時の円環-Reconstruction-


23



 医学、医術、法術。神族の中での動きは変わりつつある。
 あらたな法術を学ぶべく講義室に集まっていた法術士の多さを思い出して、鈴麗は嘆息した。その場所も、希望者を捌ききれないために急遽用意する羽目になった部屋だというのだ。凍冶や江普が指導していくのを部屋の一番後ろで見学しながら、一帯に満ちる真剣さを感じて鈴麗は戸惑ったのを覚えている。
 鈴麗が悪戦苦闘して形にした、傷口の毒を取り除く術。伝わるまでが長かったが、その概念と治療が理解されてからの進みが恐ろしいほどに速かった。
 すべてを理解した江普はそれをあっさり再現してみせ、凍冶は鈴麗のものより格段にわかりやすい説明をしてみせたのだ。これが能力の差かと若干落ち込んだ鈴麗を、二人の青年は優しい笑顔で労わってくれた。
『初めに術を為し、人々に伝えた人こそ素晴らしいのではないですか。あなたの名前はそうして残り続けるのですよ』
 話し合いの結果、法術士への指導は江普と凍冶が立つことになり、鈴麗は見学となったのだが、実際の場に行って鈴麗はあらためて講師役にならなかったことに安堵したのだった。
 あれだけの人数、しかもあの気迫。質問責めにされたらとてもじゃないが二人ほど冷静に答えられた気はしない。


「こら、鈴麗。手が止まってるわ!」
 突然思考に滑り込んできた声に、鈴麗はたちまち我に返った。手には薬草を練るためのすり棒の感触。必要な処方を混ぜ合わせ塗り薬を作るという重要な仕事中に、鈴麗は見事な悪癖を発揮していたのだった。
「わ、ごめんなさい」
 慌てて作業を再開する。注意してきた光玉に誤魔化すように笑顔を返すと、呆れたような顔で背中を向けられてしまった。
 薬の状態を確認しながら、分量を調整していく。本来は集中して取り組まなくてはいけないような仕事だ。余所へ気持ちをとばしている場合ではない。
 しばし、母娘二人無言で作業を続ける。
 手元の薬の状態が落ち着いてきた頃、鈴麗は顔を上げて真正面で背中を向ける光玉に声をかけた。
「……この薬、役に立つといいよね」
「そうね。少しでもね」
 二人とも、言葉に願望が込もる。法術士たちの魔力の消耗をできるだけ減らし、少しでも回復を早めるようにと、まさしく懇願のような気持ちで探し出された処方だった。
 どれだけ効くのか、定かではない。望まれている効能に一番近い処方を、一番効きやすいのではないかという形にする。鈴麗が作っているのが膏薬で、光玉は香のようにして天幕内に焚き込めるのはどうかということで〈煙薬〉を試作しているのだ。
 鳳族の動きはさらに活発化していて、もう近々動き出すだろう、ということだった。時間はない。傷や怪我の治療用の薬や道具もできる限り用意しておかなければならなかった。





 鳳族の宣戦布告、出陣の知らせを聞き、神族軍も収集がかけられ迅速に準備が進められる。
 鈴麗からしてみればあり得ないほどの早さで軍が編成され、物資が整えられ、予定より早く神族領を出発することになった。
 相手側に領地の正確な場所を悟られぬよう、神族は素早く領地を離れ誰の領土でもない土地へ出なければならない。空間を移動する魔術を使うが故に戦地と神族領は若干の隔たりがあるのだが、それでも<道>と呼ばれるその場所を知られてはならないのは同じだ。
 密偵の一人すらたどり着かれてはいけないのだ。そうすればいずれ他部族は神族の元へたどり着き、そして――。
(だから、負けられないって)
 周囲の法術士たちが交わす囁きを拾い、鈴麗はその言葉を反芻する。前回の戦のときはそんなやり取りはどこにもなく、まだ人々は余裕を持って戦場へ向かっていた気がした。
 鳳族に対しても、憎しみのような負の感情よりは問題児にむけるような感情が強かったように思う。ただ、それも前回の戦が終わるまでだったのだけれど。死者が出た――鈴麗が知る限り戦ならば当たり前のことだけれど、その事実が神族内の空気を変えている。
 それまでは捨て置けた他部族の振る舞いを看過できなくなったのだ。
 編成された部隊の規模は、鈴麗にさえ前回以上だとわかる。投入された兵士も天馬も、後方待機する法術士も今までで最大だそうだ。鈴麗が待機するのは法術士たちの一団で、その中でも端の方で荷物の管理を担当していた。

