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(どういうつもりなのかしら……)
まず清蘭の脳裏によぎったのはそんな疑問だった。視線は、今法術士たちへあらたな法術の講義をしている男たちの片割れに向けられている。
鳳族からもたらされた医学の講義が行われると聞いたとき、清蘭は真っ先に参加を希望した。
実際華瑛たちの一派がごく小規模に情報をやりとりしていたときは、清蘭はほかの神族たち同様特に重要視はしていなかったのだ。
他の部族より優れるはずの神族が、他の部族から知識や技術を取り入れる必要などどこにもないと信じていたのだ。
けれどあの日――清蘭は第二治療所にいた。助手としている光玉を筆頭とした人々が怪我人を診断し振り分けていくのに助けられたのをはっきり覚えている。
明らかに容貌が異なり異種であるとわかる光玉に配慮してかそこには華瑛派の法術士が幾人かいて、それが結果として神族に幸いしたと言えるだろう。
見た目には大したことのない兵士の傷口と体調の異常を光玉が指摘し、彼女を師と仰ぐ法術士がそれに従って兵士を治療した。それ以外の法術士からは冷たい視線が向けられたけれど、戦慄は戦いが終わった後にもたらされたのだ。
――大した怪我ではないはずの兵士が、法術を待つ間に亡くなった。それも二名も。
もし命を奪ったのが鳳族の兵士だったのなら、相手を恨めば済んだだろう。けれど、彼らを救えなかったのは神族自身。負傷者すべてに手を伸ばしきれなかった法術士たちにも罵声は向けられた。
これから先、必ず戦傷者は増え続ける。そのとき、少しでも治癒の力、効力を高めることができるなら――そんな気持ちで清蘭はこの医学の講義に参加していた。
治療院で負傷者の治療をしている際も光玉や鈴麗にさんざん見せられた鳳族の医学による効率的な治療。とにかく法術で癒すべき重傷者を優先し、それ以外のものには順番を待つ間適切な処置をしておく。
ひとの体には自身を癒す力があるのだ。薬や処置により癒す力を高められれば、治療を待つ間に少しでも回復できる。そうなれば法術士の負担も少なくなる。
まだ否定的なことをいう人も多くいたが、その知識を提供してくれる者がいるなら利用してしまえばいい、というのが清蘭の考えだ。
神族の尊厳を脅かす者たちが力を付けてくる以上、神族自身も何らかの措置を講じなければならないはずだ。海苓のような存在が現れてくれることは幸いだが、ただそれを『待って』いるだけでは駄目だろう。
だから清蘭はこの場にいる。この流れを先導している華瑛派の中に彼女がもっとも嫌う存在である凍冶がいることも知っていてそれでもこの講義に参加した。
あるひとつの事柄についてまったく意見がそりあわない彼であるが、この派閥に参加していることだけは先見の明があると認めている。
しかし、今朝の彼の態度だけは妙だった。
凍冶は清蘭が彼を嫌っていることを知っている。海苓の前ではそれなりに友人同士として振る舞うものの、過去少し話をする機会があって意見が合わないと判明して以降、二人だけで話すことなど皆無なのだ。法術士と武官兼学者、仕事上話をすることもなく済んでいる。
それなのに、凍冶はわざわざ清蘭の近くにあらわれにこやかに声をかけていったのだ。
『おはようございます、清蘭嬢』
丁寧で穏やかな振る舞いであるが、油断ならない相手であることを清蘭は知っている。こうしてわざわざ話しかけてくるということは、凍冶は彼女に対して何か行動を起こしてくるつもりなのだ。
しかも――これは勘だが、おそらくは彼女にとってあまりよくはないことを、だ。
そのときはそれ以上の接触はなく、法術の講義は何事もなく進んでいった。
何度か繰り返された医学の講義により、鳳族の医術の基本というのは法術士の中にたたき込まれている。それを基に、ひとつの病態が説明され、それに対するための術の構成についての講義がなされた。
清蘭の周囲からも感嘆、あるいは呆れともつかないため息が聞こえてくる。
今まで傷を放置することなく治療してきた神族にとって、毒刃による傷でもないのに傷口から毒が入り短時間に全身を巡るという状態は想像もつかない未知のもの。
どう応急処置すればよいのか、どんな兆候に注意すればいいのか。まとめられた資料は独学するには難しいが、説明を受ければわかりやすい。清蘭をはじめとして参加者は真剣な顔で講義の内容を書き留めている。
