「あんたってさ、きっと赤が似合うわよね」
唐突に響いたまったくもって場違いな台詞に、本をめくる手を止めた。投げかけられた言葉に反応したせいで、今まで目で追っていた文章は内容ごと頭から吹っ飛んでいる。
顔を上げて正面―――机の向かい側に視線を向けると、何冊も積み上げられた本の間から赤紫の瞳がこちらを真っ直ぐ見つめていた。
「……は?」
「きっと、というか絶対似合うわよ。しかも濃い赤。今度着てみたら?」
怪訝な表情で返したのもお構いなし、一人で結論を出し納得すると『彼女』はにっこりとこちらに笑いかけてきた。天井から釣り下がるランプに灯る魔法の光を受けて、赤紫の髪が艶やかに煌めいている。
一体何の話なのか。
とりあえず、彼女の目の前に広げられている魔法学の教科書とはなんら関係のない事柄であることだけは確かだ。
珍しく静かだと思っていたら、勉強に集中していたわけではなかったらしい。
呆れた顔で見ていると、何よ、と彼女はふくれっ面で睨み返してきた。
「……その勉強をしてはいかがですか、王女?」
「だって、全然頭に入らないんだもの! あんたはよく真面目にそんな難しい本読んでられるわよね!」
先ほどから一枚たりともめくられていない本を指差すと、勢いよく椅子から立ち上がった王女はそのまま大声でまくし立てる。
その声は立ち並ぶ本棚の間にまで響き渡った。余韻はあっという間に本の匂いに満ちた空気の中に消えていく。
本来は大声を出すことのはばかられる場所であるが、今ここにいるのは彼女と二人だけなので特に問題はない。
「予習しておかないと、ホセ殿に怒られますよ」
「ちょっと待ってよ、怒られるのはあんただって同じでしょ」
「おれは今日は実技の予定はありません」
感情を込めずに冷ややかに返答すると、王女の表情がざあっと瞬時に蒼白に変わる。
「嘘っ、……なんでっ!? それじゃ、あたし怒られっぱなしじゃない……!」
くずおれるように椅子に座り込んだ王女は、そのまま開いた本に突っ伏した。顔だけ上げてこちらを恨めしそうに睨んでくる。表情に含まれた訴えを察知して、静かに答えた。
「一昨日ホセ殿に言われたはずですが?」
時間ですよ、と促すと王女はしぶしぶと席を立つ。結局役に立てなかった教科書を閉じて抱え持つと、王女は空いた手でびしりとこちらを指差した。
「いい? 次の実技は絶対一緒にやるんですからね! そうじゃなくちゃ、あたし一時間ずっと一人で怒られっぱなしなんだから!」
同じ落ちこぼれが二人いれば、単純計算で怒られるのは半分になるというわけだ。果たしてそう上手くいくかどうか。むしろ今までの経験からすれば、教える側の怒りが二倍になる可能性の方が高い気がするけれど。
そうは思ったが、反論はせず、素直に王女の我が侭に頷いておく。
「……はい、わかりました」
「あーあ、やんなっちゃう。もうホセの怒鳴り声が耳に響いてきそう。『こんなことは基礎の基礎ですぞ!』なんて」
王女はげんなりした様子で呟いた。それでも声真似をしてみせるあたり、それほど嫌がってもいなさそうだが。
確かに聞き覚えのある台詞は、いつもホセから言われる言葉である。あまりにそっくりだったので、思わず苦笑してしまった。
ふと見返すと、王女は満足そうな笑みを浮かべている。そろそろ図書館から出るのかと思ったが、彼女はこちらに向かって話しかけてきた。
「ねえ、読み終わった本、片付けといてあげる」
「え……、ええと……」
「この山でいいのよね?」
迷っているうちに、王女は積み重ねられた本の一群を指し、さっさと抱え上げる。自分の教科書はほとんど見ていなかったわりに、人がどの本を読んでいたのかはしっかり把握していたらしい。
王女は本棚の間を慌しく走り回り、やや非効率的に本を戻していった。いくらか埃が舞っているのがここからでもわかる。
―――場所がわからないなら、無理に引き受けることもないのに。
思ったが、口には出さない。数倍の言葉が返ってくることは間違いないのだ。
