時の円環-Reconstruction-




 海苓が少し早い昼食を終え、予定の仕事を始めようとしたところで、伝言が届いた。
「予定を変更?」
 急を要する打ち合わせでもないからかまいはしないが、一刻ほどの空きができてしまう。どうしたものかと海苓は考え込んだ。
 訓練時間ではなかったはずだから、修練場が空いていれば使えるだろう。弓でも剣でも練習してもいい。
 そこまで考えたところで、海苓は凍冶からもらった医書をほとんど読み進めていないことを思い出した。
 天気も良いし、いつもの場所で読書に興じるのも悪くないだろう。幸いにしてあそこに入り込んで海嶺の邪魔をするような人物もいない。
 医書を片手に、海苓は軍部棟を出て、王宮へ続く回廊へ向かった。


 回廊から中庭に降りる。少し歩いたところに設えられた東屋は回廊から若干姿が見えにくくなるように作られているから、あまり人目を気にすることなくくつろぐことができる。それでも人がいることはわかるからなのか、海苓は自分以外の者が東屋にいるのを見たことがなかった。
 何気なく東屋の方へ目を向けて、海苓は目を瞬かせる。

「――」
 珍しい、というよりは初めてのことだが、今日は先客がいた。
 東屋の中央に立って、興味深げに天井を見まわしている娘。彼女が首を巡らす度に、長い髪がゆるゆると揺れている。
 もう目になじんでしまったのか、その後姿だけで見分けられるようになってしまった。神族領外で迷子になりかけた、生薬採取以来だから、数日ぶり、ということになるだろうか。
 海苓が石畳を踏む音を聞きつけたか、気配を感じ取ったのか、鈴麗はこちらを振り返る。背後にいるのが誰なのか分かると、彼女は警戒を解くようにふわりと笑った。
 数段上がり、海苓は鈴麗の目の前に立つ。東屋は数人が立っただけでも窮屈さを感じる程度の広さしかない。周縁を取り巻くように座る場所が設けられてはいるが、先客である鈴麗は中央に立っている。必然的に海苓は彼女のごく間近に立つはめになった。

「こんにちは、海苓様」
 笑顔とともに向けられた挨拶に海苓が応じると、鈴麗はさらに嬉しそうな顔をする。彼女はそのまま煌めく瞳を東屋の天井へと向けた。
 そこにあるのは透かし彫りをされた欄間だ。光を透かし、伝承にある神獣が踊っている。どうやら鈴麗はこれに目を奪われていたらしい。海苓もあまりじっくりと見たことはなかったが、遙かな昔に名のある芸術家が作ったということだったはずだ。
 鳳族にはない様式であったはずだから、彼女にとっては珍しいものなのだろう。海苓たちにとっては取り立てて珍しいものではない――神殿や王宮をはじめとして、いたるところで見られるものだから。
「これと同じようなものなら、神殿にもある」
 目を輝かせる鈴麗の隣で眺めながら、海苓は何気なく呟いた。その声を拾ったらしい彼女は、不思議そうにこちらを見る。
 きょとんと目を丸くしている顔をどこかで見たことがある気がして、それが図書館でだったことに思い当たった。まっすぐに見つめられているのは、どうも落ち着かない気分になる。
 視線をそらすように欄間の透かし彫りの方を見ると、下から声がした。
「いろんなところにあるんですね」
「ああ、確か軍部棟の渡り廊にもそんな細工があったな」
 あまり気にせず生活していたような気がしていたが、海苓は意外にも同じ装飾がある場所を羅列することができた。確か渡り廊の方は、時刻によっては影が落ちて通路の床に絵を描き出すような作りになっていたはずだ。それを教えると、鈴麗は子供のように目を輝かせた。