そして本題に入る前に小休止をとることとなった。人々はそれぞれ卓に寄りかかって休んだり、一息入れるために席を立ったりしている。
長く座っていたせいか少し体が痛み、清蘭も席を立ち外の空気を吸ってくることにした。少し伸びをすると体が解放されたような気がする。折角だから資料の見直しでもしようかと手に取りかけ、思い直してやめた。
部屋の出口は二か所あり、清蘭の席は講壇側に近い。そこを通ろうと思えば、講師用に用意された席にいる凍冶の傍を通ることになる。反対側から出ることも一瞬考えたが避けるのも癪な気がして、清蘭はそのまま講壇側の扉へ向かう。
「清蘭嬢も休憩ですか」
案の定、何気なく通ろうとしたところに凍冶は声をかけてきた。江普ら他の法術士や華瑛もいる公衆の面前で無視することもできず、清蘭は当たり障り無く返答する。
「ええ、やっぱり長く座っていると疲れるものね」
「せっかくの休憩ですから、ご一緒してもよろしいですか」
涼しげな顔でさらりと言ってくれるものだ。断ることもできず、若干口元をひきつらせたまま清蘭は頷いた。
――外は、清蘭の気持ちとは全くの無関係に清々しい風が流れている。軍部棟の中とはいえ各建物の周囲に作られた庭は手入れが行きとどいていて、降り注ぐ陽光に緑が眩しい。遠くから鳥のさえずりもかすかに聞こえてくる。
しかし、清蘭はそんな穏やかな空気をよそに勢いよく振り返った。後ろから静かについてくる青年の思惑がわからない。だが、なるべくなら一緒に居るのは耐え難いので用件があるのならさっさと済ませてしまうに限る。
「……用件は海苓のこと、かしら」
用がなければ、凍冶が清蘭に話しかけてくることなどない。声をかけてきたどころかついてきたあたり、まず間違いなく話題は『彼』のことであるはずだ。
清蘭が睨みつけても、凍冶は穏やかな表情を崩さない。彼は驚いた様子もなく、話が早いと笑ってみせた。
「大したことではないのです。薬草の採取中に、鈴麗殿と何を話していたのか興味がわいただけで」
見ていたか、とまず思う。二人不自然に立っていたのだから、目に留まっていてもおかしくはない。
「普通に薬草について話していたとは思わない?」
「その可能性もありますが、途中から二人とも視線が海苓の方を向いたままでしたので。あなたの雰囲気も少し不穏だったようですし」
どうやらしっかり観察されていたようだ。意趣返しに溜息をついて、清蘭はあらためて凍冶を見据える。
「あの子と海苓の過去世の関係を聞いていただけ。それ以上のことは何もないわ」
「そうですか。失礼しました」
飄々と答える凍冶はおそらく彼女の言ったことを信じていない。実際彼女も伏せていることがあるからあえて追及しないが。正確にいえば、彼女に伝えたいと思っていたことを言った。それが彼女に声をかけた本当の理由だ。
「講義の準備がありますので、私は先に失礼します。どうぞごゆっくり」
用件は終わったとばかりに凍冶は身を翻そうとする。本当に何をしに来たのだろうと清蘭は面食らった。先ほどの質問をするためだけについてきたとは思えなかったのだ。
そして予想通り、話は終わっていなかった。それがきっと彼が話そうとしていた本題だ。
凍冶は清蘭に背中を向ける寸前で立ち止まり、彼女を振り返った。
「ああ、そういえばこれを話すのを忘れていました」
――おそらく、今一番海苓に近いのはあなたでしょうね。
続けられた言葉に、清蘭は思わず眉を寄せる。
「海苓はあなたのことを信用している。だから過去世のことも話したし、日々積もる苦しみを話しもするでしょう。あなたは対等な存在だ」
凍冶の姿に影が落ち、周囲から眩しさが消える。先ほどまで陽光がこの庭を包んでいたと思ったのに、ちらりと空を見上げるといつの間にか半分以上が雲で埋まっていた。
「その代り、庇護の対象には為り得ない」
空気に湿気と不穏が満ちてきたのを感じて、清蘭は声をあげる。
「……何が言いたいの?」
「対等の存在が恋人となるか、庇護の対象が恋人となるか……それは人それぞれ違うのではありませんか」
笑顔と共にそう言い置いて、今度こそ凍冶は建物の中へ戻って行った。
休憩終了ぎりぎりに講義室へ戻った清蘭は、席に戻る直前、参加者が一人増えていることに気付く。大人数入るはずの席が手狭になるほどの参加者を考えれば一人程度増えたところでどうこうなるものではないが、何故そこに居るのだろうと思われる人物だった。