最後の本を無事に元の場所へ返し、図書館の入り口へ向かって歩いていた王女は、思い出したように振り返った。
「そういえば、いい加減その敬語何とかならないの? 堅苦しいよ、一緒に勉強してるのに」
そろそろ本に集中するかと視線を下ろそうとしたが、その言葉に顔を上げた。だが、王女は返事を待たずに扉を出て行く。
仮にも次期女王に対してそれは無理だと思うんだけど。
しかし、その返答では彼女は納得しない。それはいつも繰り返される問答だった。
王女が姿を消すと、部屋の中がやや暗くなった気がする。図書館の中の空気が静かに張り詰め沈んでいく。肌に感じられる無音。
いつものように読書に戻る。
一人でいる静けさよりも、王女のいる空気の方が勉強に集中できると気がついたのは、ごく最近のことだった。
アルテナを治める理の女王の一人娘、アンジェラ王女が傍に現れるようになったのは一体いつ頃だったか、もう思い出せなかった。
いずれ王となり国を治めるであろう彼女と王国の民の一人である自分を引き合わせたものは、『魔法を使えない』という唯一の共通点である。
アルテナは女王を主と仰ぐ絶対王政の国。しかし、それには理由がある。この国は、本来人が住むには厳しい極寒の地なのだ。最も強い魔女の血脈である女王の魔力により人々は寒さから守られている。
故にこの国で尊ばれるのは魔法の力。魔力が強ければ強いほど人としての価値も高くなる、とそういうことだ。
その地にあって、魔法を使えない。
それは国の最下層に位置することを意味する。
平民である自分でさえ、侮蔑の視線と差別にさらされる。女王の跡を継ぎ最強の魔女たるべき王女が魔法を使えないということは、一体どれほどの屈辱なのだろう。
しかし、当の本人はそれをあまり感じさせないのだった。
魔法の勉強を続けながらも、いつかこの国を出て行こうとずっと思っていた。
基礎を繰り返しても、初級魔法すら発動させられない。
そんな自分に、アルテナで生きていける道などあるはずがなかったから。
彼女がいなければ、既にこの地を去っていたのは間違いない。
魔力の強さを絶対とするこの国で魔法を使えない王女。もし彼女が未来に王位に就くとすれば、その下でこの国の考え方も変わっていくかもしれないと思えたのだ。
人々を凍えるほどの寒さから守るのは女王。故に王女は絶対の存在。
その地位に、魔法を使えない辛さを知るアンジェラ王女が立つのなら、この国に仕えるのもそのために魔法の勉強を続けるのも悪くないと、いつしか思っていた。
手にするは想い出 そのぬくもりを頼りに
『我に……命を……』
その声を吹雪の中に聴いたとき、初めは幻聴かと気にも留めなかった。同じ大陸にありながら、女王の庇護から遠く離れたこの場所は、アルテナとは違い精霊たちが力の限り踊りまわっていた。
深く重く降り積もる雪は身体に冷たく、暴れまわる吹雪がひどく全身を乱打する。荒れ狂う風は耳を塞ぎ、呼吸の音すら聞こえない。顔を上げることもできず、腕で庇いながら前へ踏み出そうとしても、押し寄せる空気の壁が動きを阻み、その上それが自分の目指す方向なのかすら確かめられない。
足元など到底わからない、木々も見えない、真っ白い世界。
―――これが最終手段だった。
何度繰り返しても、何ひとつ生み出せない。教科書に書かれている力が流れ込む感覚も、心の中に炎や光を思い描く力も、自分の中には欠片も備わっていなかった。何年もかかって何度も確認できたこと。それは魔法を使う才はまったくないということ。
諦めることはできたはずだった。吐き気がするほどの魔法至上主義の思考に溢れた故郷には何の思い入れもないはずだった。捨てることはできたはずだった。
それでも魔法にこだわったのは、やはりアルテナの血が流れているせいなのか。それとも他の理由だったか。
剣術の国フォルセナには、自らの潜在能力を引き出し更なる強さを求めるため苛酷な環境に身を置く修行法があると聞いた。それを真似することを思いついたのだ。
