心地よい風が緩やかに髪をさらう。
歩みを進めるごとに膝裏をくすぐる草の感触。
思い切り息を吸い込めば、春の草原の匂いが心を満たしていく。
視界を遮る金色の髪を手櫛で後ろに流して、リースは前を行く青年の後姿を見た。
長いまま手入れのされていない濃茶色の髪が風に揺れている。服から伸びた腕は筋肉がつき、そのがっしりとした体格を見ても鍛えている様子が伺える。リースが旅していた頃から頼りにしてきた背中だ。
何か話すわけではない。
春の気配が濃厚な草原を、ただ二人で歩いているだけ。
それでもこの瞬間が嬉しくて、リースは声を出さないように静かに笑う。この時間の為に強行で仕事を終えてきたのだ。新たな仕事を入れられないように根回しまでして。
どんな表情をしているのかわからぬ前を行く背中に、リースは声をかけた。
「デュランは、夏生まれでしたよね?」
確認の意味で尋ねると、呼びかけられた当の本人はぴたりと動きを止めてこちらを振り返る。不思議そうな瞳がリースを見つめていた。
「……ああ、そうだけど」
それに何か意味があるのかと解せない様子でデュランは返す。その反応が彼らしいなと思いながら、リースは笑顔で答えた。
「それなら、しばらくはデュランと私は同い年ですね」
「あ?」
「今日が私の誕生日なんです」
だから、たまにしか許されない逢瀬は今日でなくてはならなかったのだ。
今日の約束を取り付けたときのリースの頑とした主張を思い出したのだろう、デュランは腑に落ちたような顔をしている。
「……そうなのか?」
知らなかったな、と呟くデュランにリースは笑う。それも当然だ。
「だって、お互い誕生日を知らないじゃないですか」
「そういやそうだな」
せいぜい話題になるのはいつ頃生まれたのか、という程度だった。旅の間は互いの年齢―――ましてや誕生日を意識する余裕も必要性もなかった。デュランもリースももう一人の仲間も世界を背負うにはあまりにも未熟で、一年二年の経験の差などさしたる問題ではなかったのだ。
「あ――……、悪い、誕生日の贈り物はねぇぞ」
通り過ぎる風に、足元の草花が唄を鳴らす。耳に心地いい風の音の中、デュランはばつが悪そうに言った。仕方のないことなのにとリースは笑う。
「何かを期待しているなら、もっと早くに言ってますよ」
「……まぁな」
「貴方と一緒に過ごせるなら、それでいいんです」
リースの言葉に、デュランは一瞬固まった。しばしの沈黙の後、彼は何かを探すように辺りに視線をめぐらせ、ある一点でその動きを止める。何かを、見つけた。
「ちょっと、待っててくれ」
そう言い残すと、デュランは腰の剣を抜きながら草原を歩いていく。
こんな逢瀬の時でも二人とも武器を手放せない。デュランは仕事の途中を抜け出しているから、リースは重要な立場にある自分の身を護るため。立場を忘れられない、少し哀しい習慣だ。
それはともかく、デュランはその剣を違う目的で使おうとしているようだ。リースをその場にとどめたまま、しばらく歩きある場所でしゃがみ込む。
デュランが目の前に戻ってきたとき、その手にはひと束の花が握られていた。
「ちょっと間に合わせになっちまうけど……こんなもんでよければ、受け取ってくれるか?」
その言葉と共に目の前に差し出された花束を見て、リースは息を呑む。
この人は、知っているのだろうか?
古から、人々は花に想いを託して互いに贈りあってきた。
それは例えば祝福の言葉であったり、長き友情の言葉であったり、別れの言葉であったり。
―――愛の言葉であったりした。
ゆっくりと胸の鼓動が速くなっていくことをリースは自覚する。冗談を言うこともおどけることもほとんどないデュランがこちらを見つめる瞳の色は真剣そのものだ。その光に囚われそうになって、リースは視線を逸らしデュランの手元の花を見る。
淡い黄色の花のひとつひとつは片手に乗るほどだ。細長い花弁がぐるりと小さな中央を取り囲み、太陽の光を受けるように花開いている。数十が束ねられたその花は、陽光を吸い込んで眩しく輝いていた。
この花を選んだのは、何故?
辺りを見やれば、春の草原には色鮮やかな花々がたくさん咲いている。燃えるように赤い花も、空を映したような青い花も、夕暮れの紫に染まる花も、それこそあげてもきりがないほどの色とりどりの花がこのモールベアの草原を彩っている。
以前、デュランがリースに似合うと言ってくれた色とも違うのだ、この花の色は。
かつて、人々は花に想いを込めた。おおよそ人に知られている花々は、必ず想いを背負わされて何かを象徴している。
デュランが選び出したその花が司るものは、―――『変わらぬ愛情』。
消えることなく、穏やかに紡がれ、揺らぐことのない想い。
それは誓いだろうか。それとも他愛ない戯れか。ただの偶然でしかないのか。
「そうやって固まられると、少し考えちまうんだけどな」
デュランの少し強張った声が、リースの思考を遮った。視線を上にずらすと複雑な表情でこちらを見ているデュランの顔がある。
それは、ただ適当に選んだ花を渡す姿ではない―――と思う。
「……期待しても、いいんですか?」
「そうとってくれていい。俺の柄じゃねぇけどな……」
リースが恐る恐る尋ねると、デュランは苦笑した。リースが両手に花束を受け取ると、デュランの表情が安堵に変わる。
「あんまり黙ったままだから、その気じゃないのかと思ったぜ」
「まさかと思ったんです。偶然だったらどうしようかと思って」
「そうだな。普通は知らないだろうけど、家にはウェンディもステラ叔母さんもいるからな。庭の手入れをしながらよく話してるよ。俺も知ってるのは少しだけだ」
旅の間に見かけたデュランの家をリースは思いだした。確かに家の周囲にはよく手入れされた花々があった気がする。
迷ったのは、彼が花言葉を知っているとは想像できなかったから。けれど、その背景を考えれば、ありえないことではない。
「私が気がつかなかったらどうするつもりだったんですか?」
「リースが知らないとは思えねぇけど、その場合はただ花を贈っただけになるだろうな」
デュランは遠くで揺れる色とりどりの草原を見つめて、それならそれでよかったんだ、と呟いた。込められた好意に気付かなくても、ただ受け取ってくれるだけで。
「言うの忘れてたが……誕生日おめでとう」
手渡された花束に込められた想いが、ひどくいとおしくて嬉しくて泣きたくなる。それをデュランに気付かれたくなくて、リースは淡く煌めく黄色を抱きしめた。
一緒にいられるほんのわずかな時間をいくつも積み重ねて。
いつか来る果てまでも同じ想いを抱いていられたとしたら、きっと自分たちは幸せなのだろう。
いつの間にか繋いでいた互いの手は、ひと時の別離のその瞬間まで強く結ばれたままだった。
END
2006.1.31