時の円環-Reconstruction-




 昔から噂となっていた、文官・華瑛の妻と娘が正式に神族の一員として発表されてから数日経った。ここしばらく人々の話題はそればかりだ。
 海苓の周囲でもその手の話は絶えない。街中で姿を見たという者がいれば、すぐさま人が群がりその様子を尋ねている。
『噂どおり、華瑛殿の妻は鳳族なのか?』
『ああ、あの髪の色は目立つからな。すぐに分かったよ』
『娘のほうはどうなの?』
『そちらは神族の血を継いでいるみたいよ。華瑛殿に似て見事な黒髪って話だわ』
 話題の二人は、微妙な立場だというのに精力的に街の中を歩き回っているらしかった。目撃者は海苓が知る限りでも相当数にのぼる。もっともその娘と正面衝突しかけた海苓もその数に入ることになるのだが。
 神族の血を継ぐとされた娘はともかく、完全に鳳族である妻までも招かれたのは何故なのか。その理由は、いくらかの人々にしか知らされてはいない。




 その日、海苓は凍冶からの連絡を受けて研究棟へと向かっていた。以前から話になっていた、光玉の講義を説明してくれるというので、研究室へ出向いている最中である。
 指定された予定の時間が普段より遅かったので、海苓はのんびりと家を出て、ゆっくり歩いてきたのだが、それでも思ったより早く着きそうだった。
 いつもの時間より遅いということは、おそらくその前に先約があるということだろう。少し時間を潰してから行ったほうが良いだろうか。

 研究棟の入り口で立ち止まり思案していた海苓は、ふと棟から出てくる人影を発見した。
 道の真ん中に立っていたことに気付いて避けようとして、海苓は目を瞠る。
 棟から出てきたのは一人の娘だ。神族の中でもとび抜けて艶やかな黒髪が、腰の辺りで揺れている。楽しそうな様子が見て取れ、まさしく鼻唄でも歌いだしそうだった。
 よく見れば、その容姿は人目を惹くものであるかもしれない。二十歳にはなっていないと言う通り、その輪郭には幼さと大人びた部分とが同居している。目元や口元は温和な雰囲気が目立つけれど、その丸い大きな目に宿る光は強い。
 その娘は、名を鈴麗と言った。話題の娘である。
 意志の強さを感じさせる瞳が海苓を捉えると、彼女はふわりと笑って彼の前で礼をした。
「おはようございます」
 おはようには少し遅い時間のような気がしなくもない。
 予定外だったので海苓は一瞬反応が遅れた。しかし、彼女は海苓の様子をさほど気に留める様子もなくその横をすり抜けていく。あれはきっと人気がなくなったら歌い始めるに違いない。
 遠ざかっていく鈴麗の背中を見送って、海苓は我に返った。そして思わず苦笑する。なんとなく毒気が抜かれた気分。初対面で確か海苓は彼女を睨んでしまったはずだが、あまり気にした様子はないようだ。

 時間を確かめ、そろそろ問題ないだろうと海苓は凍冶の研究室へ赴いた。
「やあ、待っていたよ」
 海苓が扉を叩くと、中から扉が開いてにこやかに笑顔を浮かべた青年が出迎えてくれる。
「悪い、少し早かったが大丈夫だったか?」
「いや、ちょっと前に用が終わって客人は帰ったからね。ちょうどよかった」
 凍冶が言った通り、中には誰もいない。わずかに茶の匂いが残っているようだった。
 案内された机には数冊の本が重ねられている。海苓が見覚えのないものばかりで、ぱっと見る限りその題名はすべて鳳族の言葉である。その一番上の冊子を手にとってめくってみると、印刷された中身は医書の類のようだった。

「海苓、薬草茶はどうだい?」
 影から声がして、海苓は思わず顔を引きつらせてそちらを見た。手に持った薬缶を掲げて凍冶がこちらを見ている。
 一体何のつもりだと海苓は眉をしかめた。
「お前……今度は何を飲ませる気だ……」

