7
やけに周囲が静かなことに気付いて鈴麗が顔を上げると、あたりの丘陵地に人気はなかった。
「……あれ……?」
背後にあったのは小高い丘。目の前の緩やかに下っていく原には誰の姿もなく、おそらくあれやこれやと目に付く植物を追って移動しているうちに輪からはぐれてしまったらしい。たぶん、あの丘の向こうが本来の活動場所だったはずだ。
穏やかな風に辺りを覆う緑の草が静かに揺れている。人の声は聞こえない。
一体どれだけ離れてしまったのだろうか。迷子になってしまっては、両親やら人々に迷惑をかけるのは確実だ。急いで戻るべきだろう。
ふと息をついて鈴麗は立ち上がった。膝にまとわりつく土を払う。足元の植物にまだ心は惹かれるが、別段今採らなくてもいいだろう――また来たってよいのだ。
顔を上げると、ちょうど丘の向こうから人影が現れた。何かを探すように見回している青年とふいに目が合う。茶色く陽に透けるその黒髪は、鈴麗が既に馴染んだものだ。
王宮で道を案内してくれて、図書館では本を取ってくれて、そして今日は鈴麗たちの護衛として随行している人。神族の人々の中で最初に名前を知った人だ。
ああ、探しに来てくれたのだ、と鈴麗はその青年――海苓の姿にひどく安堵した。探されているとは思わなかったのだ。鈴麗が薬の採取に夢中になるのはいつものことで、放って置かれることが常だったから。
海苓がこちらに向かって丘を下ってくるのを、鈴麗はそのままぼんやり眺めていた。誰かが自分を探してくれている、という事実そのものがとても不思議な心持だった。
自分もそこに歩いていくべきだと我に返り、歩き出そうとしたところで、ふいに鈴麗の足元が揺れる。
「――?」
何か遠くから響いてくる揺れに気付いたのと、驚いた様子の海苓が駆け出すのはほぼ同時だった。彼の視線は、鈴麗から離れたはるか遠くを捉えている。
「鈴麗、横からだ! 来るぞ!」
投げかけられた声に何事かと視線を追うと、遠くから突進してくる獣の姿が見えた。その道筋は完全に鈴麗の居る場所を通っている。真正面だ。見る見るうちに大きくなる獣の姿に、鈴麗の行動は一瞬遅れた。
咄嗟に脳裏に浮かんだのは、その獣が薬を採取するためによく狩られた動物だということ。
獣と正面からぶつかる直前に、何かが覆い被さってきて鈴麗はそのまま後ろへと転がった。したたかに背中を打ち付けて一瞬息が詰まる。何かを言う暇もなく、鈴麗を突き飛ばした影は彼女から離れていた。
自分の上に落ちてくる影を見上げると、そこには海苓が立っていて、既に抜き放った剣を握りある一点を睨んでいる。はっと我に返り、鈴麗は思わず声を上げた。
「わざわざ仕留めなくても……!」
人と動物にはそれぞれの領分がある。鈴麗たちは薬を得るため、食料を得るために動物を狩ることがある。互いの縄張りに入り込むのは生きるためで、それ以上は天が許さない――鈴麗はそう育てられてきたのだ。もちろん、鳳族のしきたりでしかないかもしれないけれど。
けれど、鈴麗の声にも海苓は冷たく向こうを見据えたままだった。
「駄目だ。手負いで気が立ってる」
海苓の視線を追って獣を見て、鈴麗はようやく気付く。最初見たときはまったく気付けなかったのだが、背中の後ろの方に数本矢が刺さっていたのだ。狙われたもののかろうじて捕らわれることなく逃げ出せたのだろう。
人に傷つけられたから人を狙うのだ。自分たちが逃げるか、仕留めるかの二択しかない。
「逃げてもいいが、あっちの方が足が速いな」
海苓の言葉に反論しようがない。背中を向ければ興奮しているあの獣相手、無傷では済まないだろう。
結論を出した後の、彼の行動は早かった。こちらへ向かって突進してくる獣に向かって何事かを呟き、左手で空中に何かを描く。流れるように剣を両手に持ち替えると、鈴麗から離れるように数歩踏み出した。
彼が魔術を使ったのだと鈴麗が気付いたときには、何かに止められたように獣が姿勢を崩した。次の瞬間、海苓の剣が正確に獣の首を突く。
ほんのわずか時間が止まったような錯覚さえして、獣は地に伏したまま動かなくなった。
「……」
鮮やかな動きに、鈴麗は目を丸くしたまま惚けてしまう。――なんて強い人。
相手が事切れたことを確認してから、海苓は剣を抜き息をついた。刃を確かめて剣をしまう。
その傍に行こうと立ち上がって、鈴麗は腰に結わえていた籠の紐が緩んでいたことに気付く。地面に転がった籠からは先ほどまで採取していた植物が零れているが、とりあえず後回しでいい。
海苓の隣に並び、鈴麗は獣の身体を覗き込む。背中に刺さっている矢には見覚えがあった。
「これ、……鳳族の」
