聖剣3 デュラン×リース

-涙雨-(中編)
I own sorrow jointly with you




 心神喪失したデュランを連れ、街へ戻ってきた翌日。
 その日は朝から全天に厚く雲がたれ込めて、今にも泣き出しそうに重苦しかった。

 デュランは一晩うなされ続け、いまだ目覚める気配はない。
 夜中に熱発を起こし、リースとシャルロットが交代で看病したが、熱がひく様子はなかった。朝方には体を休め力を取り戻したシャルロットの回復魔法で、三人の傷と疲労は消え去った。
 しかし。デュランの熱はひかなかった。
「所詮回復魔法は、身体の傷と疲れを癒すだけでち」
 魔法が万能で、心の傷すら癒せるなら、苦しみから救えるなら、光の司祭が光の神殿で旅人たちの話を聞き、導きを授ける必要などない。傷付いた心を癒せるのは、心と時間だけなのだ―――とシャルロットは言った。
「どのみち、天気も悪くなりそうでちから、今はゆっくり休むことが大切でちね」
「そう……ですね」リースも頷く。
 デュランがもし目覚めて行くと強硬に言い張っても、おそらく先に進むことは叶うまい。武器もまともに握れなかったあの状態で、竜帝のところに向かうなど無謀に等しい。
 リースは横目でデュランを見た。今は恐ろしく静かに眠り続けているが、時々思い出したように発作的にうなされ始めるのだ。

 ―――どうしてあの時槍を投げたの……?

「―――朝御飯、食べてくるでち。リースしゃんにも、何かもらってくるでちか?」
「え?ああ……お願いします。ゆっくりしてきてくださいね」
 シャルロットに声をかけられ、リースは現実に引き戻され、慌てて答えた。
「じゃあデュランしゃんのことはお願いするでちよ」
 そう言い置いて部屋を出る。扉を閉めたところで、ささやくような声が響いた。
(……シャルロット……シャルロット……)
 シャルロットは驚いて辺りを見回した。しかし、誰もいない。
 空耳か、精神的に疲れているのかなと思ったとき、ふっと目の前に可愛らしい妖精の姿が現れた。
『私も一緒に行ってもいい?』
「なんだ、フェアリーしゃんでちたか」
 横に並んで肩の上にちょこんと座り込むフェアリーにシャルロットは笑いかけた。よく考えれば、なじみのある声だった。
「デュランしゃんと離れて、大丈夫なんでちか?」
『あなたたち三人からは聖気が出ているから、すぐ傍に居ればしばらくは大丈夫。―――それに、今、デュランの頭の中、とても混乱してるし、私がいると余計かきまわしてしまいそうだから……』
 フェアリーの言葉に、シャルロットは神妙に頷き、ふと窓を見た。
「雨、降ってきまちたか……」
 ぱらぱらとまばらに降る雨。石畳は所々が染みのように濡れている。
 雨のベールはやがて石畳の全面を覆い、サ――ッ……という静かな音を街中に響かせ始めた。


 リースの耳にも、雨音は聞こえていた。
 デュランの傍に丸椅子を持ってきて、リースは彼の看病態勢に入る。
 額におかれたタオルはすっかりぬるくなってしまっていて、タオルを取り除いてそっと額に手を当てると、まだ熱を帯びていた。小さく溜め息を吐きながら、水の張られた桶にタオルを入れ、しぼって再びデュランの額に置く。 
 今は穏やかに眠っているデュランを見つめながら、リースはもう一度質問を繰り返した。
 どうしてあの時槍を投げたの?
 あの時デュランは危機に瀕していた。リースが加勢しなければ、彼はあの場で命を落としていたに違いないのだ。
 しかし。確かに召喚魔法では詠唱は間に合わなかったかもしれないが、手元に何かしら攻撃するための魔法道具ぐらいは持っていたのだ。
 武器なんて投げれば、自分に対して注意を向けてしまうことは明らかだ。丸腰で敵の注意を向けさせることが、どれだけ愚行であるか、軍団長としてアマゾネスたちを束ねるリースにはよくわかっているはずのことであった。
 それなのに。
 頭の中ではそれを考えながらも、彼女は手に携えていた槍を投げたのだ。
(まだ、ローラントは復興されてない。それを果たすまで、私は死ぬわけにはいかなかったのに……)
 黒耀の騎士が自分に向かってきているときでさえ、恐くはなかった。死を恐れてはいなかった。
 ローラントのことなど、何もかも忘れていた。
 ただ、デュランが危険から脱したという、それだけで満足だった。
 あの瞬間は、いつも頭にあったはずのことはすべて頭から吹っ飛んで、デュランのことしか見ていなかった―――デュランが助かりさえすれば、自分はどうなってもいいと、本気で思っていた。
(でも……そのせいで、デュランは……)
 結果として、デュランは黒耀の騎士―――父親に剣を向けることになってしまった。
 否、先に進むためにはそれは避けられないことであったはずだ。それでも、自分が手出ししなければ、もう少し違う形で通ることができたかもしれないと、思う。
(わたしの……せいで)
 胸に走る痛み。締め付けられるように苦しい。デュランの今の姿を、自分が喚起したのだと思うと、世界全てが終わったと思えるほど、哀しかった。
 ふと、耳に聞こえた呻き声が、リースの意識を引き戻す。
 さっきまでは落ち着いて眠りに落ちていたはずのデュランが、うなされていたのだ。何かを求めるようにわずかに動いた左手をリースがそっと握ると、怯えているように力を込めて握り返される。
 手加減なしで握られて、少し痛みを感じても、リースは顔一つ変えずにデュランを見守っている。わずかに振れ合う手から、震えが伝わってきて、むしろそれがリースに身体に染み込むほどの痛みを与えていた。
 どんなときでも頼りになる、強い人。弱さを見せたことのないこの人が、こんな風になるなんて、いったいどれぐらい傷付いているのだろう……?
 リースは、デュランの額に静かに手を伸ばした―――。


