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あの人のためにできることは、戦うことだけ。
望むものは、力。
何者を前にしても、相手を葬り去れるだけの圧倒的な力を、どうかこの手に。
―――けれど。
目の前にある、この迷いは一体何なのか。
久しぶりのまともな宿。
宿の売りである風呂にゆっくりつかり、爽快な気分で鼻歌を歌いながら廊下を歩いていたホークアイだが、目的地のある部屋の前にたどり着いたところで、なにやら口論のようなものが聞こえてくることに気付いた。
(なんだ……また喧嘩か)
彼にとっては日常茶飯事の、たいして大きな問題ではない。しかし、だからといって陽気に扉を開けて入っていけば、二人の矛先はこちらに向かってくるのに間違いはない。
余計な怪我はしないに限る。
とりあえずの対策として、扉に耳をつけ聞き耳でも立てようかと、扉の前に近付いた。
と。
「もう知りません! 勝手にしてください!」
唐突に扉が外に向かって開いた。しかも、外の壁に向かって叩きつけるような勢いで。何かがそこを風のように通り抜けていく。
(……!)
悲鳴にならない悲鳴というのはあるものだ、とホークアイは頭の片隅で冷静に考える。
ぶつけたのは頭ではないはずなのだが、間違いなく一瞬目の前に星が飛んだ。
そのままずり落ちそうになるのをこらえ、ホークアイはぱたぱたと駆け去っていく風の正体を目で追う。
鮮やかな若草色のリボンでまとめられた金髪が揺れながら遠ざかっていった。あっという間に角の向こうに消えていってしまう。
中から押し開ける扉はちょうど半分開いた状態でホークアイにぶつかったのだった。あの勢いなら、当たった手ごたえはあったはずだが、こちらに気付く様子もなく、金髪の少女―――リースは走っていってしまった。
涙目になりそうな痛みと衝撃をこらえて、とほほ……とホークアイは鼻の頭をさする。こういうとき鼻の高い奴ぁ困るなあ、と自分を慰めてはみたものの、痛みは和らぎそうにない。
鼻だけが真っ赤では、どんなにいい顔だろうと台無しである。
「ったく、喧嘩するのはいいけど、いっつもとばっちりは俺なんだよなぁ」
小さくぼやきながら、ホークアイは開いたままの扉を回り込んで部屋に入った。
中にいるのは、予想通り、憮然として椅子に座っている茶髪の青年―――デュランだった。
デュランが座っている横のテーブルには、応急処置用の道具が箱から出てばらばらと散らかっている。三人のうち誰も回復魔法を使えないこのパーティでは必需品であった。
「いったい、今度は何が原因なのかねぇ」
「……いたのか、ホークアイ」
「いやいや、絶妙なタイミングでしたね。おかげさまで愛の鉄拳扉攻撃なんぞ食らってしまいましたとも」
面白くもなさそうにホークアイが言うと、デュランはいぶかしげに顔を上げた。何の話だと言いたそうな表情だったが、ホークアイの顔を見るなり目を瞬かせ、無言で視線を下げる。
鼻がどれほど真っ赤になっているかは知らないが、何か理由を察したらしい。そういや妙な音がしたっけな……と呟くのが聞こえてきた。
とりあえず、まずは喧嘩の仲直りから始めなければならない。
とはいっても、ホークアイがしなければいけないこと、というのはごくわずかだった。
「んで、原因はなんなの」
「……傷の手当てを」
「ぁん?」
言われたことが要領を得ず、ホークアイは間抜けな声で返事をした。
首をひねりながら、デュランは続ける。たぶん、本気で悩んでいるのだろうと思う。
「―――しようと思ったんだが、大丈夫だと言い張られた。あれだけ血を出してて、しかも利き手だぞ、大丈夫なはずがないだろうが」
「で、なんだかんだと言っていたら、いつの間にか喧嘩になっていた、と」
ホークアイがさらりと補完すると、デュランは黙り込んだ。
沈黙の肯定。別に勘がいいとかではない、二人のお決まりのパターンなのである。
敵を突破する戦略などを考えるときは、こいつら頭が繋がってるのではないかと思うほど一致した考えを見せるのに、こういうことは相も変わらず平行線だ。同じことを考えているくせして。
いい加減学習したらどうかと思う。
(まあ、そんなこと心得てるデュランとリースも、ちょっと怖いけどな……)
傷口をあのまま放っといていいわけないだろう、とか膿んだらどうするんだとかぶつぶつと呟いている朴念仁の濃茶色の頭を、ホークアイは半目で見つめる。
とりあえず、その言葉をそっくりそのままお返ししてやりたい気がした。
強がる気はわかるけれど、少しはリースの気持ちを察したらどうか。何のために、彼女がここの宿をわざわざ選んだと思っているのやら。
……たぶん、まったく気付いていないに百ルク。賭けてもいい。
「そういや、お前風呂は入らねえの?」
ホークアイがそう声をかけると、デュランの全動作がびたりと止まった。
「切り傷にもよく効くらしいぜ。ってもリースはあれだけ傷が深そうだと入っても滲みそうだけど……」
言い終わらないうちに、デュランがぎろりとホークアイを睨み返してくる。だが、身体はまったく動いていなかった。
いらいらしたときによく見せる足を組みかえる動きも、今はまったくない。動かしたくないのは、一目瞭然だ。そんな無意識の動きすらないのだから。
「……気付いてたのか」
静かなデュランの言葉に、ホークアイはわざとらしくため息をついた。
「俺たちに完全に背中を向けてたから、隠したつもりだろうけどな。歩き方もおかしけりゃ視線もそっぽ向いてれば、気付くだろ、どっか怪我しててしかも俺たちに隠してるって」
ホークアイはデュランを見た。表情は動かないが、これでも長い付き合いだ、動揺しているのがよくわかる。額の汗は暑いからではなくて、耐えているから。
たいした奴だ、といつも思う。こちらとしては、たまには背中を預けるのも悪くはないんじゃないかとは思うのだけれど。
深く息を吐き出すと、デュランは感情のこもらない声で尋ねてきた。
「リースも気付いて?」
「さあな、言われたわけじゃない。―――けど、この温泉付きの宿を選んだのは、リースだぜ」
デュランが立ち上がる。一瞬顔をしかめて―――すぐに元に戻した。
テーブルに散らばった薬や道具を手早く箱に片付けると、引っつかんで歩き出す。
「ちょっと行ってくる」
「ああ、リースは廊下を真っ直ぐ行ったよ」
手で礼を示すと、デュランは悠然と廊下を歩き、角を曲がって姿を消した。立ち上がっただけで痛むような傷を抱えて、あれだけ外見だけは平然と歩けるのだから本当にたいしたものだとホークアイは思った。
(やれやれ……)
今回もさして尾を引くことなく終わりそうで、ホークアイはほっとする。
いい加減学習して欲しいと思いつつ、意外とこのやり取りを彼は楽しんでいた。
別に仲直りのセッティングをしてやる必要はない。ほんのちょっと、既に用意されている引き金を引いてやるだけ。あとは放っといても勝手に二人でやっている。
二人とも、同じことを考えているのだから。