 何気なく傍の椅子に目をやると、小さな鞄と本が一冊、置かれている。これはどうやら彼女のものらしい。
「……もしかして、お邪魔でしたか」
 その声に応じて海苓が顔をそちらへ戻すと、鈴麗は何かに気づいたように表情を変えていた。
 彼女の視線は、海苓の手元に向けられている。小脇に抱えていた本。どうやら同じ目的で来たらしい彼女は、それを見て海苓がここに来た理由を悟ったのだろう。ゆっくり本を読もうと思うなら、東屋のど真ん中に立ってあちこちを眺めている彼女はあまり歓迎すべき存在ではない。
 海苓は即座に首を振った。もともと時間をつぶすためであったのだ。
「いや。どうやら目的は同じようだが」
「前に通りかかったとき、日当たりがよさそうだなと思ったんです。本でも読んだら気持ちいいかなって」
 どうも自分の感覚と彼女のそれは相当似通っているらしい、と海苓は苦笑した。なんでこんな辺鄙なところ、と友人たちにも呆れられたりしたくらいなのだが。

 本来の目的を思い出したらしい鈴麗は、荷物を置いていた場所へすとんと座り込んだ。海苓は向き合うようにちょうど反対側に座る。たいして広くはないが足がぶつかるほどでもない。
 二人ともに本を広げだすと、さっきまでの会話の余韻は解け去って、木々が風に揺れるささやかな音が聞こえるばかりになる。
 時々紙を繰るかさりという音が混じりこんでくるくらいで、渡りを通る足音も、賑やかな話し声も聞こえてこない。
 木漏れ日に当たる腰掛は温かく、空気も初夏に差し掛かっているにもかかわらず温かで、心地よかった。
 向かい側から届く、静かに頁を繰る音を聞きながら、海苓も手元の医書に目を落とした。
 人体の構成、病の原因、診断の仕方……海苓が初めて触れる考え方ばかりだ。それでも凍冶がすでに解説をしていてくれたためか、所々で突っかかりながらも読み進めることはできた。


 ふと気づくと、結構な時間が過ぎている。次の予定に遅れては元も子もない。
 静かに書を閉じると、海苓は顔を上げた。向かい側では鈴麗が本に夢中になっている。
 邪魔をしないようにと音を立てないように動いたつもりだったのだが、空気の流れに気づいたのだろう、鈴麗が顔を上げた。
「予定があるから、先に失礼する」
「あ、はい」
 とっさに海苓が言葉を口にすると、彼女は一瞬驚いて、そのあとにこやかに笑う。
「海苓様も、いつもここで本を読むのですか?」
「――ああ。居心地がいいし、人気もないからな」
 海苓が問いに答えると、鈴麗は楽しそうに言った。
「静かですよね」
 この場所を見つけたとき、彼女も海苓と同じことを感じたのだろう。その話をすれば意見が合致し楽しいことになりそうだったが、あいにくと本当に時間がない。適当に相槌を打って、海苓はその場を辞する。
 そういえば、自分が本を読んでいる間、目の前にいたはずの彼女の存在が全く気にならなかったのだ。
 そのことに海苓が気づいたのは、回廊を戻り軍部棟にたどり着いてからだった。





 せわしく靴を鳴らして、鈴麗は石畳を駆けていた。目的地は軍部棟の渡り廊。
 海苓に教えてもらった透かし彫りを見るためだ。あの日、早速行ってみたものの時間が合わず、彼が言っていた床に映る神獣の姿を見ることはできなかった。
 どの時間帯だとよいのかを確認すること数度。ようやくそれらしい時刻を探り当て、今日確かめに行くところだった。
 途中、模擬試合などに使うのだという修練場の横を通りかかる。
「……?」
 何かやっているのだろう、人だかりとまではいかないが、両手をはるかに超える人数が修練場の中心を囲んでいる。ほとんどが似たような服装の――これは兵士なのだということを鈴麗は最近覚えた――男たちが眺めているのは、その中心で剣を構えて向かい合う二人。
「あ」
 そこに知っている姿を見つけて、鈴麗は思わず立ち止まった。
 鈴麗が目を向けたのは、輪の中心にいる青年。後姿だというのに、すぐにわかってしまった。あの剣の構え方――何より、この姿を覚えている。
 まさしく、模擬試合が行われているのだろう。どうやらちょうど海苓が手合わせをする番であったらしい。
 なんとなくうずうずしてきて、鈴麗はあたりを見回した。周囲の人々の目線は中央の二人へ向いていて、彼女の存在を気にする様子はない。後ろの方で見ている分には問題なさそうだ。渡りを通りかかる人の邪魔にならないよう、修練場の方へ踏み込む。