自らを命の危険に追い込んで、この身に秘められた力を最大限に引き出す。
そのための旅だった。
およそ人が行くには危険とされる場所を回る。その最後に辿り着いたのが故郷の大陸だった。灼熱に燃える砂漠に等しく、人にとっては厳しい大地。
『我に命を』
呪詛のような地から這い上がる低い声が、暴風を乗り越えて耳に届く。辺りを確かめようと思っても、目には何もとらえられない。
封印された魔物のような伝承が、果たしてこの地域にあっただろうかと思考を巡らす。―――思い出せない。あったかもしれない。ないとは断言できない。判断の鈍さは、この寒さに身体が弱っている証拠だろうか。
そう思った途端に、もう一度あの声が耳を貫いた。
その言葉は真っ直ぐこちらへ向けられていた。
『力を欲する者よ、我に命を与えよ』
―――誰だ?
聞こえる声は遥か遠くから投げかけられている。それに気付いたとき、周囲から吹雪は遠ざかり、身体はどこか違う場所へと飛んでいた。肌を貫く寒さも背を叩く風も一瞬で消えている。
白い景色は一呼吸も終わらぬうちに暗闇へと沈んでいく。視界もきかず、目の前に誰かがいるのか、何かがあるのかさえ判別できない。
ただ感じられるのは、圧倒的な存在感。圧迫されるような気配で、こちらを押しつぶそうとしてくる。耐えられずに両膝をついた。それ以上負けないためにゆっくりと唾を飲み込んで睨み返す。
誰かが―――あるいは何かがこちらを見据えている。
『我にその命の半分を捧げよ、さすればお前の望みを叶えてやろう』
「……誰なんだ?」
声を絞り出すようにして尋ねる。自分らしくない、ひどく掠れた声だった。
『我は竜族を統べる者。かつては竜帝と呼ばれていた』
返答はかすかな笑いと共に返ってきた。その名には聴き覚えがある。
かつて世界を人間の手から取り戻すべく立ち上がり、人の世を恐怖に陥れた存在。確か、ずいぶんと前に滅ぼされたのではなかったか。
正確には、フォルセナを統治する英雄王がまだ王子と呼ばれていた頃の出来事。
人の世を護るために王子は竜帝に戦いを挑み、そして彼の戦友・黄金の騎士と相打ちとなり竜帝は姿を消したと伝えられている。かくして世界に平穏が訪れたのだ。
では、目の前に存在し、今自分に向かって語りかけてくるものは?
『どうした、望みを叶えたくはないのか? 魔法を欲する、魔力無き者よ』
淡々とした言葉に、額を冷や汗が一筋流れていくのを感じる。見抜かれているのだ、一言も露わにしていないただひとつの願いを。
もちろん、望まないわけではない。そのためだけにこれだけ危険を冒して旅をしてきたのだ。
ひどく魅力的な誘いかけ。
『誰であろうと本来魔力を持たないものはいない。マナの満ちるこの大地に生まれる以上はな。魔法を使えるほどに強いかそうでないかの違いだけだ。我の闇の力をお前に与えよう。その代わり、お前は我にその命を捧げるのだ』
その言葉を聞き終えないうちに、引き寄せられるように手を伸ばしていた。それが答だった。
目の前の不確かな存在に触れたと感じた瞬間、悪寒と共に体中から血の気がひくような感覚がして、視界が眩んだ。眩暈を起こし前に手をついて倒れ掛かる。何かが身体から出て行ったのだと気付いたときには、また違うものが身体の隅々に満ちてきた。
今まで味わったことのないこの感覚は―――。
はっと思い至り、慌てて立ち上がって頭の中である文章を探し出す。それはかつてアルテナで魔法の勉強を独学していたときに何度も読んだ魔法学の教科書の言葉。紙がぼろぼろになるほど繰り返し読み、今では暗誦もできるほどだ。
その中から、ある部分を引っ張り出す。
魔法を発動させるための手順。頭の中に刻まれた文章を一字一句なぞるように、目を閉じてゆっくりと手順を踏んでいく。周囲に満ちるマナを感じる。心の中で望む光景を描き出す。精霊に働きかけるための定められた印を描き、力を与えるための呪文を唱える。
―――炎を!
