待ってと叫んでも、阿高たちには届いていないようだった。
苑上は一面草に覆われたどこかに立っている。たぶん武蔵のどこかなのだとは思う。
阿高は、藤太や広梨とともに遥かな向こうにいる。彼らは馬に乗りあっという間にこの草原を駆け去ってしまい、既に苑上には人が馬に乗っているとようやくわかる程度のおぼろげな影にしか見えない。
苑上は必死に三人を追いかけたけれど、馬の繰り方を知らない彼女は自分の足で走るしかなく、当然ながら引き離されるばかり。
ついに力尽きて苑上は立ち止まってしまったのだった。一息ついて先を見れば、もう三人の姿はどこにも見当たらない。苑上は置いていかれたのだ。
声の限りに叫んでも、阿高は振り返ることもなく他の二人と楽しそうに笑っていた。苑上のことを省みもせずに。
視界がぼやけ始めていることに気がついて、苑上は着物の袖で力いっぱい涙を拭った。泣いてはいけない。阿高が悪いのではないのだ。ついていく力を持たない苑上が問題なのだ。
もしかしたら、阿高たちは苑上を心配してずっと向こうで待っていてくれるのかもしれない。ひたすらあの方向へ歩いていけば、三人に追いつくことだってできるかもしれない。
しかし、苑上の足は疲れ切ってもう一歩も動くことができなかった。
自分が男であればよかったのだと、苑上は唇を噛み締める。男だったら、阿高と同じように馬を操って、彼らに並んで草原を駆けることもできただろうに―――。
小さく火の灯された明かり皿の向こう。苑上はそっと阿高の様子を伺った。昼間と違ってこの暗さでははっきりとは見えないけれど、それでも阿高が呆れて―――むしろむっとしていることだけはわかる。
「……それで、うなされていたのか」
しばしの沈黙の後、阿高は静かに息を吐いた。
「いくら夢でも、それはないだろう。おれが鈴を置いていくなんてこと」
それはもちろん苑上にとってもわかっていることだ。実際にいつもつるんでいる三人で遠乗りでもしようということになれば、必ず苑上も連れていってもらえた。大抵は阿高の馬に乗せられて、置き去りにされることなどなかったのだ。
けれど、あの夢は。こちらを省みなかった三人がひどく冷たく感じて、苑上はそのままかつて感じた闇に飲み込まれそうな心地だった。
「でも、夢に人が現れるのは、その人がわたくしを思ってくれるからなの。それなら、今の夢は」
苑上は続けようとしたが、それ以上言葉が出てこない。それなら、今の夢は、阿高が自分のことを想っていないということになりはしないか。そう考えたら、身体が震えるのが止められなかった。
急に袖を引っ張られ、苑上の身体がかしぐ。慌てた次の瞬間には苑上は優しく受け止められていた。
阿高が引き寄せたのだとわかったときには、既にそのぬくもりの中に閉じ込められている。
「都の風習はおれにはよくわからないけれど……おれも夢で鈴に逢ったことはないな」
近くで囁かれ、苑上は目を瞬かせた。
「……それでは、わたくしも阿高を想う気持ちが足りないのね」
「それなら、おれも鈴もこれであいこってことだろう」
考えもしなかった、と苑上が呟くと、阿高は笑って言った。表情が見えなくても、触れ合う身体から相手の動きが伝わるからわかるのだ。もう苑上は不安に震えたりはしなかった。
朝も早いからもう休もうと阿高が言った。衾を被りながら、苑上は阿高を見る。きっと、苑上の大好きなあの優しい笑顔でこちらを見ているに違いない。
「今度は阿高の夢に出られるように、阿高のことを考えることにする」
「……おれも努力してみるよ」
額に落とされた口付けと、耳元に落とされた「お休み」という声。
寝ているのは違う床だから阿高は傍にはいないけれど、ぬくもりに包まれているのを苑上は感じた。
きっとあの夢を見ることはないだろう。今度は阿高と一緒にいる夢を見られるような気がする。
苑上はそっと瞼を閉じた。
END
初出2006.6.26
再掲2007.4.6