 審判役であろう青年の合図で、二人は同時に動き出した。
 相手の剣が勢いよく振り下ろされる。海苓はそれを難なく受け流して、翻した剣を相手に向かって叩き込む。それはかろうじて受け止められ、間合いをとって離れた二人は再び相手に向かって切り込んでいく。
(わぁ……!)
 鈴麗は思わず歓声を上げそうになった。鳳族の兵士たちの模擬戦も見たことがあるからなんとかわかるが、試合はいくらか海苓に有利らしい。舞うとか踊るとか、美しく剣を振るう人はいるものだが、今目の前で繰り広げられている光景はまるで演舞のようだ。
 数分は経過したであろうか、海苓の対戦相手がわずかに焦りの色を浮かべるのを鈴麗は見た。
 瞬間、その手から剣が飛んだ。空に舞った剣は弧を描いて、鈴麗と反対側の人垣へ落ちていく。
 海苓が相手の隙を見逃さず、剣を跳ね上げて弾き飛ばしたのだ。審判が宣言する間もなく、周囲から喝采が起こる。海苓の圧倒的な勝利だった。

 審判の声で礼をすると海苓はこちら側に引き上げてくる。荷物の側に置いていたらしい手巾で汗をぬぐっている彼の周囲にはあっという間に人が集まった。笑顔で労いや賞賛の言葉をかけているように思うのだが、それを受ける海苓は何故か嫌そうな顔をしている。
 が、鈴麗は近くにいる人々の会話からその表情の意味を理解した。
「やっぱりあいつに賭けとくべきだったよなあ」
「はは、倍率に目がくらんだのがまずかったな」
 要は賭け試合だったわけだ。よく見れは、遠くの方で金銭のやり取りをしているのが見える。試合中の海苓はとても真剣だったが、もしかするとそういうのは好きではないのかもしれない。
 再び鈴麗が視線を巡らせると、人々から解放されたらしい海苓と目が合った。あちらも鈴麗の存在に気づいていたようだ。手巾を手にしたまま、彼は鈴麗の方へ歩いてきた。
「こんにちは」
 鈴麗が挨拶をすると、海苓も応じてその表情を和らげる。瞳の光が優しくなって、穏やかな笑顔になった。
「珍しいな、こんなところに来る用事があるのか?」
「この間教えてもらったところを見に来たんです」
 鈴麗の答に海苓は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに思い当たったようだ。朗らかに笑う姿は、先ほど剣を持って対峙していた人とは別人にも見える。
「ああ、そうだな、このくらいの時間がちょうどいい」
「やっぱり、強いんですね」
 獣から助けてもらったときもそうだと思ったけれど、先ほどの試合を見ても実感する。侍女である愛林の話でも聞いていたし、海苓の話を人から聞くたびに必ず賞賛の言葉がついてくる。過去の記憶、という特殊な立場だけでなくて、優れた人なのだと思った。
「模擬戦をするからとついてきたら賭けてたらしくてな。人を何だと思ってるんだか」
 そう言いながら苦虫を噛み潰したような表情をしている。鈴麗は思わず笑った。

 そろそろ行かないと、また時間を逃しそうだ。鈴麗がそう言って場を辞そうとすると、海苓は何か面白いものを見るような表情で送り出してくれた。
 通路へと戻り目的の方向へ歩き出した鈴麗の背後で、ふいに高い女性の声が響いた。
「海苓、お疲れ様!」
 思わず振り返ると、修練場を抜け出そうとしていた海苓に、一人の女性が歩み寄るところだった。すれ違った人影はなかったから、鈴麗が最初に来た方向からやってきたのだろう。
 鈴麗とさほど体格の変わらない、肩までの波打つ黒髪の女性。海苓の方も彼女を知っているらしく、ごく普通に応じた。女性はとても嬉しそうな表情で海苓に話しかけている。
 あ、と鈴麗は呟いた。その人を知っていたからだ。
 治療院で会った女性は、確か名前を清蘭といった。あれ以来会うことはなかったから、彼女に憎しみをこめた眼で睨まれた理由は結局わからないままだ。
(……知り合いなんだ)
 あのときの様子を思い出して知らず肩が強張る。ゆっくり息を吐いてから、鈴麗は歩き出した。



2008.8.31


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