最後の一言を紡ぎ終えた瞬間、目の前に鮮やかな朱色の炎が燃え上がった。暗闇の中で弾け、瞳に強い光と熱とを投げかけると、何事もなかったように消えてしまう。
「できた……」
よほど驚いた顔をしていたに違いない。心の中にあったのは驚愕と歓喜だった。できるようになってしまえばわかる。過去にはあれほど理解しがたいと思えた魔法発動の理論なのに、こんなに簡単なことだったのだ。
何年かかってもできなかったこと。それを、目の前の『竜帝』と名乗った存在は易々とやってのけた。
「その力はもうお前のものだ。あとは磨けば磨くほど、魔力は高まっていく。日々の鍛錬を怠らぬことだ」
先ほどとは違うはっきりとした声に顔を上げると、そこには中年を過ぎたかと思われる外見の男が立っている。竜族という猛者たちを統べるにふさわしい堂々とした風格。その立ち姿すら威厳を感じさせていた。
―――その力はお前のもの。
竜帝に言われたその言葉を反芻する。
今までそうしてきたように、積み重ねていくことでこの力は強くなるのだ。
「お前の命の半分はわしがもらった。お前とわしは運命を共にする共同体だ」
竜帝は笑った。にやりと表現される笑い方だが、それが彼にはとてもふさわしい。
考える間もなく片膝で跪き、頭を垂れていた。
「わしは世界を取り戻す。まず手始めに、魔法王国アルテナを捧げるのだ」
自信に満ちた言葉が身体中に染み渡る。それを実行することに躊躇いはなかった。
誰もできなかったことを為しえた偉大なる竜帝。
それだけで、自分にとっては尊敬に値する。わずかな躊躇もなく、是と答えていた。
最後に竜帝は笑って言った。
「共同体であるお前にわしが名を授けよう。先ほど見たが、お前には炎の赤が良く似合う。これからは紅蓮と称するがいい」
『あんたってさ、きっと赤が似合うわよね』
どこかで同じような言葉を聞いていた気がしたが、思い出すことができなかった。
薄れゆくもの 手から零れ落ちていく
「あの子―――アンジェラを使いましょう」
その言葉を女王の口から聞いたとき、さすがに額に汗が滲んだ。感情のこもらない声で言い放った理の女王の顔を見返すが、そこには表情は何ひとつ浮かんでいない。
「……それでよろしいのですか?」
「仕方ありません、私もあなたもまだ死ぬわけにいかない。女神の力を手に入れなければ、我が国が滅びます。役に立てるのだからあの子も本望でしょう」
確認の質問に対しても返ってくるのは冷酷な言葉のみ。
あらゆる方法を考えたとき、それが一番効率の良い選択肢であるのは間違いない。だが、それを実の母である彼女が選ぶとは……。頭の中に沸き起こった恐怖とも呼べる感覚を吹き払うために、ゆっくりと息を飲み込んだ。
日々の鍛錬は驚くほどの効果で魔力として積み重なっていく。
魔法が使えるようになって帰ってきた自分に人々は驚いたが、魔法においては実力が認められるこの国だ。数年のうちに、理の女王の右腕と呼ばれる地位にまで上り詰めていた。