 ―――デュラン……強くなったな。
 憧れていたあの人に、たとえ目の前にはいなくても目標としていた人に、そう言われたことは、とても嬉しかった。
 全ての騎士の頂点に立つ、黄金の騎士・ロキ。
 今もって偉大なる人だと憧れをもって語られる父を、デュランはその剣を振るい戦う姿を目にすることなく育った。それでも、あちこちで語られる武勇伝を聞くうちに、自然と父を目標としていくようになったのだ。
 強くなりたいと思った。いつか父に並べる騎士となれるように―――。
 それを試す機会があるとは、まったく思ってもいなかった。しかも、あんな形で―――。
 突然目の前に蘇る光景。
 視界全てに広がる黒光りする鎧。
 手から全身にしみ渡った、肉を切った感触。
 血の匂いもせず、死が迫る雰囲気すら感じない、だがそれゆえに何よりおぞましかったあの瞬間。
 だが、何より恐ろしかったのは。
 父に完全なる死を与えたのが、―――自分だったということ。
 何をしたのか、まったく記憶がないにもかかわらず、そのことだけははっきり自覚していて、疑う余地すらない。
 自分の握っていた剣が、間違いなく父の肉体を貫いていたのだから。
(俺は……)
 そんな形で再会したくはなかった。そんな形で自分の力を試したくはなかったのに―――。
「うあぁぁっ!」


 全身がだるい。開けるのも嫌になるほどまぶたが重い。それでもデュランは渾身の力を振り絞って目を開けた。
 焦点が定まらず、何もかもぼんやりと映る中で、最初に飛び込んできたのはリースの顔だった。双瞳からこぼれんばかりに涙をあふれさせている……。
 いったい何事かと飛び起きようとしたが、身体が思うように動いてくれず、その動作は緩慢だった。
 ようやく身を起こしたところで、自分の左手が、しっかりとリースの手を握っていたことに気付く。離そうと思ったが、石化したかのように、固まったままだった。
「リー……ス、何、泣いて……」
「泣いてるのは……貴方ですよ」
 今にも伏して泣き出してしまいそうな声で言われて、そこで、自分の頬を伝うものに気付いた。指で拭って、自分が涙を流していることを理解した。
 熱と涙とでぼやける視界に、涙を拭った右手がある。デュランは頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。その衝撃は鈍痛となって頭全体を揺るがす。フェアリーがいたら、まず間違いなく混乱し、悲鳴を上げていたに違いない。
 そう―――自分はこの手で、この手で握った剣で、父を―――……。
「……っ」
 枷が外れたように、涙が止まらなかった。その姿を見られたくなくて、意味がないとわかっていても右手で顔を覆って俯く。
 リースは何も声をかけなかった。
 ただ、まだ繋いだままの手に軽く力を込めて、彼を抱きしめるようにそっと身を寄せただけだった。
 そんなに苦しいの。いつも頼りになるあなたが、子供みたい。そんなに傷付けてしまったの……?
 その身に与えられる温もりに例えようもない温かさを感じながら、デュランはしばらく泣き続けていた。
 外の雨が、二人を隠すように強くなっていった。


「涙雨……でちね」
 窓の外、ゆっくり雨足が強くなっていくのを見つめながら、シャルロットは呟いた。昔ヒースから聞いた話を思い出す。涙雨とは、流す涙のようにほんのわずか降る雨のこと。しかし、もうひとつ意味がある。涙雨とは、悲しい思いのときに降る雨だと。
 悲しみの涙が雨と化す。それは、誰の悲しみに呼応する雨なのか。
『大丈夫かな、デュラン……』
「……わかんないでち。でも、もう少しゆっくりしてから行ったほうがいいでちね、きっと」
 すでに朝食の時間帯は過ぎていて、酒場兼食事処の一階には茶飲みの客がいるだけだ。しかも外が雨ということもあってか、人はまばらである。シャルロットも食事を終え、食後のお茶を飲んでいるところだった。
 しばらくしてシャルロットのお茶が空になる頃、またフェアリーが声を上げる。
『そろそろ、行ってみない? シャルロット』
 フェアリーが心配そうに言うのにひとつ頷くと、シャルロットは椅子からたんっと飛び降りて、食事の乗った盆を抱え、二階に向かった。


