壱.包み込む雨音の中で
雨足は未だ強く、視界はかなり悪かった。おそらくは藤太がいるであろう棟も、ほのかな明かりすら見えなかった。
阿高の横に座ったまま、苑上はぼんやりと雨が振る様を眺めていた。
阿高はあれ以降黙ったままだった。気詰まりでないわけでもなかったが、だからといってかける言葉も見つからなかった。
何を言えるだろう。今この場で、大事な人を亡くすかもしれない、そんな危ういところに立っているこの人に。
ただ、今はだれかが傍らにいたほうがいい。そうとだけ思えた。
「……俺がいなかったら、藤太はこんな目に合わなかったんだ。武蔵で、何事もなく暮らしていたはずなのに。千種と離れることもなかったのに」
まるで一人言を紡ぐように、阿高が呟いた。それは、応答を求めてのことではなかったかもしれない。けれど、苑上は答えずにはいられなかった。
「でも、藤太にも、あなたがいなかったら得られなかったものがあるはずでしょう。だから藤太はあなたについてきたのではないの」
黙り込まれるかと思ったが、返ってきた言葉は苑上に対する返答ではなかった。
「千種に会いたがっているんだ。……俺にはどうしてもやれない」
「さっき言っていた……、藤太を待っている人のこと?」
「そうだよ。わざわざ俺についてきて、藤太は千種を置いてきたんだ」
泣き出しそうな声で、阿高はさっきも言った言葉を繰り返した。
「俺には、何もできない」
そのとき、苑上は今の阿高がかつての自分と似ているという気がしてならなかった。
母が伏し、今際の際にも兄のことを訴えていた。兄を護らなければならないと思えたのはそのせいだ。
けれど、どこかでは感じていたのかもしれない。母が賀美野の名も、自分の名も呼ばなかったことを。その思いに、きっと似ている。
そう思ったとき、苑上は自分が驚くほど不思議な言葉を言っていた。
「祈ってみたらどうかしら。藤太が助かるようにと。あなたには力があるのでしょう」
苑上が都を飛び出したのは、祈りだけでは足りない、兄を救えないと思ったからだった。けれど、今なら何となくわかるような気がした。
祈りが必要なときもあるのだと。何か行動を起こすより、祈ることが大きな力になることが。
阿高は苑上を見たが、すぐに力無く首を振った。
「言ったろう。この力は破壊にしか使えない。人を助けることなんて……」
「使ってみようと思ったことがあるの?」
苑上は挑むようにたたみかけた。
「もしあなたがそれを望んだことがないのなら、どうしてそれができないと思うの。やってみなければ、わからないでしょう?」
「そうだとしても、藤太は千種に会いたがっているんだ。俺にどうしろというんだ」
ちょっとむっとした様子で、阿高は問い返した。
「それなら、その人に届くように祈ればいい。わたくしは賀美野を助けたかった。けれどその力がなかったからあなたにお願いしたの。あなた自身が藤太を助けられないと思うのなら、その人に願うことができるはずよ。わたくしたちにはそれができるわ」
阿高は驚いたように苑上を見つめた。
一体その言葉を彼がどう受け止めたのか、始め苑上にはわからなかった。けれど、ずいぶん時間をおいた後、阿高はそっと自分の前で、手を組んだのだった。
どうか、藤太を。救ってほしい―――……。
爪が食い込むほどにきつく手を組んで祈る。
その手の上に、そっと小さな、けれど温かな温もりがのせられる。はっとして顔を上げると、阿高の前に苑上がいた。阿高の手の上にのせられた温もりは、苑上の手だった。視線が合うと、苑上はにっこりと優しげに微笑んだ。
「わたくしにも祈らせて。藤太が助かるように」
その微笑みは、どう見積もっても男の子にはありえそうにないものだった。そこで阿高は鈴―――苑上が女の子であることを思い出したのだ。
だが、今の彼にそこまで構っている余裕はない。今は、藤太を失いたくないという思いだけが、心を占めていた。
苑上の手から耐える事なく温もりが伝わってくる。それは苑上の手の温かさなのか、それとも心の温かさなのか。阿高の手を包んでいる苑上の手は、明らかに阿高より小さいのだが、それでもその温かさに包まれているような、そんな気がした。
いったいどれほどの時間が過ぎたのか。ほんの瞬きの間のような気もするし、気が遠くなるほど長く祈っていたような気もする。
それは突然だった。
『―――今はまず、彼のもとへお帰りなさい……』
阿高も苑上も確かに、その慈愛にあふれる声を聞いた。
二人は同時に閉じていた目を開いた。
いつの間にか朝になっていたらしい。雨はとうの昔に止み、だいぶ空が白んでいた。鳥のさえずりが耳に優しげに響く。その中で、二人は確信していた。
藤太は助かる。戻ってくることを、はっきりと感じていた。
ふと阿高と目が会い、苑上は微笑んだ。
「ね、やってみるものでしょう」
苑上が手を放すと、阿高は弾かれたように立ち上がり、軒下を飛び出した。そのまま駆け去ってしまうかと思えたが、思い出したように立ち止まり、苑上を振り返った。
「……ありがとう」
そう一言残して、風のように棟へ向かっていってしまう。あっさり置いていかれてしまったわけだが、苑上はとても心地が良かった。それが阿高の言葉のせいであることは確かだった。
苑上は賀美野の様子を見に上がり、起きる様子がないことを確かめて、阿高の後を追った。
「どうしてそれがわかったんだね」
無空の問いに、苑上は何も言わずに静かに微笑んだ―――。