今は世界に満ちるマナの力を、容易に感じ取ることができる。数年前から周囲に流れるマナの力が弱まっていることは人伝でなく感じていた。
このままでは世界からマナが消えてしまうことは予測できる。魔法を使うすべは失われる。そうすれば一瞬にしてこの魔法王国アルテナは崩壊し、民はこの厳寒の大地に埋もれることになるだろう。
それを防ぐために、マナの力の結晶、それを生み出す源とも言われるマナの剣を聖域から手に入れなければならない。第一歩として扉の鍵であるマナストーンを解放する。
理の女王やその側近と共にその方法を探して半年あまり。封印されていた禁断の古代魔法を記した書物の中についにそれを見つけたのだった。
古代魔法が禁じられたのは、そのどれもが多大な犠牲と引き換えに行われる魔法であるが故。
そしてマナストーンに施された封印は、人の命をその鍵としているのだった。
この数年の間に理の女王に訪れた変化に気付いた者はどれくらいいただろう。
もともと女王として采配をふるい王者としての風格を備えた人であったように思うが、最近はそれに加えてあらゆる行動に冷酷さが突出してきた。それも、自分が女王の右腕として傍に控えるようになってきた頃からだろう。
それでも、民からは国民を護ってくれる慈悲深い女王として慕われている。
あらゆる面で私情を一切挟まない。優先されるのは最も国民のため、国の存続のために必要なこと。
それを呼び覚ましたのは自分だとわかっているが、血を分けた娘に対する残酷な決定に、過ごしやすい温度に整えられた部屋なのに背筋に寒気が走ったのは気のせいではない。
何度かのやり取りのあと、王女アンジェラをマナストーンの生贄とすることが決定した。
他の臣下を一切交えず、それは理の女王と自分―――紅蓮の魔導師との間でのみ話し合われた内容だ。だが、反対意見は上がらないだろう。誰もが女王を絶対の存在として崇めている。彼女の名において発される詔に異論が起ころうはずがない。
母の言葉を聞いた王女は、そのあまりの内容に凍り付いていた。大慌てで扉を開き勢い良く駆け込んできたときの表情は欠片もない。壇上から見下ろす彼女は目を見開き恐怖に震えていた。
誰が思うだろう。実の母にその死を命令されようとは。
「お母様……」
王女の懇願めいた呼びかけにも、理の女王は眉ひとつ動かさない。それどころか、いまだに魔法を使えずにいる娘が王家の恥だと言い切った。
「さあ、こっちへ来なさい……」
―――最期にようやく優しい言葉をかけられるとは、なんと哀れな。
女王の冷酷な言葉に、王女の表情が今にも泣き出しそうに歪む。くずおれそうな身体を支えるためか、一歩後ろに退いた。
「……い、いや……」
ふと、風が動く。マナの鼓動を感じた。誰も魔法を使ってなどいないのに。
……まさか?
