近くにいたはずの人々が皆遠かった。否、鈴麗が一人遠ざかっている、ということだが。
「あれ……」
「もしかすると、昔からそうなのか?」
 反論の余地もない。夢中になるとあたりかまわず薬草だけを追って動いていくのだ。それでも鳳族のところにいたときは完全に放置されていて姿が見えなくなっても誰も構わなかったのだが。
「鈴麗」
 その声は、力があると思う。名を呼ばれて、項垂れていた鈴麗は勢いよく顔をあげた。
「戻るぞ。これでは離れすぎだ」
 海苓は既に歩き出している。だが鈴麗としては。
「これ以上絶対に動きませんから。ここで採取していてはだめですか」
 そう言わざるを得なかった。折角立て続けに見つかっている、きっとここに充分群生しているはずだ。海苓はますます呆れた顔をしたが、こればかりは譲れない。
「本当に動かないな?」
「はい」
「……ならいい」
 念を押してくるのに何度も頷くと、海苓は微妙な表情をしてはいたがそれ以上は何も言わずに立ち去った。

 鈴麗は何とも言えない気分でその背中を見送る。すっと肩から力が抜けて、海苓が傍にいる間自分がひどく緊張していたことに気付いた。まだ心臓が忙しない。まさか、この場で海苓と話すことがあろうとは思わなかった。
 気を取り直して、鈴麗は再び作業に戻る。予定数にはすぐ達したが、もう何株か余計に採取していた方がいいだろう。動かない、と約束したのだからこの場で採れる分を確保しておこうと決める。
 ゆっくり土を避け根を掘り出す作業をしながら、しかし鈴麗はひどく落ち着かない気分だった。背中にずっと視線を感じる。
 恐る恐る振り返ると、少し離れたところでこちらを見ていたらしい海苓と目があった。
 鈴麗が動揺している間も、彼の方はなんでもないように視線をあちらこちらに彷徨わせ、再び鈴麗の観察に戻っている。
 どうやらまた一人獣に襲われたりしないか周囲を見張っているらしい。まさしく護衛の役割ではある。
(ずっと見られてる……!?)
 慌てて作業に戻るがやはり背中の落ち着かなさは消えない。もしや鈴麗が一人で作業を開始したあたりからずっと見張られていたのだろうか。
 つまりは一挙一動全部見られていたかもしれないということで。
 その結論に達した瞬間、鈴麗は恥ずかしさのあまりその場に突っ伏しそうになった。一瞬にして顔が熱くなり、必死に自分がした行動を思い起こそうとする。何か変なことをしていないだろうか。否、確かに呆れられてはいた。
 そんなことを思い返しているうちに手元が狂い、鈴麗は勢いよく採るべき株を匙で引きちぎってしまう。
「あっ!?」
 きっと顔は真っ赤に違いなく、鈴麗はますます小さくなって作業に集中するしかなかった。
 
 
 先ほど清蘭が話していた言葉が脳裏にずっと響いている。
『――あなたはどうしたいの?』
 それはまるで警鐘を鳴らすように。



2010.7.5


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