 茶でもてなされるのは、まあ問題ない。ただし、この昔馴染みの研究室においてはその中身が最大の問題だ。
 鳳族の医学を最大の研究対象としている凍冶は、当然ながらその治療法としての薬にも興味を持っている。数少ない資料を参考にしながらこれは疲労に効くだの痛みに効くだのと調合された薬を散々飲まされてきたのだ。
 不幸にも、海苓にとってはその薬は一切効果を発揮しなかった。飲んだ瞬間壮絶な苦味に襲われたこともあるし、後になって痺れや吐き気に悩まされたこともある。後日その結果を凍冶に報告する羽目になるあたり、体のいい実験台である。
 あれやこれやと何度もやらかされているのだが、だからこそ茶と聞けば反射的に警戒せざるを得ない。

 疑わしげな視線で睨みつけられているというのに、凍冶はまったく堪えた様子がなかった。
「そんなに警戒しなくとも、今回はきちんと教わったものだから大丈夫だけれどね」
 その言葉が怪しい、と海苓は心の中で呟く。確かに、温められて漂ってくる匂いはごくまともそうではあった。しばらくして出てきた二人分の茶は、見た目も一応普通の茶に見える。
 それでも警戒を解けずに眺めた後、海苓は意を決してその茶に口をつけた。わずかな甘みが口の中に広がる。
「……普通に美味いな」
 その味に海苓は驚いて目を丸くした。予想外だ。ごく普通の、あるいはそれより上等の茶のように感じる。
「きちんと分量と材料を教えてもらったからね。これは精神を落ち着かせるのによく効くらしいよ」
 やはり違うね、と凍冶は海苓の向かいで満足げに茶をすすった。彼の言葉に海苓ははたと気付く。
 目の前に積み上がる鳳族の医書。研究棟の入り口で鈴麗とすれ違ったこと。そして凍冶の言葉。それが意味するもの。
「先客というのはもしかして……」
「ああ、ひょっとするとすれ違ったかもしれないね。この薬草茶はつい先ほど鈴麗殿に教えてもらったんだよ」
 なるほど、と海苓は息を吐いた。それは感謝するべきか。このまま凍冶がきちんとした薬や茶の処方を彼女から教えてもらえば、今後海苓が妖しげなものを飲まされることもないだろう。

 一体どんな成り行きなのか、凍冶は彼女に法術や魔術を教える代わりに鳳族の医学知識について特別に講義を受けることになったらしい。
「先生というのも面白いね」
「……魔術を教える?」
 お前が? と海苓は思わず凍冶の顔を見た。周囲から変人という渾名を付けられるような友人であるが、彼のことは分かっているつもりだ。確かに法術には優れているほうだが、魔術の講師を務められるとはとても思えない。
 鈴麗の意図は読み取れないが、ずいぶんな相手を選んだものだ。
 思っていることが表情にも出ていたのだろう、凍冶はやや含みのある目を向けてきた。
「何か気に入らないのなら、君が引き受けてくれてもいいのだけれど」
「向こうがそう望むならな」
 海苓が即答してやると凍冶は笑った。言葉通りだ。彼女が凍冶より自分に教えを乞いたいというのなら付き合ってやってもいいと思うし、なにより断片的に聞いた鈴麗の魔術の使い方を実際に見られるのなら興味深い。
「見ていると面白い理解の仕方をするよ。海苓の魔術のやり方にも似ているようだ」

 そこで前座は終わり、海苓も凍冶も何事もなく本来の目的に入った。もともとの約束は先日の光玉の講義の伝達である。
 光玉が説明してくれた医書の解釈と鈴麗から聞いた知識とを合わせて、凍冶は簡単に解説してくれた。常に魔術の使い方について試行錯誤している海苓にとってはなかなか面白い内容だった。
「……なるほどな。それで法術に応用できると言っていたわけだ」
 もたらされた知識に、海苓は素直に感心した。傷や病を癒す術を効率的に使うという意味で、疾病や身体の知識はあるほうが良い。診断ができれば働きかけるべきことが分かるし、術の構築は楽になるわけだ。これについては海苓は異論がなかった。
 しかし、海苓自身は法術の適性はまったくないので、問題は同じ理論を魔術の系統に応用できるかということになる。これについてはひとつひとつ紐解いていく他ないだろう。
「ありがとう。確かにこれは面白いかもしれないな」
「喜んでもらえて何よりだ」
 海苓が礼を言うと凍冶はその切れ長の目を和ませる。講釈を元に読んでみるといいとわざわざ用意していてくれたらしい医書をもらって、海苓は研究棟を辞した。