 治療用の天幕や用具のほか鈴麗たちが用意した薬も含めた大量の荷物は、数台の荷車に分けられており、数名の兵士が手分けをして運ぶことになっている。
「ああ、やっぱりあのときのお嬢さんだ」
 最後にと中身の確認をしていた鈴麗は背後から聞こえた声にそちらを振りかえった。十人ほどの兵士がそこに居て、そのうちの一人、右腕に何故か緑色の布を結び付けている青年が笑顔でこちらに近付いてくる。
 その顔に覚えがあった。先の戦で鈴麗が法術を使って助けたあの人だった。
「あのときは助かった。あんたのおかげだ」
 傷から入った毒が体を巡り死に追いやる――そんな病のことを知らないために法術士に見逃され、彼は危うく命を落とすところだった。名前も何も知らないこの青年と再び戦場へ向かう隊列の中で出会うとは、何とも言えない巡り合わせだ。
 どうやら彼を筆頭とするこの兵士たちが荷車を運んでくれるらしい。魔術が施された荷車は通常よりもはるかに多くの荷物を積むことができ、しかも運び手の負担を軽くするという効能まであるとはいえ、やはり長距離の移動は大変な労働のはずだ。
 それでも彼らは笑顔で引き受けてくれた。



 出陣を告げる銅鑼の音が響き渡る。鈴麗たちが出立する予定の時刻にはまだ早い。
 鈴麗たちの頭上を、翼を広げたいくつもの影が渡っていった。先発隊である天馬部隊の一団が先行し、鳳族や戦場予定地の様子を探り、その情報によって本隊も動きを変えていくのだ。
(……あ)
 空を行く騎兵の姿は皆同じ。各々の天馬の毛色はわずかに違うけれど、馬鎧もほとんど変わりない。
 それぞれを見分けるのはほんのわずかな差違でしかないと思うのに、それでもわかってしまったのが不思議だ。あっという間に通り過ぎていく隊の中から、鈴麗は一瞬にして海苓の姿を見つけ出していた。
 一度見つけてしまえば、わかる。あの馬の毛色は、確かに海苓が戦の後洗ってあげていた天馬のものだったし、背格好も鈴麗がすっかり覚えてしまった特徴そのままだ。
 腰に剣は携えているけれど、あまり使うことはないらしい。人々の話だと天馬を片手で操り槍と魔術を自在に使いこなして戦場を縦横無尽に駆け回るのだという。前線にはいるもののその役目は主に空中からの攻撃の抑止と地上の援護だそうだ。
 少なくとも、彼が語った記憶の中にある姿とは違う。そのとき、海苓は天馬に乗らず地上に居て、剣を持っていたはずだ。
(だから、今回の戦は違う……よね)
 もし戦場で龍炎と海苓が邂逅し、記憶通りのことが起こったとしても鈴麗にはどうする術もない。
 先発隊の姿があっという間に遠ざかり、彼方にある<道>の向こうに消えていく。それからしばらくして鈴麗たち本隊の出陣を知らせる銅鑼が鳴った。



