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やっぱり、気付いてたのか。
リースの顔を見て、デュランは真っ先にそう思った。心のつかえが取れて、気を緩めたのが仇になったか。
「どうして、こんな……酷い傷、手当てもしないで……」
「―――今は、先に進むのが先決だと思った」
真っ直ぐこちらを見据えてくる青い瞳を直視できなくて、デュランは視線を逸らしてしまう。視界のちょうど真ん中に収まる、片隅の観葉植物。
「このまま進んで、倒れたらどうするつもりだったんですか!?」
がん、という音がしそうな勢いで、リースは言葉と共にソファから立ち上がる。もちろんその表情は見えないのだけれど、語気が荒いことから、怒っていることは容易に想像できた。
それでも、デュランは観葉植物から視線を動かすことができずにいる。日も当たらず、自然の風も吹かないこの場所に寂しげに置かれたその植物の葉は、心なしかしおれているような気がした。
伊達に一緒に旅をしてきたわけではない。自分の傷の深さは自分自身が一番わかっていたし、彼らがデュランを心配し、叩き伏せてでも休ませようとするだろうことはすぐに想像がついた。
それでも、親友や、家族や仲間の仇に一歩ずつ近付き、一刻でも早く仇を討ちたいと二人がはやる気持ちを抱えていることも知っているから。
魔法で傷を癒すすべもない自分たちが、これだけの傷を癒すには時間がかかることもわかりきっていて、それでも、彼らにさらけ出すことはできなかった。
けれど、そう振舞った結果がこれだ。
「……すまん。考えが甘すぎたな」
ずいぶんと長い沈黙の後、デュランは相変わらず同じ姿勢のまま、リースに謝罪した。
ぽすんとソファの沈み込む音がする。その音に、デュランがようやくリースのいる場所へ首をめぐらせると、リースは呆気に取られた様子でソファに座り込んでいた。
デュランが思い出したように捲り上げられたままの上着を下ろすと、リースはその動きで我に返る。テーブルの上に開けられたままの箱を自分のほうへ引き寄せると、道具を引っ張り出しながら、デュランを睨み付けてきた。
「……すまないというくらいなら、おとなしく手当てを受けたらどうなんですか?」
その手には包帯と薬草。真顔のリースに、デュランは頬に汗が流れていく感覚を確かに感じた。
「……待て。ここでか?」
談話室だろうとはいえ、区切られているわけでなく、すぐ横は廊下。あまり宿泊客はいなかったけれど、ここを誰も通らないとは断言できない。
そんな場所で、腹を晒してしかも年頃の娘に手当てを受ける姿……。
デュランは思わず顔を引きつらせたが、リースは眉を吊り上げたまま表情を変えなかった。
「おとなしくしていればすぐに終わります。私だってここで手当てをしてもらったんですから、そのくらいは当然でしょう」
いや、何より手当てする場所が違うだろうに。
デュランはとっさにそう思ったが、寸前で心の中に留めておいた。それを言えば、またあの部屋でやったような喧嘩が勃発することは目に見えていたからだ。
ため息をついたあと、デュランはおとなしく上着をめくる。もう一度傷をじかに見る羽目になり、リースは一度息を呑んだが、それきりあとは黙って傷の手当てを始めてしまう。
無言の時間と、時折襲い来る傷の痛みと。
―――こうしてリースに傷の手当てを受ける度、デュランは思わずにはいられない。そして、それがなるべく彼らに傷のことを知られたくない一番の理由だった。
「……悪いな。俺が、光の力を選んでいたら、こんなまどろっこしいことはなかったろうに」
デュランはぼそりと呟いた。別に彼女が聞いていてもいなくてもかまわなかったが、聞こえたのだろう、リースは顔を上げてこちらを見つめてくる。
戦う力が欲しかった。何者を前にしても決して負けない力。
そして、敵を完全に屠るために、剣に魔力を宿らせるすべに目覚めたとき、デュランは気付いたのだ。自分の中から引き出されたこの魔法能力は、方向性を変えれば仲間を守り傷を癒す力にもなったのだということに。
襲い掛かってくる敵が徐々に強くなり、傷を負うことが増えてくるに従って、その思いははっきりした輪郭を伴い、デュランを苛むようになってきていた。
ホークアイの持つ力も、リースの操る魔法も、あくまで戦う力を補助するものだ。傷に働きかける素質を持たないことは、彼らの話からわかっている。回復魔法を使う可能性があったのは、デュランだけなのだ。
選んだのが光の力なら、こうして傷を癒すために足止めを食うことも―――。
もしかしたら、その瞳に宿る影に気付いたか。リースは目を瞬かせたあと、優しい眼差しでこちらに微笑みかけてきた。
「―――私もホークアイも、今まで魔法を使えなかったんです。だから、傷付いたら、こうして手当てするしかなかった。それはデュランも同じでしょう。私たちは今までと同じことをしているだけ。なんにもおかしいことはありませんよ」
魔法という存在が身近にあるから、不便さを感じるだけ。普通の人から見れば、当たり前の行為。
なんでもないことのようにさらりと言い切ったリースに、デュランは目を瞬かせた。
こちらを見つめ返す彼女の瞳は、何の迷いもなく澄みきっている。その考え方は何か間違っていますか―――表情がそう問いかけていた。
デュランの口元に、わずかに笑みが浮かぶ。
「……そう、だな」
迷いから生まれる影すらも、彼女は光照らし消してしまうのかもしれない。
そうだ―――それが理由だ。戦うためのより強い力を欲した理由。
フェアリーに選ばれ、聖剣を抜く勇者として常に前を向き戦い続ける彼女に、自分ができる唯一の方法で、手助けをしようとした。
包帯が巻かれ、幸いにも誰も廊下を通ることなく手当てが終わる。立ち上がってみても、全身を貫くような痛みは感じなかった。
ひとつため息をついたデュランは、リースの瞳を見返すと礼を言う。
「ありがとう」
傷の手当てと、そして今の言葉とに。
リースはにっこりと微笑むと、箱を持って立ち上がる。デュランとリースはそのまま他愛ない話をしながらホークアイのいる部屋へと歩き出した。
今言った言葉にかけられた二つの意味に、きっと彼女は気付かない。
それでもまったくかまわない。
どうか、彼女のために戦う力を、最後までこの手に。