時の円環-Reconstruction-


30



 しばらく経つうちに、治療院に収容されていた人々は徐々に軽快し無事退院していった。ようやく手が空きだした法術士たちが今度は自宅療養している兵士たちを回ることになったが、そちらも鈴麗たちが目まぐるしく働いていた分回復も良く、無事終息宣言が出来そうな経過である。
 この期間、大量の薬を作ることを要求されたために鍛えられ、手際は相当良くなったと鈴麗も自覚するところだった。治療の順番を待つ間、暇を持て余した兵士たちが同じ空間で苦闘している鈴麗の様子を覗いてにわか薬学教室となったりしたのも感慨深い。
 しかし、光玉と鈴麗は一息つく時間もなく再び忙しくなった。


『施薬院というのを立ち上げてみようということになってね』
 話はある日の夕食時、家族で囲んでいた食卓で華瑛からもたらされたのだ。
 事の始まりは、大きな声では言えないが自宅療養中の兵士たちの薬の『横流し』の件と治療院の業務停止の件である。法術士がみな負傷兵にかかりきりで市民に法術を提供できず、特に痛みに苦しむ家族に自宅療養者が配布された薬を提供した――とそういう話だ。
『おそらくは今後戦の度にそういう状況になるだろう。代わりの治療法があるならば――この場合は薬が中心になるだろうけどね、それを提供する場所を作っておいて親しませておこうということなんだ』
 そうなるとその施薬院を仕切れるのは必然的に光玉と鈴麗ということになる。華瑛はとても楽しそうな表情で話を続けた。
『そろえなくてはならないものもあるだろうし、まずは色々二人から話を聞きたいということなんだ』
 あらためて医学の話、鳳族における施術院や薬師のこと、生薬のことなど――この件の責任者となった医務官はもともと華瑛派ということはあるが今回のことに積極的で、親子二人で安心したところだった。


 父、華瑛は医務官ではなく文官だが、今回は鳳族の医学の件が絡んでいることもあり施薬院計画の責任者の一人となっている。そのため話し合いなどは軍部棟内の治療院だけでなく王宮内で開催されることもあった。しかも書類のやり取りに治療院と王宮の間を行ったり来たりする羽目にもなったりしている。
 城仕えをしたことがあるから鈴麗は認識済みだが、手続きや話し合いとは結構面倒なものなのだ。
 光玉が治療院で時折講義をすることもあって、基本的にあちこち連絡や報告に飛び回るのは鈴麗の役目になっている。当然ながら施薬院にかかわるのは光玉と鈴麗だけではないのだが、別の者が行ったところ、先々で説明を求められ結局呼び出されるという大変に非効率的なことになったのだ。
 おかげで軍部棟、王宮は言うに及ばず研究棟の方まですっかり覚えてしまった。これならもう迷子になることはあるまい。
 今日も今日でまとめた資料の決済をもらいに走りまわり、行方不明になりかけていた相手をようやく捕まえてから、なんとか形を整えた書面を華瑛に届けて――王宮から出てきたところであった。
 医術にかかわるときとは違い煩雑な仕事の連続に、鈴麗はふと過去を思い出す。
(なんか芳姫様に仕えてたときのこと思い出した……)
 護衛、そして侍医見習いという肩書はあったが、要は皇女に仕える者の一人だった。様々な事柄の報告書を作ることもあったし、何か行うときや物が必要なときは役人とやりとりしなければならなかったのだ。それが大変にややこしく苦手だった。
 あれも疲れることだったと鈴麗はため息をつく。一段落したら気が抜けたらしく、大したものも入っていないというのに肩にかけた鞄がずっしりと重い。


 渡り廊を抜けながらふと視線を巡らせると、ひっそりと佇む東屋が見える。こんな場所にあるというのに人気がなく、海苓も好んでいるあの場所だ。
 今日やるべきことは終わっている。急ぎの用件はとりあえずない。
 少し休憩していこうと思い直して、鈴麗は中庭へ降り、平石の道を渡って東屋へ入った。
 秋も徐々に深まり、陽も夏の頃より低い。陽光は周囲の建物にも東屋の屋根にも遮られることなく差し込み、東屋の中を明るく包んでいる。
 適当なところに腰かけて寄りかかると、陽に暖められていてとても心地よかった。風は周辺の草原の先を撫でる程度で、鈴麗の前髪を揺らすほどの力もなく凪いでいる。
 鈴麗は肩にかけていた鞄を隣に下ろすと中から本を一冊取り出した。あまりに慌ただしい日々が続いて読む暇もなかった医学書。もう一冊、愛林から勧められた神族内で人気のある物語もあったのだけれど、なんとなくそちらは後の楽しみに取っておいた。
 肩から足先まで陽光に温まりながら鈴麗は本をめくっていく。廊を通って行く人もないようで、辺りはとても静かだった。
 本の選択を誤ったかもしれないと思ったのは、しばらくしてから。体が温まりぼんやりして、目の前の文章がほとんど頭に入ってこない。少しずつ解釈していくべき難しい箇所だから余計だ。
 これでは駄目だと鈴麗は医学書を閉じ、もう一冊の方を鞄から取り出してみた。しかし、どうにも焦点が定まらず、本をめくって見る気も起きなかった。
 うっかりすると瞼が閉じそうだ。眠い。きっと疲れているせいなのだろう。
 確かに温かいこの場所は、今は勉強よりも昼寝に向いている気がする。
 鈴麗はこの休憩の時間を読書に使うことを諦めた。この状態では読んでも勉強にならないだろうし、愛林に本の感想を聞かれて答えられもしないだろう。
 本二冊を手にしたまま、鈴麗は背もたれ代わりの壁に寄りかかる。軽く首を落とすと、姿勢を整える余裕も本を持ち直す暇もなく、あっけないほど簡単に眠りに落ちた。