 進軍中とはいえ他部族からの奇襲というのは今のところありえないので、<道>の手前までいく今日に限り、周囲の空気は穏やかだ。
 鈴麗も荷車を押す兵士たちと並んで歩きながら談笑する余裕がある。
 彼女が助けた青年は名前を珱李(おうり)と名乗り、鈴麗のことを命の恩人と呼び、思わず恥ずかしくなるほど褒めそやした。
 赤面するしかない賛辞の数々に彼の妙なはしゃぎぶりが見えて、どうしてなのだろうと鈴麗が首をひねると、隣で苦笑していた別の兵士が教えてくれる。
 珱李は先の戦で招集されたとき新婚間もなかったのだそうだ。まさか自分が命の危機にさらされるとは思わず、みんなに囲まれ目覚めた後、事の顛末を知り一人青くなったらしい。場合によっては三人目の死者となり、新妻を悲しみに追いやるところだった。実際、戦から帰り妻の顔を見たときは彼自身が泣きそうになったとか。
 ――そんなわけで、鈴麗は偉大なる命の恩人ということになるらしい。
 最初はまとめ役を示す腕章なのかと思っていた緑色の布は、同じく顛末を知った妻が今回の戦も無事に帰るようにとお守り代わりに結び付けてくれたものだそうだ。
(あのとき、頑張ってよかったんだね)
 惚気話をするな、と周囲から小突かれる珱李の姿を見て、鈴麗は心の中で安堵した。あのときのやり取りは無駄ではなかったのだと、無性に嬉しくなる。
 すでに夏は過ぎゆき、降り注ぐ陽射しは温い。こうして穏やかな空気の中で他愛ない会話を交わしていると、この先に待つものが戦なのだとは到底思えなかった。
 鳳族の側で戦に同行していたときはどんな気持ちでいたのか思い返そうとしてみるが、あのときは戦だからといって緊張感が格段に増すわけではなかった――芳姫と龍炎、そして母の傍にいるとき以外、常に緊張していたのだから。
 穏やかな空気の中で、進軍は進む。初日の野営地は<道>の手前まで。
 次の日からいよいよ神族の地を離れる。多少の緊張はあったにせよ、それでも決定的な深刻さはなかったのだ、まだ、このときは。



 鈴麗たちが神族領を発って数日。
 黄龍平原、前回の戦とほぼ同じ場所へ布陣する。鈴麗は今回は母である光玉とともに、一番大量に負傷者が運ばれて来るであろう第二治療所に配置されていた。
 一部の法術士たちが鳳族の医学を学び、あらたな法術を会得したことで、各治療所の能力が均等になるように振り分けられたのだ。
 三カ所それぞれに傷口の毒を除去する法術を学んだ法術士が同数おかれ、かつ第二治療所に法術士と助手が多めに配置されている。
 そして、鈴麗と光玉がここに振り分けられたのは、法術士の技術と知識で対応しきれない状況の兵士がいる場合は、この二人がいれば対応できるだろうという理由からだ。鳳族が何か新たな秘策を打ち出してこないとは限らない。
 江普はまた別の治療所に配置されそちらのまとめ役となっている。もうひとつの治療所にはまた別の法術士が。
 割り振りの中に凍冶の名がないことを鈴麗は不思議に思ったが、聞いたところによると、あれだけ医学の勉強を熱心にしているのに彼は武官だというのだ。当然ながら彼があるべき場所は前方の兵士たちの中、ということになる。変わった人だなと鈴麗は妙な感想を抱いた。
 この治療所には清蘭も配置されている。少しだけ気まずい気分だった鈴麗だが、彼女は今日は真剣な顔で挨拶してきただけだった。
「今日は、よろしくお願いするわね」
「はいっ」
 鈴麗も応じて姿勢を正す。海苓のことでわだかまりはあっても、人を治療する立場としては認めてくれているらしい。それを素直に嬉しいと思う。
 珱李を始めとした荷車の運び手たちも荷解きをした後持ち場に戻っている。彼らは皆、大弓などの遠投武器で後方から支援する部隊なのだそうだ。
 そして空中部隊である海苓も天馬に乗り前方のどこかに居るはずだった。
 開戦の時刻が迫る。鈴麗は静かに手を胸に当てて祈った。
 できる限りたくさんの人を癒せますように、救えますように。できれば、治療所に運ばれる人は少ない方がいい。




 やがて開戦を知らせる銅鑼が鳴る。
 ――始まりは、それすらも打ち消すほどの突然の轟音と煙。
 鈴麗たちをなぶるように、風が後方へ吹き抜けて行った。



2010.10.19


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