時の円環-Reconstruction-




「あら、鈴麗。ずいぶん機嫌がよさそうね」
 ふいに響いた母の声に驚いて、鈴麗は法術の教本から顔を上げた。湯飲みを盆に乗せた光玉が鈴麗の横に立っている。鈴麗の前に湯飲みを置きながら、母は何か面白いものを発見したかのように笑った。
「あなたのそんな顔を見るのは久しぶり」
「……そうだっけ?」
 指摘され、鈴麗は思わず首を捻る。考えてみれば一月の間は芳姫のことで悩み通しだったわけだし、もともと鳳族の王宮に上がってここまで気分がいいこと自体が少なかったから、それも当然かもしれない。
「よぽどいいことがあったのね」
「うん、そうかも」
 母の言葉に鈴麗は素直に頷いた。

 神族の地に辿り着いて十日ほどが経っている。早く慣れるために、と鈴麗と光玉はそれぞれあちこちを歩き回っていた。まずはこの広い街を把握しなければどうにもならない。
 無遠慮な視線を向けられないのがどれだけ気分がよく楽なものなのかということを鈴麗はようやく体験することとなった。街のどこを歩き回っていてもさほど注目されないというのは気が楽だ。黒髪が当たり前のこの地では、鈴麗の容姿など埋もれてしまう。鈴麗は生まれて初めて爽快な気分で往来を歩くことができたのだ。
 そして、人々の優しさに触れるのも嬉しかった。
 見かけぬ娘に出会った人は不思議そうな顔をするが、華瑛の娘だと挨拶をすると驚いた顔をしたあと笑ってくれる。ごく普通のやり取りでさえ、鳳族の地においては異種であると見なされていた鈴麗には新鮮だった。
 道を教えてくれたり、自慢げに神族のことを語ってくれたり、手を差し伸べてくれたり……。もしかすると、こんな風に扱われるだけでも、ここに来てよかったと言えるのかもしれない。

「法術も、教えてくれる人がいるし」
 初対面だというのにとても親切だった青年を思い返して、鈴麗は笑った。
 法術の教師を引き受けてくれた人は、凍冶という。あまり得意ではない、と言いながらも彼の教え方は上手く、鈴麗は容易に法術の理論を理解することができた。一回目の授業で、鈴麗は法術の基本を完全に把握したのだ。
 あとはこれから少しずつ実践していけばいいのだ、というのが凍冶の弁である。彼は忙しいということでなかなか時間を作れないし、どちらかというと鈴麗が彼に医学を教えることの方が多くなりそうだったので、鈴麗は自分でも勉強することにしたのだった。
 そして借りてきたのが今開いている法術の教本。一通り目を通して分からないところを次のときに凍冶に質問しよう、ということで読み始めた。子供向けという謳い文句が涙を誘うが、その中身を何とか理解できる程度であるあたり、返す言葉もない。

 数日前の講義を思い返して、鈴麗はあることを思い出した。
「――あ、母さん。あとで薬の配分のこと訊いてもいい?」
「ええ、いいわよ」
 持って行った医学書の簡単な説明を終えた後、鈴麗は凍冶に求められて薬草茶の配分を教えたのだが、少し分量に気になるところがあったのだ。こればっかりはまだまだ母に及ばないので、後で訊いてみようと思ったまま忘れていた。

「ところでね、鈴麗。今度軍部棟の中にある治療院に行ってみようと思うのだけれど、一緒に行ってみる?」
 母の言葉に鈴麗は眉を上げる。もしかしたら父に案内されていたかもしれないが、その言葉に聞き覚えがない。
「治療院?」
「要は怪我や病を癒すところね。法術士の人たちが勤めているそうだけれど、面白そうと思って」
 鳳族でいうなれば医院、ということになるだろう。ここではその役割をすべて法術士が担っているというわけだ。法術で傷も病も癒せるとなれば、さほどの治療施設も要らないように思うのだが、そう簡単なものでもないらしい。
 法術を学び始めたばかり、しかも医者を志す者としてもやはり見てみたいと思う。迷いなく、鈴麗は頷いていた。
「私も行きたいな」
「それなら、父さんに伝えておくわ」