一瞬周囲を見渡し、王女へ焦点を合わせる。王女の身体を中心に急速にマナが集まっていくのがはっきりとわかった。
「いやぁ―――っ!」
王女の悲鳴と共に弾けるような光がその姿を包み込む。目が眩んだ一瞬のうちに王女はどこかへ姿を消していた。名残のかすかな光の粒が散るばかりだ。
「……消えた……」
思わず呟いていた。自分は相当動揺しているらしい。ちらりと理の女王へ視線を向けると、彼女も予想していなかったのか、珍しく驚いた表情をしている。
王女はいまだに基礎的な魔法ひとつ使えない。しかし、今彼女が使ってみせたのは高等魔法の部類に入る移動魔法だ。マナの力が弱まり、魔法が以前より使いにくくなった現在にあっては使い手は両手で数えられるほどしかいない。
覚醒した、ということか。口元に知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。
かつて自分がしてみせた、自ら危険に追い込んで秘められた力を覚醒させる方法。自分には何の効果も及ぼさなかったその方法で、王女は見事にその内に眠っていた魔力を目覚めさせたのだった。
『へえ、あなたも魔法が使えないの。あたしとおんなじね』
その身に魔力を持っていた王女。欠片すらなかった自分。
どうやら同じではないようですよ―――。
脳裏に浮かんだ笑顔の彼女に、皮肉めいた言葉を心の中で投げかける。
予想した通り、アンジェラ王女の姿は城のどこにも発見されなかった。
戻らない時間
失われるもの
かつての想い出は、今はもう遠く
隙間から入り込んできた風が足元を滑っていく。姿を消した竜帝の気配が遠ざかっていくことを確認してから、ようやく視線を動かした。
そこに立っているのは三人の若者。マナの女神の祝福を受け、竜帝が神となるのを散々邪魔した面々である。彼らのひたむきさを逆手に取り利用させてももらったが。
他の二人を護るように先頭に立っているのは、どこか懐かしいと感じる、アンジェラ王女だった。
望みもせぬ再会を果たす度に、彼女の力が強くなっていることを常に感じていた。王女は自分の力を目覚めさせ、着々と高めている。
彼女がマナの女神を目指し、自分が竜帝と共に行動する限り、必ずいつかはぶつかる日が来る。それが今なのだ。そうしなければ先へ進めない。
魔法王国アルテナの象徴の最たる王女の魔力と、竜帝から与えられ今まで磨いてきた闇の力と。勝負をしてみたいとずっと思っていた。
アンジェラ王女は闇の力に身を包み、そこに立っている。わざわざ禁じられている古代魔法に手を出したということだ。それでも、その赤紫の瞳は以前と変わることなく光を秘めて輝いている。
「闇の力……か。古代魔法に手を出したか」
「あんたと同じよ。そうじゃなきゃ、あんたと対等に戦えないわ」
王女はそう言うと唇を噛み締めてこちらを睨みつけた。
あの時、誰が思っただろう。魔法の使えぬ落ちこぼれだった二人が、古代魔法を自在に使いこなすまでになろうとは。その方法はまるっきり違っていたけれど。
それ以上の言葉は要らない。既に袂は分かれていたのだ、竜帝の手をとり彼に忠誠を誓ったそのときに。
動いたのは同時だった。印を描く速度も、呪文を唱える速さも同じ。
王女と自分が魔法を発動させるのもまったく同時だった。
熱く降り注ぐ隕石は互いにぶつかり合い、激しい衝撃と洞窟中を揺らすほどの轟音を響かせた。空洞に響き渡る不快な音は頭痛を起こしそうなほどだ。振動で天井の一部が剥落してくる。舞い上がった土煙で視界がふさがれた。
まだ余韻が残るうちに、次なる魔法の詠唱を始める。晴れてきた土埃の向こうでは、王女が同じように印を結んでいた。
一瞬の判断で、もう一度古代魔法エインシャントを発動させた。隔絶された洞窟内に満ち溢れる熱気と爆発的な力を有した隕石が王女たちに向かって降り注ぐ。
王女も同じようにエインシャントを使ったらしい。
再び空中で隕石同士の爆発が起きる。
悩む暇などなかった。二人の魔法の威力は同じ。躊躇し、魔法の発動を遅らせたほうが負ける。
勝負を決めるのはいかにして魔法を相手にぶつけるか。選択を誤ればこちらの魔法が相手の力に飲み込まれてしまう。そしてあるいは魔力の差が雌雄を決するのかもしれない。