 ――体の右半分が何かごつごつしたものに当たっている。
 意識を眠りに浸したまま、鈴麗はまずそう思った。本を読もうと思って結局眠気に逆らえず東屋の中で居眠りをしているはずだった。
 左半分は何か温かいものに包まれている――そう思ったところではっきり覚醒する。
 最初に眠りに落ちた時と状況が違う。何が起きたのかと鈴麗は勢いよく目を開けた。
(……腰、痛い)
 ごつごつした何か、は今まで鈴麗が腰かけていたはずの東屋の腰かけだ。腰かけたままの状態から上半身だけ横になったらしい。頭の下には柔らかいものが置かれていて、しかも体には何か掛けられていた。手にあったはずの本はない。
 場所は確かに先ほどいた東屋。
 これは何だとまくらのようなものを探っていると、頭上から声が聞こえた。
「ああ、起きたのか」
 少し低い男の人の声は、鈴麗の耳に優しく響く。これは只ならぬ事態だと身動きして、鈴麗は声の主を見上げた。
 辺りに落ちる陽の色は先ほど記憶があったときより薄くなっている。それでも直に顔に浴びていれば眩しいとでも思っただろう。そんなこと気にもせず鈴麗が寝こけていられたのは、そこにいる人がちょうど鈴麗の顔に陽が当たるのを遮っていたからだ。
 一瞬、逆光になるが、鈴麗はその顔を見間違えはしなかった。陽に透けると茶色が混じる黒髪。鈴麗の日除けになり、そこで本を読んでいたのは海苓だった。

「……あ、の」
 全く予定外だ。どうしてこんなことになっているのかと鈴麗は固まってしまう。
「よく眠っていた。少なくとも俺が来ることにも気づいていないくらいには」
 今の鈴麗を見てなのか、それとも寝こけていた鈴麗を発見したときを思い出したのか、海苓は口元に可笑しそうな笑みを浮かべて言った。
 いったいどんな状況だったのだろう。眠りに落ちる瞬間の自分の状況を全く思い出せず、どれほどの醜態だったのかと思えば、鈴麗は恥ずかしくて泣きたい気分だった。しかもそれを見られたのが他ならぬ海苓だという――他の者に見られたのとどちらが良かったか。
 居たたまれなくなり、だがしかし無理な姿勢で腰が痛くて仕方ないので、鈴麗はのろのろと身を起こす。まくら代わりにされていたのは鈴麗が持っていた鞄を丸めたもので、体にかけられていたのは大きめの上着だった――おそらくは海苓が着ていたもの。
 上着から抜け出すと、少し冷えた空気が鈴麗の体を滑っていく。相当な時間が経っていると思われた。上着を鈴麗に提供する羽目になった海苓は寒くなかったのだろうか。
「ありがとうございます。……あの、私、どれくらい……?」
 埃を払って上着を返すと、海苓は手元に置いていたらしい本を二冊鈴麗に渡してくれた。読もうと思って出していた医学書と物語と。鈴麗の質問に、海苓は少し考え込む様子を見せる。
「そうだな……俺が来たときにはもう寝ていたな」
 ――海苓がちょうど東屋に辿り着いたとき、不安定にゆらゆらと眠っていた彼女は、そのまま姿勢を崩して床に倒れこまんとするところだったらしい。それを阻止ししてくれたのも上着をかけて枕まで作ってくれたのも海苓だ。
(なんか恥ずかしいことを聞いた……っ!)
 絶叫してここを走り去りたい気分だったがそれもできず鈴麗はひたすら小さくなるしかない。 海苓は鈴麗の手の中にある本を示した。
「それを読み終わるくらいの時間は経ってるはずだな。失礼ながら時間つぶしに見せてもらった」
 少し、という時間ではない。よく見ると、海苓は鈴麗のように時間をつぶせるようなものを何も持っていなかった。何か邪魔になったのではないかと思ったが、即座に否定された。

 海苓は立ち上がるとなんでもない風で上着を羽織る。
「――確かにここは王宮の中だ、外敵が侵入してくることはまずない。けど、不用心だろう。女の子がこんなところでひとり寝てるもんじゃない」
 その口調はほんの少し厳しい。憂鬱な気分で本を抱え込んでいた鈴麗は思わず顔を上げたが、その声と比べて海苓の表情は冷たいものではなかった。
 あのときと同じだ。初めて同行した戦で、鈴麗が川辺でひっくり返りずぶ濡れになったときに海苓が見せた態度と同じ。心配されているのだった。
 決して短くはない時間、鈴麗を起こすこともなく、それでもひとりにすることなく、海苓は守ってくれたのだ。放置されて風邪をひいていても、あるいはどうにかなっていてもおかしくはなかったかもしれない。
 鈴麗は素直に頷いた。
「はい。気をつけます」
 知っている。何度も見た。そんなやりとりの後、海苓はほんの少し瞳の光を和らげて、口元にわずかに笑みを浮かべて――笑ってくれる。
 その表情が一番、素敵だと思った。



2011.2.1


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