参.静かなる古泉の畔で
2.
『チキサニは救いの人だったのに、曲げられていたの。彼女が本来の自分を見出すためには、救われることが必要だった』
『もっと身近なことからはじめなければならなかったのだわ。そして、チキサニ女神を自由に放てば、彼女は迷わず愛することを選んだというのに』
それを、何と彼女に伝えればいいのだろう。
鈴が自分を救ってくれたからこそ、化け物にもならずに安殿皇子を救うことができたのだと。
化け物じみた人ならぬ力を持つ自分を恐れもしなかった鈴がいたから。
望みを持つことを捨てた自分に、もう一度望みを抱くことを、鈴が教えてくれたから。
どうして彼女に云えただろう。
それは、胸に染み込むこの痛みを、彼女に伝えることそのものなのに。
「彼も俺も消滅すればそれでいいと、本気で思っていたのは確かだ。われを忘れていたはずだった。だけど、最後に声が聞こえたんだ」
「だれの声?」
あのとき阿高を呼んだ声と同じ響きで、鈴は問うた。
「チキサニの声だったような気もするし、死んだリサトの気もするし。美郷姉かもしれないし……」
自分の記憶の中にある身近な女性たちの名を、阿高は拾った。
でも、違うのだ。確かに、彼女たちならば、消滅しようとする自分を引き止めただろう。それでもたぶん、自分は迷いはしなかったし、振り返りはしなかった。一番近くにいた藤太さえも、振り切って残して来たのだから。
迷ったのも、振り返ってしまったのも、自分を呼んだのが、鈴だったから。もう一度その声が自分の名を呼ぶのを聴きたいと、あの一瞬、そう思ってしまったのだ。
だから、本当は。
「……鈴だったかもしれない。『もどってきて』といっていた。とにかくそれを聞いたら、戻らなくてはいけないという気になってしまったんだ」
よくもこれだけすらすらと、事実と嘘とを混ぜて話せたものだ。阿高は、藤太ほど感情が顔に出ないことを今だけ感謝した。
「俺にもどんなものも残っていない。きれいさっぱり目が覚めた気分だ」
あの力のせいで、武蔵には帰れなかった。その力がなくなった今なら、武蔵に帰れる。
二度と帰れるとは思っていなかった、竹芝に帰ることができるのだ。
「それならあなたはこれからどうするの」
「まず藤太のところへ行くよ。藤太には、戻るといわずに来てしまったんだ。そして、あいつの傷がすっかり良くなるのを待って、一緒に武蔵に帰る」
なるべく感情を交えずに一息に言うと、鈴は応じて言った。その声がどこか沈んで聞こえたのは、気のせいだっただろうか。
「あなたの一番の望みがかなうのね」
そう、叶うとは思っていなかったけれど、それが一番の望みだった。
あの最後の瞬間に、鈴の声で目覚めるまでは。
元の暮らしに、そう簡単に戻れるはずがない。何の疑問も持たず二連でいた頃とは、自分自身が変わってしまっているから。
今武蔵へ帰っても、今までのように平穏には暮らせないことに、阿高自身が既に気付いてしまっているのだ。
藤太がいて、広梨がいて、一緒に暮らす竹芝の家族がいて、馬の世話をして暮らして、藤太たちと馬鹿騒ぎをして……それでも、まだ足りない。心の中に穴が開いたように、まだ欠けているものがある。
―――……。
阿高は、とっさに口をついて出そうになった言葉を渾身の力で飲み込んだ。
駄目だ。そんなことは望めない。
彼女は皇なのだ。もし彼女が応じてくれたとしても、都にいるならいざ知らず、都から遠く離れた武蔵での暮らしが幸福とは思えない。
武蔵での生活を知らない彼女に、いいことなんてひとつもない。
代わりに、阿高は別の言葉を口にした。
「俺が武蔵に帰ることができるのは、鈴のおかげだ。鈴がいなかったら、たぶん、このようには事が運ばなかった」
それは事実だったから。あの旅に鈴が同行していなかったら、あの場に鈴がいなかったら、阿高も安殿皇子も滅び、皇にも他の者にも、救いは最悪の形で訪れたに違いない。
阿高は鈴を見た。
たぶん、もう二度と会う機会はない。
だから、最後に、その姿だけ。
「鈴鹿丸になったこと、ずっと忘れない。男の子になったこと。迷子になったこと。私のことを本気で男の子だと思った人がいたことを忘れない」
感情のこもらない声でそう紡いだ彼女は、俯いたまま、こちらに顔を向けはしなかった。
いつも前を見据えて、光をたたえていた瞳は見えない。
痛いほどに目に焼きついた、輪に結われた漆黒の髪が、風に揺れた。
「あなたが皇にしてくれたことを忘れない。歳をとってお墓に入るまで忘れないわ」
鈴と供人たちは、都を救った明玉の主として阿高を田村麻呂の館に送り届けてくれた。
阿高を下ろした後、急き立てるように御所へと戻る鈴たちを、阿高は無言で見送った。
鈴のその顔を正面から見ないままに。
田村麻呂はほっとした面持ちで出迎えてくれ、都を救ったことを歓迎し、何日かはゆっくりとしていくといいと声をかけてくれたが、阿高は頭をふり、一晩だけ宿を借りることになった。
翌朝早くには、屋敷の主人と家人に見送られ、東国から来た一人の若者が馬に乗って都を出立したのだった。
しばらくの間馬を進めると阿高は後ろを振り返った。
来た道は、丘へ向かって傾斜しており、わずかに都を見下ろすことができた。
武蔵にいた頃は、こんなところへ来ることがあるとは少しも思わなかった場所。都を見た今も、ここは何だか遠い場所で、人が住む場所だというのには違和感があった。けれど、ここは、鈴がいる場所でもある。
たぶん、もう彼女は本来の姿に戻っているに違いない。
―――そういえば。
鈴―――鈴鹿丸は、彼女が弟を守るために男の姿をとるための名前だった。
では、本来の名は何と言っただろう?
あのとき、確かに聴いたはずなのに。彼女の正体、そして願いとともに。
ああ、そうだ。
「『苑上』……」
すぅ……っと心が冷える。その名はあまりにも彼から遠すぎた。鈴の内親王としての姿を知らない阿高の心には、その名前は何の感興も呼び起こさない。
感じるのはただ、隔たりだけ。
彼女と自分では住む場所が違うのだということを実感した。それはただ『場所』という意味だけではない。それを思うと、何だか、切なくなった。
馬の鼻先を今来た道へと向ける。
この名前を呼ぶのは、今だけだ。呟けば、思い出してしまうに違いない。そして、胸に残る痛みは、後戻りできないほど大きくなるに違いないのだ。
だから、最後だ。
振り返ってはいけない……武蔵に帰れなくなる。
全て、置いていく。
「……鈴」
阿高の髪を揺らして、その日の始まりを告げる風が、都に向かって吹いた。