 考えてみれば、軍部棟に来たのは一度きり――一番初めに父に連れられてきたときのみ。政務を行う中央部や研究棟とはがらりと雰囲気の異なる建物群を見上げて、鈴麗は嘆息した。
 建物自体は装飾を抑えた造りだが、ところどころ中庭が作られていたり調度が置かれていたりと殺風景というわけでもないようだ。あまりいろいろ置いていくと、血気盛んな若者が喧嘩でもすると後々大変なんだ――父は冗談なのか本当なのか判別できない笑顔で説明してくれた。
 今日向かうのは、軍部棟の中でも治療院と呼ばれるところである。
 建物同士を繋ぐのは、庭園を貫く石畳。一瞬どこだったか忘れそうになるが、その横に弓や剣の稽古場が見えるあたり、やはり軍の施設なのだと実感する。
 治療院は、軍部棟の中でも若干神殿側寄りのところにあった。神族の領地で一番魔力が濃いところが神殿なのだから、何か関連があるのだろう。確か、法術士が力を回復するのにも使うと言っていた。治療院から直接神殿へ行ける道があるというのは、そこへ連れて行くために違いない。

 辺りをきょろきょろ見回しながら両親の後ろをついてきた鈴麗は治療院だという建物を見て声を上げた。
「ここ……」
 鈴麗の家よりやや小さい程度。予想していたよりも大きい――しかも、長年使い込まれた部分と妙に新しい部分とがあって、建て増しをされたのだということがはっきりと分かる。
 鈴麗が視線を下げると、振り返った父と目が合った。
「以前はすぐに治療ができていたのでさほどの設備は必要なかったのだけれどね。最近は法術士の手が足りなくて、どうしても療養する場所を作らなければいけなかったんだ」
 戦いを繰り返す度に負傷者、重傷者が増える。法術で癒すにしても、一度に治療するには限度がある。力を使い切った法術士が再び動けるようになるまでの怪我人の扱いに困り、この施設が広げられるに至ったらしい。
 より法術を効率的に使うための方法を。そして、法術以外での治療法を。その声が、他部族との戦が起こるたびに強くなっていく。それを利用して、光玉と鈴麗は神族の地へと辿り着いたのだ。

 華瑛に伴われ入り口をくぐると、中には数名の神族が働いている様子が見えた。来客があることに気付くと一斉にこちらを向く。男性が一名のほか残りは女性。
 複数の視線がある一定の場所に集中しているのは、鈴麗の隣に目立つ栗色の髪の女性――つまり光玉がいるからで、それに気付いた華瑛は人々に笑って言った。
「私の妻と娘なのだけれど、この間お願いしたとおり見学をしたいので良いだろうか」
 華瑛の問いかけに、一番奥にいた妙齢の女性が足早に寄ってくる。肩に触れるほどの長さの波打つ髪を持つ女性は、鈴麗たちの前に立つとにこやかに笑った。いくらか猫のようなつり目だが、そうすると瞳のきつさが和らいで美しさが引き立って見える。
「ええ、聞いています。……と言っても今はちょうど一人患者がいるだけで、見るものもありませんけど……」
「いや、構わないよ」
「でしたら、狭いところですけれどご自由に回ってみてください」
 華瑛に笑顔で返すと、治療中ですので失礼しますと挨拶し、女性は最初いた場所へ戻って行った。確かに誰かが座って彼女を待っているようである。目の前で見たときは鈴麗より背が高いと思ったが、それは踵のある靴のせいで、どうやら鈴麗とさしたる差はないようだ。

 法術での治療中、というのに惹かれたが、まさかまた単独行動をとるわけにも行くまい。鈴麗は案内をする華瑛におとなしく従った。
 といっても、そんなに入り組んだ施設ではない。入り口に受付らしきものがあり、その向かいには待つための腰掛がある。後は奥に先ほどの女性がいる部屋があって、それがどうやら診療室の役割を果たしているようだ。中には寝台があるきりで、その上で法術を施されるのだろう。
 この二箇所が古い部分。新しく建て増しされた部分は大部屋になっていて、それが戦傷者を療養させる場所だという。寝台を置いても、せいぜい二十床といったところだろうか。並べるように人を寝かせるなら、もっと多く収容することも出来るだろう。
 戦傷者が増えて大変だと言ってみたところで、それでもこれで足りるということか。鈴麗が感じたのは戦慄だった。
 鳳族でさえ、ひとつの戦をする度に多くの死者と戦傷者を出す。戦の後人々が癒されるまで、とてもではないがこの程度の治療院では間に合わない。どうにも手を出せず、救うことができない人たちも数多いというのに――。
 神族の軍の規模が鳳族よりいくらか小さく、常に勝ち続けていたにしても、この規模では小さいだろう。つまりは法術士が充分揃えば犠牲を最小限に抑えることができるのだ。
(こんな人たちに勝とうとしてることが、もう間違いだったんだ……)
 もう捨ててきた場所なのに、なんとなく哀れに思い鈴麗はため息をつきそうになった。