魔法を互いにぶつけあう。それは反動となって自らに戻ってくる。普通に魔法を使うよりもずっと疲れるのだ。王女の顔にも絶え間なく汗が流れていることが離れていてもよく見えた。もちろん、同じくらいの汗が自分の額を流れていくのも相手には見えているに違いない。
そして過去には思いもしなかった この結末
いったいどれほどの時間が経ったのだろう。
もう限界かもしれない、とかすかに思った。印を描く速度が遅くなってきている。呪文を唱えるにもつまずきそうになることを自覚する。何より集中することが辛くなってきた。
再び、エインシャントを唱える。
現れた隕石郡を見た瞬間、信じられずに目を見開いた。今まで呼び出していたものよりもずっと小さい。込められた魔法の力も、明らかに弱い。
竜帝は闇の力を与えてくれた。この力は磨けばどこまでも強くなると。それでも限界があるということか。闇の力では敵わないということか―――。
その差が雌雄を決したのだ。
まったく威力の衰えないアンジェラ王女のエインシャントはこちらの隕石を易々と呑み込み、勢いを失わないまま真っ直ぐ襲い掛かってきた。
全身を包む熱と爆発。
何よりも闇の力が負けたのだという事実が衝撃となって身体を揺すぶった。
懐かしい声が名前を呼ぶ。心配そうな顔でこちらを覗き込んでいるのはアンジェラ王女だった。
自分が止めを刺したというのに何故そんなに泣きそうな表情をしているのだろう。
いつの間にか自然に笑みが浮かんでいた。
人に身の上を語るのはおかしいものだと思った。しかも相手は昔を知っている王女だというのに。
―――ああ、もう時間だな。
恐れもなく、そう確信した。自分の身体から闇の力と命の炎が流れ出ていくのがわかる。この闇の力はもともとは竜帝のもので、命の半分は竜帝に捧げているから。もともとの主と分かれた片割れを求めて、器から抜け出そうとするのは当然だった。
仕方あるまい。禁忌とされる闇の力に手を染めたのは自分だ。
魔法を使いたいという望みのために禁を犯したのは他ならぬ自身なのだから、この最期は受け入れなければならない。
苦しさはなかった。痛みもなく、そして消えゆくことへの恐怖もなかった。
必死になって名前を呼びかけてくるアンジェラ王女の声が次第に遠くなっていく。もう何を言っているか聴きとることはできない。
繰り返す想い出 廻り廻り還りつく場所
入れ替わるように脳裏に浮かんだのは、かつて何度も出入りした王宮の図書室だった。
年季の入った紙の独特の匂い。
天井から吊るされた魔法の明り。
がたつきのある使い古された木製の机と椅子。
限界まで本を詰め込まれた書架。
アルテナに戻ってからは一歩も足を踏み入れていない場所なのに、それは色鮮やかに目の前に甦る。
積み上げた本の間から、赤紫の髪を眩しく煌めかせたアンジェラ王女が興味深げにこちらを覗き込んでくる。
これは―――。
あれだけ魔法を使えるようになることを欲し、そのためにどんな手段も厭わなかったというのに。
それでも最期に求めるのは、図書室でのあの瞬間なのか。
二人で魔法を使えるようになるすべを必死に求めていたあの時間なのか。
いつの間にか、かつての自分とアンジェラ王女が図書室中の本を探し回る光景を眺めている。
開いた本の一部分を示し、これはいい方法なんじゃないかと力の限り訴えている王女を見つめながら、ふと自分が笑っていることに気付いた。
ああ、そうか……。
魔法を使えるようになりたいという願いは全てここに帰結するのだ。
この王女になら、仕えてもいいと―――否、仕えたいと心の底から思ったから。
だから身の危険を冒してまで魔法を使えるようになりたいと望んだ。
いつの間にかそれすらも忘れてしまっていたけれど―――。
それを考えれば、最期に帰り着いた場所がこの時間であることは、ごく当たり前のことであるように思えた。
ささやかな希望にすがりつき、そして深い絶望を何度も繰り返したあの頃。
それでもあの時間を、確かに楽しいと思っていたのだ。
耳に聞こえてくるのは、もう幼い頃と言ってしまってもいいほどの過去の自分と王女の声。
真剣に魔法を使える手段を探しているそのやり取りが、今となっては哀しいけれど。
懐かしい匂いと雰囲気に包まれて、静かに瞳を閉じた。
何度でも廻り還る それは約束の邂逅 そして揺ぎ無い絆
次に目を開けたとき、また懐かしい匂いの中で懐かしい人の姿を見る―――。