一年に一度、還って来る先祖や故人を、火で迎え、そして火で送り出す風習があると教えてくれたのは、―――さあ、誰だったっけ?
逢いたい。
たった一目だけ。そうしたら、また生きていけるから。
マナが薄くなり、街に入り込む寒さが厳しくなりつつある極寒の地アルテナにも、わずかな夏は来る。
そのときばかりは、常に大地を覆う雪は跡形もなく溶け去り、輝く太陽に抱かれ、アルテナは緑に包まれるのだ。白く色のない世界は、色鮮やかな世界へと姿を変え、ここの所寒さに疲れつつある人々の心を元気付けてくれる。
一年のうち、ほんのわずかしか巡ってこない、自然の宴。
アルテナ城で最も高い場所からは、城壁の外が色とりどりの花々に埋もれるのを見ることができる。
「う~ん、やっぱり温かいのはいいわよね」
その最上階の窓に頬杖をつき、爽やかな風を浴びて満足そうな顔をしながら、アンジェラは呟いた。
一年ぶりのまばゆいほどの輝きに、雪にも映える鮮やかな赤紫の髪が煌めく。
夏とはいえ、ナバールのような「暑さ」とはやはり程遠い。空気はまだどこか雪の頃の冷たさを残し、陽光の鋭さを弱めるかのようだった。
「しばらくここに居ようかな~」
眺めのよさと風の心地よさにご機嫌のアンジェラが鼻歌を歌いだそうとしたとき。やや間の伸びた声が下から響いてきた。
「アンジェラ様~、見つけましたよ~」
「……やばい」
思わず下を見て、アンジェラは唸る。風を感じるために少し身を乗り出していたのがあだになったらしい。下から、完全に見えていたのだ。
中庭の飛び石の通路には、書類を抱え、もう一方の腕を振り回しているヴィクター。
「アンジェラ様~、今日こそはちゃんと書類を書いてくださいよ~」
「まっずい! 早く逃げなくちゃ!」
アンジェラは慌てて窓から身を引いた。ヴィクターが上へ上がってきて、逃げ道がなくなる前に下りてしまわなければ。
急いで走り出す。らせん状の階段を下って、一番上のフロアへ出た。
さあ、どこに逃げよう。ヴィクターはまっすぐこの棟へ向かってくるはず。
「……となると、やっぱり逃げるのは城門のほうよね」
小さく呟くと、アンジェラは棟の隅、中庭を通らずに城門方面へ行くための通路へと走り出した。ヴィクターが素直に中庭を突っ切ってここへ来てくれることを祈りながら。
惹かれるように、アンジェラはある場所へと向かっていた。
いつも、その姿を見るたびに思う。
もし、ひとつでも歯車がずれていたら、こんな未来もあったのかな?
扉を開けると、使い込まれ年季の入った紙の匂いがした。めったに開かれない部屋の中にはインクの独特の匂いが立ち込め、一瞬めまいを覚える。
司書すらいない図書室には、誰の気配もなかった。
扉の隙間から上手に滑り込み、アンジェラは後ろ手で扉を閉める。遥か上にまで広がる本棚。
魔法の呪文を中心とした図書室だった。だが、たいていにおいて必要な魔法についての基礎知識は訓練室内で教えられる。図書室で調べるとすれば、魔法に独自の個性を持たせたいとか、あるいは訓練では教えられない高度な呪文を調べる程度だ。大抵の魔法使いにはあまり必要ではない。
今日は、この図書室の常連の一人であるホセもいないようだ。
アンジェラは、懐かしい思いで図書室の中を眺めた。
(ここで、一生懸命ホセから魔法を覚えようとしてたっけ……)
旅立つ直前は、ホセの所へ毎日通い、なんとか魔法を使えるようになりたいと必死だった。以前よりも必死になったのは、もちろん母に振り向いて欲しかったせいでもあるけれど、あいつが―――紅蓮の魔導師―――、魔法を使えるようになって旅から帰ってきたせいかもしれなかった。
「二人とも、魔法が使えなくて、必死だったんだよね……」
彼の指定席でもあった机の一角に、アンジェラは微笑みかける。ホセの他にもう一人いた、この図書室の常連とは、―――彼。