幼い頃から見慣れた矢羽だ。各部族で使う鏃や矢羽の種類がいくつかあって、それで見分けられるのだ。それぞれの加工技術も採れる鉱物も異なるから、当然だ。海苓にも既に分かっていたらしい。戦の度に見るのだから、それも当然だろう。
鈴麗は獣の口元に生えている一対の牙を見る。これは貴重なものだが、鳳族の薬師が好んでよく使う。粉末にして傷にも滋養強壮にも用いられる。他に皮や毛も様々に用途があるからこれ一頭を捕まえるだけでも充分だが、戦の度に何頭も狩られていたはずだ。
嫌な予感が頭を掠める。ここは神族の領地からいくらか出たところだが、鳳族の領地からはずいぶんと離れているはずだ。
「こんなところまで狩りに来るの……」
「また、戦を仕掛ける気か……」
隣で呟かれた声は冷たい。放たれた気配に思わず身構え、鈴麗は恐る恐る横に居る海苓を見上げた。
たぶん思い当たったのは同じなのだろう。領地から離れたところまで出て獣を狩る。それは一体何のためか――。
彼はきっと厳しい表情をしていたに違いないが、鈴麗の視線はそれを見ることはなかった。その前に、二の腕に走る傷を見つけてしまったのだ。先ほど牙にでもやられたか、かすり傷、とは言い難い。
「……腕に、怪我してます」
鈴麗の声に反応したのか、海苓の纏う気配が霧散し穏やかになる。思い出したように鈴麗の見つめる腕の傷を見て、ああと眉をしかめた。今更気付いた、というような感じだった。
「さっきの牙でやられたな」
最初に鈴麗を庇ったときに違いない。情けないことにまったく反応できなかったのだから、海苓が居てくれて幸いだった。一人だったらおそらく逃げる暇なく弾き飛ばされでもして、母たちの元へ戻れるどうかかも怪しい、などということになっていただろう。
困ったことに処置するような道具もない。傷を洗う水はどうするか、服を裂いて撒くしかないか、その辺に傷に効く薬草がなかったか――そこまで考えて、鈴麗は基本的なことを思い出した。
「あの、それ、治しますから」
腕貸してください、と鈴麗が言うと、海苓は不思議そうな顔をする。そういえば、治療院で見たとき、患部に触ることもなく法術を使っていた。しかし、鈴麗は触るなりして診断をしないと法術が使えないのだから仕方ない。
傷口はちょうど鈴麗の目線の高さだ。海苓はわずかに鈴麗を制するとその場に胡坐をかいて座り込む。気を遣ってくれたらしいと気付いて鈴麗は目を瞬かせたが、それを追いかけて傍にしゃがみ込んだ。これなら診るのが楽になる。
傷はそれほど深くはないようだ。土が入り込んでいる様子もないが、相手が動物の牙だ。用心しておくにこしたことはない。
凍冶に教えられたことや法術の教本を思い返しながら、鈴麗は印を結んで術を描いていった。最後に結となる印を描いて、術を発動させる。光が収束して傷口を包み、溶けるように傷が消えて跡形もなくなった。
――成功。ほんの少しだけ嬉しかった。
海苓の様子を伺うと、消えた傷を見つめたまま呆気に取られている。
「――なにか、変ですか?」
もしかしてうまくいったのは見た目だけで何か残ったかと思ったが、鈴麗の考えを払うように海苓は首を振った。
「いや、……ありがとう」
お礼を言われるのは不思議な気分だった。なんとなくこそばゆい。
が、次に続いた言葉に少しがっくり来た。
「けっこう時間がかかるんだな?」
「……しょ、精進します」
たぶん、自分は時間がかかるほうなのだろう。傷を診断する技術も未熟だし、術を作るのにもいちいち順序だててしないと構築できない。さっきの海苓の術の使い方を見ても分かる。
分かってはいるのだが、こうしてあらためて言われると落ち込みそうだ。思わず俯いた鈴麗の耳に忍び笑いが聞こえてきた。顔を上げると、困ったように海苓が笑っている。
「まだ覚え始めたばかりなんだろう? それなら仕方ない」
あとは慣れるだけだ、覚えてしまえば早くできるようになる――凍冶にも似たようなことを言われたと鈴麗はぼんやりと思った。
「さて、あれをどうするかだな」
海苓に言われて、鈴麗は傍らに横たわる獣の骸を見る。その立派な牙と体躯から、雄だと分かる。鈴麗の目はどうしても艶のある牙に向いてしまう。
あれなら相当質のいい薬になる。鳳族の者たちが狙ったのも頷けた。
どうだろう、法術に慣れている神族たちが遣うことはないかもしれないが、逆に言えばあの牙ひとつあれば長い間持ちそうだし――。
「あれ、持って行ってもいいですか」
鈴麗の提案に海苓は眉を上げる。少し呆れたような様子だった。
「あの巨体を二人で運ぶのか?」
普通に考えて無理だ。しかもどうあがいても海苓に負担がいく。