講義室の一番後ろで顔を紅潮させ、きょろきょろと端から端まで見渡しているのは鈴麗だったのだ。
聞くところによると、これから講義される法術は彼女が第一治療所で施した術を形にしたものだそうだ。それを考えれば彼女が講壇に立つのが道理と思うがそうではないらしい。鈴麗は一番の隅に椅子を運んできて座っている。完全な見学者のようだった。
彼女の姿を見るうちに先ほどの凍冶の言葉を思い出し、清蘭は振り払うように視線を外して席に着く。中に戻るのが直前になったのは、結局のところその言葉に苛立ったせいだ。
対等の存在か、庇護の対象か。
誰のことを指し何を言わんとしているのか、清蘭にはわかる。わかってしまったし、わかると思ったから凍冶もそう言ったのだろう。
どちらが恋人となるかは人それぞれ。相手と対等となることを望むか、それとも相手を護りたいと願うか。
だからこそ、清蘭は笑い飛ばせるはずだった。どんな存在を相手に望むかは人それぞれ、海苓は対等の存在を選ぶのかもしれない。それなのに凍冶の言葉を切り捨てられなかったのは、あることを知っているから。
(――瞳が違ってたわ)
対等であることを選んだのは、清蘭の戦略だ。
海苓は女性たちから恋愛感情を向けられることをひどく嫌う。それどころか女性というだけで距離を置きがちだ。
そして彼自身、記憶があるせいなのか誰かにそういった感情を持とうともしない。自分の存在が消える覚悟で、押しつけられた運命を変えようともがいていて、たぶんその先に誰かと歩む未来など見えていないのだ。
だから清蘭は海苓の傍にあり続けるために想いを封じた。彼の願いを共有し、運命を変える手伝いをするのだと言い続ける。そうしてすべてを白紙に返してからでなければ、彼女の想いの行き先はないのだ。
清蘭がそれだけ努力をしなければ傍に居られないというのに、鈴麗はいつの間にか海苓の行動と思考の範囲内にするりと入り込んでいた。
もちろん、恋愛感情のあるなしというのもあるだろう。海苓の中に焼き付いている『想い』のせいもあるのかもしれない。
あの日、海苓が模擬試合をしていると聞いて、冷やかしがてらそこへ行った。残念ながら清蘭は試合には間に合わなかったのだが、海苓が圧勝したらしい。そこには同じように海苓の姿を見に来たらしい女官の姿もちらほら見えていて、清蘭は苦笑するしかなかった。
ならば、『友人』である自分は彼の勝利を労わなくてはならないだろう。純粋な想いとそこにいる女官たちに対する若干の優越感と共に清蘭は海苓の姿を探す。
辺りは兵士や神官といった男たちばかりだったのだが、海苓の姿は簡単に見つけ出せる。が、彼は一人ではなく、そして傍にいるのは男性ではなかった。
何事かを話しているのは、彼よりか頭一つ半ほど背の低い娘だ。女性というよりかは少女と言った方が近いその娘は、海苓の傍にいるには一番あり得ない人物だった。
海苓の表情は女性が傍にいるというのに珍しく柔らかい表情をしている。少なくとも、話し相手に悪い感情を持っていないのはわかる。今までは誰にも向けられたことがないもの――清蘭に対してすら現れなかったものだ。
瞳に宿るものが違う。その目に映る色が違う。
走り去る鈴麗を見送る海苓に、清蘭は気を取り直して声をかけ、海苓は注意を背後に居た清蘭に向けてくれた。その瞬間に瞳の光は海苓の中から消え去って、彼が清蘭に向けてくれるいつもの表情になる。
その変化があまりにも違いすぎて、清蘭は愕然とした。周囲でそれを目撃していた人々もそう思ったのだろう、だからあんな噂が流れたに違いない。
その後、鈴麗に対し海苓の過去世は暴露された。過去世と現在の関係から相容れないはずの二人は、それでも何回も接触があるらしい。上着を貸し借りしてみたり、この間は素晴らしい勢いで集団から外れていきそうな鈴麗を呼び止め、その後監視するまでしているのだ。
講義は始まり、凍冶と江普が壇に立って、新たなる法術の説明に入っている。資料をざっと読んだだけでも難しいとわかるそれだ。わずか足りとも聞き逃すことはできない。
清蘭は頭の中から雑念を振り払い、資料に目を落として二人の説明を聞き始めた。
神族でも指折りの法術士として、この術だけは学んでおきたい。そうは思うのに、凍冶が残していった言葉が今なお何度も何度も脳裏を過ぎゆく。
対等の存在か、庇護の対象か。――海苓は何を選ぶのか。
2010.8.22