 それは奇遇と言ったらよいのか、それとも単純に自分たちの思考や行動が似ているということなのか。この決して狭くはない街の中、一日のうちに二度も会うとはどういうことだ。
 海苓が見覚えのある後姿を発見したのは、市中に設置された図書館の中でだった。

 少し医書を読んでみるかと思い、自宅ではなく図書館に行くことにしたのだ。家に持ち帰って見咎められれば、奇妙な顔をされるのは間違いなかったからだ――何しろ、受容派はいるにしろ大部分は医学に対して価値をおかない者ばかりだ。しかもそれが敵対する部族の書とあっては、さすがに家族に言われかねない。
 自分の魔術の使い方がそれまでの神族たちとは微妙に異なることを知っている海苓としては、その辺はあまりおおっぴらにしたくなかったのだ。

 それはともかく、開いている机を探して館内を彷徨っていた海苓は、とある本棚の前にいる、よく知る娘を発見した。数時間前も見た混じり気のない黒髪は、ある意味目立つ。
 彼女が何をしているのかを見て、海苓は思わず呆れた。
 決して彼女の背は低いわけではないのだが、目的の本はどうやら彼女の手が届くより微妙に高いところにあるらしい。爪先立って目一杯手を伸ばし、何とか本に指を引っ掛けようとしている。しかし、顔はそのせいで下を見ているので、指先が定まらない。
 ちょっと見回せば脚立はあるし、持ってくれば楽なのだが、何とかなりそうな高さであるだけに努力することを選んだらしいのだ。

 なんとなく放っておけなくて、海苓は医書を手にしたまま、必死に背伸びする後姿に近づいた。
 なにげなく見てみるとそこは魔術関連の本棚だ。娘の指先が狙っているのはどうやら子供向けの魔術の教本のようだった。子供向けの本がこの高さにおいてあること自体が問題とも言えるのだが。
 彼女が必死になる高さを易々と越えて、海苓はおそらく目的なのであろう本を抜き出した。異変に気付いた手の動きが止まる。
「とろうとしていたのはこれでいいのか?」
 探し物はこれでいいのかと見下ろすと、爪先立つのを止めたらしい彼女が目を丸くしてこちらを見上げていた。その澄んだ瞳がきょとんと不思議そうに海苓を見つめる。
 娘――鈴麗の表情は思いもよらないもので、海苓は思わずたじろいだ。
「あ、はいそうです。ありがとうございます」
 差し出されたものを受け取って、鈴麗は再びにこやかな笑顔を見せる。まったく無邪気なことだと思い、けれど海苓は彼女が自分よりもずいぶん年下であることを思い出した。
 凍冶に教えを乞いに行っただけではなく、自分でも独学を進めようとしているらしい。意外、というわけでもないが、その事実に海苓は感心した。けれど、それもそうかと納得する。
 自分の居場所を確かなものにするためには、自分が努力するしかないのだ。それは海苓がよく知っていること。

 鈴麗は何かを思い出したように表情を明るくした。
「あ、それと、この間は王宮ではありがとうございました」
「?」
「城門まで案内してもらいましたので」
 あのときはお礼も言いませんでした、と彼女はばつが悪そうに言った。
 ひどく冷たい視線を投げられたはずなのに。あれを彼女はどう思ったのか。
 かすかな苛立ちが湧き、けれどふと我に返って海苓は苦笑する。彼女はまだ何も知らないのだ。海苓の心のうちに焼きついたものを知るはずもなかった。
 鈴麗はもう一度礼をすると海苓が来た方向へと去って行く。どうやらそちらに席があるらしい。その姿を見送って、海苓は反対方向へと視線を向けて空いている席を探した。
 幸いにもすぐに空席が見つかり、海苓は安堵してそこへ腰を下ろす。なにげなく顔を上げると遠くに鈴麗が真剣に教本と向き合っている姿が見えた。



2008.4.27


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