アンジェラと同じように、アルテナに生まれながらにして魔力を持っていなかった彼は、何とか独学で魔法を使えるようになろうとここに通いつめていたのだった。
いつも同じ場所に本を積み重ねて片っ端から本を読んでは、写した書付を持って城の片隅で実際に魔法を試みていた。
―――同じ境遇の人がいる。アンジェラが、必死に魔法を使えるようになろうとしている彼に気付くのに、それほど時間はかからなかった。
あれから、思うよりも長い時間を過ごしてきたのだ。彼が修行の旅に出るまでは。
アンジェラは机の方向を見たまま、瞳を閉じた。
色々あって、彼とは雌雄を決して、そして既に彼はいないけれど、それでも。
「でも、やっぱりあたしは、あんたのこと、今でも……好きよ」
それは秘められた想いだった。アルテナ女王を手にかけようとし、アルテナ王国を思いのままにしようとした紅蓮の魔導師は、おそらくその名を永遠に抹殺されるだろう。たとえそれが彼一人の罪ではなかったとしても。
だから、彼のことを懐かしく語ることは、彼への想いを語ることは許されない。アルテナ王女であれば、なおさら。
そっと呟いた後、アンジェラはゆっくり瞳を開いた。そして、その場所に確かに見る。
指定席に座り、ゆっくりと本をめくっていく彼の姿を。実際にそうしていた少年ではなくて、紅蓮の魔導師として帰ってきた、青年の姿で。
実際には記憶にない姿。それは、彼がこの世を去ってから、夏の度に繰り返される幻。
アンジェラ以外は、きっと誰も知らない。気付いているはずがない。
そっと近付いても、蜃気楼のようには消えない。アンジェラはいつものように近付いて、彼の向かいに腰を下ろした。
じっと見つめると、幻の彼はふっとこちらを見て笑う。少年のときによく見せた、困ったようなおかしそうな表情。
旅が終わって、久しぶりに図書室に入ったあの夏の日。明らかにこちらに反応するこの幻の姿を見たとき、アンジェラは思わず泣き出しそうになった。
そして、一年にこの時期だけ、静かに再会は繰り返される。
アンジェラは、机に頬杖をつくとずっとその姿を眺めていた。彼らしく、本に夢中になったままこちらを見ないその姿を。
一年に一度、還って来る先祖や故人を、火で迎え、そして火で送り出す風習があると教えてくれたのは、―――さあ、誰だったっけ?
アルテナでは、随分と前にはその風習はなくなっていたらしかった。
でも、確かに今ここにある、こんな小さな事実。
静かな時間は、騒々しく扉の開いた音と、荒い息と共に吐き出された叫びに遮られた。今にも床にへたり込みそうな様子で扉に寄りかかり、ヴィクターがアンジェラを呼ぶ。
「アンジェラさ~ま~。やっぱりここにいましたね……」
「あらら、見つかっちゃった」
アンジェラは苦笑した。これがいつものパターンだ。逃げ回るアンジェラは、必ずこの図書室で御用となる。
立ち上がったアンジェラは、『彼』の方を見た。本をめくる手を止め、不思議そうな顔でこちらを見上げている。『彼』を知っているはずのヴィクターが騒ぎ出す様子はないから、やはり彼はアンジェラ以外の他の誰にも見えていないのだ。
最後に、アンジェラはもう一度彼に微笑みかけて、一言言った。
「大丈夫よ、絶対に忘れたりなんかしない。―――またね」
くるりと振り向き、ヴィクターの方へ走り出す。あとは一度も振り返らない。
彼女がヴィクターと賑やかに扉から出て行く、その後ろで、ゆっくりと姿を消していく彼。
夏にだけ現れる幻が何の名残も残さず消えると、図書室にはもう誰の姿もない。
決して、忘れない。
今日も、明日も、これからも。
あたしが生きている限り。
どんな道を選んでも、きっと心は傍にある。
―――ずっと『一緒』に、生きていこうね。
END
2003.8.13