「リースしゃん?」
 二階を上がってすぐ、シャルロットの視界に廊下で窓の外を見ながら黄昏れているリースの姿が入る。すっかり落ち込んでいるような様子である。
「あ……シャルロット」
「デュランしゃんは大丈夫なんでちか?」
 シャルロットから盆を受け取りながら、リースは頷いた。
「ええ。泣き疲れたみたいで……ちょっと前に眠ったところです」
「やっぱり……でちか」
 あのデュランが、とはシャルロットは思わなかった。
 両親の死の真実を知った自分が感じた悲しみ。あれと等しいとは思わないけれど、剣さえ握れなくなるほど衝撃だった悲しみを前にして、泣かない人などいないだろう。自分みたいな子供はおろか、普段涙など流さないような逞しい男の人だとしても。
 もし泣かないとしたら、それはきっと、悲しみが涙を通り越しているのだと思う。
「で、リースしゃんが落ち込んでるのは、どういう了見でちか?」
 いきなり確信を突かれて、リースは絶句した。いくら外見が子供に見えても、間違いなく十五年を生きてきた少女であることをあらためて実感する。自分と一年の差しかないのだ。下手をしたら、人生経験は彼女のほうが上かもしれない。
「……」
「どうせ、デュランしゃんがこうなったのは自分のせいだ、とか思ってるんでちよね?」
「……はい」
 さらに悩みの中身までずばり言い当てられ、リースは恐縮するしかなかった。シャルロットは心の中でやっぱりと天を仰ぐ。
 こういう彼女にそれは仕方のないことだ……といっても意味がないことを、シャルロットはよくわかっている。頭でわかっていても、心が承諾できていない。ただそれだけなのだ。
「そんなにそう思うんだったら……」シャルロットは言った。「一緒に、傷を負えばいいんでち」
 一人では立ち上がれないほどの傷でも。傍に手を差し伸べて支える人がいれば。二人なら。
 きっともう一度歩き出せる。
「でも、どうしたらいいのか……かける言葉も見つからなくて……」
 リースの言葉に、シャルロットはちっちっと指を振った。
「リースしゃん、シャルの言葉を聞いてまちたか? 誰も言葉をかけろとは言ってないでちよ」
 傷ついた心を癒せるのは、心と時間だけ。言葉では癒せない。
 ただ、心が心を癒そうとするときに、媒体のひとつとして紡がれるのが言葉であるというだけだ。中身の伴わない言葉では、傷をさらにえぐるだけだろう。
「シャルはデュランしゃんに『言葉』しかかけられないでちからね。だからリースしゃんに看病をお願いしたんでちよ」
 貴女には、できるでしょう―――貴女の抱える傷と、そして何より支えたいという心で。
 シャルロットは真っ直ぐリースを見た。そのシャルロットの目を見て、リースは彼女は全部知っているに違いない、と思った。自分がまだ気付けずにいることも、自分が槍を投げた意味もすべて。
「……私……は……」
 一度目を閉じて深呼吸し、次に目を開けたときは扉のほうへ向き直っている。
 私はデュランを護ろうとした―――それはどこまで行っても変わらない事実。
 けれど、その引き金を引いたのは。
 自分の中の言葉にならない、意識下の思いのようなもやもやした感情。
 その形が見えれば、きっと自分がしたいことも見つけられる。
 背中の下のほうを、ぽんと押される。シャルロットの温もりだ。その小さな熱が、全身に広がって自分を潤すような気がして、リースは扉に手をかけた。
「あ、そういえば、リースしゃん」出鼻を挫くようにシャルロットが声をかける。「あの時、デュランしゃんが叫んだの、聞きまちたか?」
 あの洞窟の中で、あの時。
「え……いいえ、それが、何か言っていることはわかったんですけど……。あのとき急に周りの音が聞こえなくなって、中身までは……」
「そうでちか」
 リースが部屋に入るのを見送りながら、シャルロットは気付かれないように溜め息を吐いた。


(前途多難な人たちでちねえ……)
 扉に寄りかかって腕を組み、シャルロットは密かに呆れた。自覚するのが遅くて、言ったかと思えば肝心な相手は聞かなかったときた。この調子では言った本人も覚えてないのではなかろうか、とシャルロットは思った。
 シャルロットは頭の中でデュランのあの時の言葉を反芻した。
 ありがちな言葉だ。
 普段のシャルロットなら、別の場所で聞いたなら、辛辣な評価をしたに違いない。もう少し気のきいた言葉はないのかとかなんとか。
 しかし、今に限ってはそう思わなかった。
 今の彼にはその言葉が一番相応しいと、そう思えるからだ。
 その証のように、今この瞬間に聞いているかのように、思い出す響きは鮮明だった。

『リースに指一本触れさせるかっ!!』

 その言葉が、きっと彼の想いの全て。


 ―――まだ、雨は降り止まない。


つづく
2001.11.7


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