「必要なところだけ持っていけばいいんじゃないのか」
「ええと、牙が薬になるし、皮も爪も使えるし――」
基本的に身体全部が利用できるし、鳳族はそう使ってきた。指折り数えながら、最後に鈴麗は言葉を詰まらせた。さすがにこれを言うと笑われる気がする。
「……肉も意外と美味しいです」
そう言うと、海苓は目を点にし、予想に違わず次の瞬間噴出した。口元を隠しながら笑っているが、あれは確実に困った奴だと思っている顔だ。確かに覚悟はしたがそこまで笑うことないのに、と鈴麗は一瞬むくれそうになる。
海苓はひどく楽しそうな表情のまま言った。
「分かった。なら、あっちに居る連中に話してみるか。喜々として取りに来るだろ」
顎で示すのは彼が現れた丘の向こう。
「すぐそこですか?」
「ああ、あの丘を越えたら離れたところに見える。いつの間にこっちに来てたんだろうな」
護衛のはずだった海苓は首を捻る。当の本人である鈴麗すら記憶がないのだから、何とも言いようがなかった。彼らはきちんと鈴麗たちを見ていたはずなのに、彼女は一人その輪を離れてさらに丘まで越えてきてしまったのだ。
「それなら、戻るか」
立ち上がった海苓を追いかけようとして、鈴麗はもう一度息絶えた獣を見る。
鳳族に狙われた獲物。鈴麗がここに居なければ、手負いのまま暴れ回りどこかで倒れたのだろう。
転がって中身をこぼした籠のところへ向かいかけた海苓を、鈴麗は呼び止めた。
「神族が死者を弔うときって、どうしますか?」
彼にとっては意味のわからない質問だったのだろう。振り返った海苓は訝しげな顔をしていた。
彼女が生き物から薬を得るとき、必ず感謝として相手を弔う。それは鳳族の習慣でもあったが、当然のこととも思う。けれど、これからは同じことをするにしても神族の作法をするべきだと思ったのだ。神族として生きていくのだから。
「弔う?」
恩恵を受ける前にこの獣を弔いたい、と鈴麗が言うと、海苓は考え込む様子を見せた。
鳳族では、動物のための弔い方がある。皇族、庶民、愛玩動物と狩猟の対象とでも全部違う。人と動物は違う。そして皇族とただ人も違うのだ。それを一緒くたにすればどんな人にでも嫌な顔をされるし、場合によっては罰されることもあった。
「人以外にしていけないものなら、駄目ですけど」
「人以外を弔った話は聞かないが、問題はないだろうな」
海苓の話だと、神族はあまり動物を飼うことがなく、彼らを弔うこともあまりないらしいのだ。いいのかと鈴麗は眉をひそめたが、海苓は一向に気にする様子がなかった。
「そもそも命あるもの全てに対する儀のはずだから、要は気持ちが大事だってことだろう」
海苓に教えてもらいながら、鈴麗は簡単にだが祈りを捧げる。慣れない作法だが、そうするとずっと気持ちが楽になった。要は気持ちだと彼は言ったが、その通りなのだと鈴麗も思った。
あまりそのままにしておくのもよくない、ということで鈴麗たちは他の人々のところへ戻ることにする。鈴麗がひっくり返してしまった籠の中身を元に戻すと、海苓は当然のように籠を持った。
驚いて止める間もなく彼は歩き出してしまい、鈴麗は慌ててその後ろを追いかける。
丘を登り視界が開けると自分が移動してきた距離が明らかになって、鈴麗は呆れてしまった。いくら気を取られていたからといってこの距離を移動してくるとはどういうわけだ。途中に丘があったとはいえいくらなんでもひどすぎる。
固まってしまった鈴麗に気付いたらしい海苓が隣で苦笑した。
「まあ、それに気付かなかった俺たちもどうかとは思うけどな」
見晴らしがいい、というわけでもないのだ。鈴麗が今いる位置から人々が集まる場所は見えるが、樹もあるし茂みもあるし、離れた所には森もあるから姿を見失うこともあるかもしれない。海苓に見つけてもらえたことは本当に運が良かった。
近づいていくうちに光玉や華瑛、他の人の姿も見えてくる。彼らは海苓に伴われた鈴麗の姿に気付くとあからさまに安堵したようだった。余計な心配をかけてしまったと鈴麗は反省する。
鈴麗のことを心配していた人々だが、鈴麗が丘の向こうにいる薬の材料になる獣の骸について説明すると、光玉を筆頭に目の色を変えた。早速行こうと動き出す人々を見送って、鈴麗はため息をつく。
今度は気をつけよう、と鈴麗は心の中で反芻した。
ふとあたりを見ると海苓は既に鈴麗の傍を離れて、同じく護衛としてきていた人と話し込んでいる。
助けられたのは、今日で三回目だ。今日の彼の行動を思い返して、やっぱりいい人だ、と鈴麗は遠くにいる海苓を見ながら思った。
2008.7.21