 見るものがさほどないというのは確かで、あっという間に鈴麗たちは先ほど迎えてくれた女性が治療をしている部屋に辿り着いてしまう。
 老齢の男性が横たわる寝台の前に跪いて、その女性は祈りを捧げるような姿勢をとっていた。寝台と彼女の足元には空間を仕切るような円陣が描かれていて、そこだけ何かが満ちていることが鈴麗にも分かる。
 数日前から読み込んでいる法術の教本に似たような儀式の記述があったことに気付いて、鈴麗は思わず目を奪われた。これが法術――病や傷を癒す力。
 鈴麗はとっさにあたりを渦巻く力の流れを探っていた。女性が働きかけようとしている場所に力が集まっていくのがつかみ取れたので、そのままどんなことが起こるのか心を集中して見つめてみる。
 男性の問題の部分は腹なのだろうか、丹田に力が集中していくのを鈴麗は注意して見つめた。
 遠くから見ているだけだから、鈴麗にはこの老爺が何に病んでいるのかを診ることはできない。
 やがて力が吸い込まれるように身体に溶けていくと、ふと男性の表情が和らぐ。と同時に女性の体がゆらりと傾いだ。傍にいた別の女性が慌ててその身体を支える。

 疲れた様子で息を吐き、法術を施した女性はようやく鈴麗たちの存在に気がついた。
「ああ……華瑛様、戻ってらしたんですね」
「いいものを見せていただいた。いつもながら、清蘭(せいらん)殿の法術は素晴らしいね」
 華瑛の賞賛に、清蘭と呼ばれた女性は力なく笑う。どうやら相当消耗しているらしい。法術とはそんなに疲れるものなのだろうか。
「それほどのものじゃありません。この方の痛みを取り除くだけで、こんなに疲れなければならないのですから、まだまだですわ」
 痛み――それは何から来るものだろう。内臓か、骨か、筋肉か……一瞬思考に入りかけて、鈴麗は我に返る。またやってしまった。
 それでも、と鈴麗はもう一度だけ考えてみる。鈴麗が眠りの術を使うときのように、何が問題か分かれば、もっと疲れることなく法術を使ったりはできないのだろうか。
「そうだね。私たちの研究が、役に立てばよいのだが」

 華瑛の言葉に反応した清蘭は何故か鈴麗に向けて視線を走らせた。口元にかすかに閃いた嘲笑――ほんの一瞬でそれは幻のように消えてしまう。にこやかな笑顔を浮かべて立ち上がった女性を、鈴麗はまじまじと見つめてしまった。
 一体なんだろう今のは――。
「ああ、医学ですね……私たちはこうして法術をやるのが当たり前ですから、役に立つかどうかはわかりませんけれど」
 吐息が混じりながらも冷淡な彼女の返答に父は苦笑している。
「手厳しい言葉だね。簡単なことではないだろうけれど、役に立つように善処するよ」
 この人は、華瑛たちの考え、つまりは鈴麗たちを否定する立場の人なのかもしれない。確かになかなか手厳しい。
 けれど、額の汗を拭って身だしなみを整えた後、清蘭という名の法術士は朗らかに笑い、先ほどの言葉を訂正した。それも本音なのだと、鈴麗には思えた。
「それでも、こんなに疲れなくて済む方法があるのなら、ずっと助かるのですけれど」


 中を見せてもらった礼を述べて、鈴麗たちは治療院を辞する。帰り際、先ほどの清蘭の様子が引っかかり、思わず振り返ると、今度は彼女と真正面から目が合った。
 幻ではなかった。気のせいではなかった。
 一体なんだろうと思ったが、鈴麗には何も思い当たるものがない。完全な初対面で、なにか恨みを買うというようなことも考えられない。
 清蘭は、確かに鈴麗に向けて憎憎しげな視線を向けていたのだった。



2008.5.18


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