2.それでもやっぱり事件は起こることについて
シャルロットが三人分のティーセットとお茶請けを必死で持ちながら扉を開けると、中からまず最初に賑やかな話し声がこぼれてきた。
ひとつの丸テーブルを囲んで三人の女性達がおしゃべりに花を咲かせている。
蜂蜜色の流れる金髪はリース。空に映えるような鮮やかな赤紫の髪の女性はアルテナ王女アンジェラ。そして、菫色の髪を後ろに尻尾のように纏め上げている女性はナバールのホークアイと共に結婚式に参列するジェシカ。
話し声と笑い声が途切れる様子はない。かすかにため息をつきながら、シャルロットが彼女にとってみれば大きくて重い盆と格闘していると、扉を向いて座っていたアンジェラがこちらに気付いた。
「あ、やっとお茶が来たわね」
その声にリースとジェシカも振り返る。リースは慌てて立ち上がり、シャルロットを手伝ってくれた。
「はいはい、紅茶にスコーンお待たせしましたでち」
「遅いっ!」
リースとジェシカが盆からティーポットやらカップやらスコーンやらをテーブルに移している横で、アンジェラはシャルロットにびしりと指を突きつけて叫ぶ。
シャルロットは思わず半目になって呟いていた。
「……あんたしゃん、人を何だと思ってるでちか……」
「でも、あんな大荷物、一人でご苦労様」
すかさずリースが横から労いの言葉をかけ、ジェシカが賛同してくれたので、とりあえずそれ以上の追及は止めておく。
今日は女三人水入らずで朝からおしゃべりをしていたのであった。アンジェラもジェシカも数日前から既にウェンデル入りしていたというのに、三人が顔を合わせて話すのは今日が初めてだった。
最近よく見られたリースの憂鬱そうな表情も、話すことでまぎれているのか今日はほとんど見られない。時折楽しそうな笑い声も聞こえていた。
「じゃあ、スコーンをいただきましょうか……って、三人分? シャルロットは?」
ここにいるのは四人。用意されたカップは三人分。
アンジェラは不思議そうに首をひねる。
「ああ、シャルは今から用事があるからいいんでち。三人で食べるでち」
「どこか行くの?」
アンジェラに尋ねられ、シャルロットは苦笑した。
「いつもの日課でち」
開け放たれた窓の外から入り込む香りを吹き払うように響く大きな声。
「言えるわけねぇだろー!」
「……あんたしゃん、そんなんで結婚式に出れるんでちか……」
シャルロットは手ごろな椅子に座り込み、膝に聖書を乗せた状態で呆れた顔をしている。
その視線の先には顔を耳まで均等に赤くしたデュラン。
これが一体何回目の試みか。今まで一度もまともに返事できていない。リースがいなくてもこれなのに、本番でリースが隣にいたら、この男、どうなってしまうのだろう。
とりあえず、シャルロットは聖書を閉じて横のテーブルに置いた。
「デュランしゃん」
「何だよ」
顔の赤みは引いたもののまだ頬には残っている。不機嫌そうな声でデュランは答えた。
「あんたしゃん、何のためにリースしゃんに結婚を申し込んだでちか? 国のため?」
「んなわけねぇだろうが、俺は……」
シャルロットの問いに、デュランはあっさりと答える。顔はまだ赤いが、瞳の輝きは真剣そのものだ。照れ隠しもせずに、彼が言葉を続けようとしたそのとき。
疾風のごとき勢いで扉が開いた。
「リースの部屋、さっき誰か出て行った!」
叫びながら飛び込んできたのは、ケヴィンだった。
その日、ケヴィンは花が満開に咲き乱れる中庭に出てきていた。通路を庭に向かって歩いていくと、通りがかったアマゾネスやフォルセナの兵士に軽くどちらまでと尋ねられる。
「中庭。花の香りがいいから、外の木の上で昼寝する」
にっこり無邪気に笑ってケヴィンが答えると、納得したように彼らは去っていくのだ。ケヴィンはビーストキングダムの後継者。獣人の習性なのだろうと受け止められる上に、彼がデュランやリースを純粋に慕っているのを知っているから、結婚式妨害などということは考えないのだろう。
ケヴィンは何人かに声をかけられながら中庭に出た。頑丈そうで座り心地のよさそうな手ごろの木を探す。幹も太くがっちりとした木を見つけたケヴィンは、上の様子を見た。葉もたくさん茂っている。身を隠す場所は充分ありそうだ。
これ、と決めるとケヴィンはひょいと幹にしがみつき、眺めのいい場所まで一気に登る。
枝分かれした部分に腰を下ろし、茂った葉の間から顔を出すと、ケヴィンたちが滞在している館が良く見えた。
辺りはウェンデル名物の花が一面満開。甘い香りが辺りに満ちている。
この匂いにもようやく慣れてきて、ケヴィンは花と一緒に香りも楽しめるようになっていた。食べ物の美味しい匂いとはまた別のいい匂いとして。
ケヴィンはきょろきょろと辺りを見回す。怪しげな気配はもちろんない。フォルセナの兵士が巡回している姿もなかった。
彼の視界の中央にあるのは、館の一階にあるリースの部屋である。何か起これば間違いなく見えるし、ちょっと屈めば姿を隠すこともできる。絶好の見張り場所だ。
ホークアイとアンジェラの怪しげな会話。まだ何も起こっておらず前兆もない。
表沙汰にはできないと言われたものの、何かせずにいられなかったケヴィンはこうしてシャルロットの助言に従い見張りを行おうとしたのだった。窓から侵入しようとする者がいたら、フォルセナの兵士やアマゾネスに見つかる前に自分で何とかしようとして。
穏やかな風が、生い茂る葉を鳴らし、地面を染めるように咲き乱れる花々を揺らす。
知らない人が見たら、怪しげなことをしていると思われるような様子で、ケヴィンはそこからずっとリースの部屋を見つめていたのだった。
だいぶ時間が経つ。穏やかな陽気は眠気を誘うのに十分だ。始めは勢い込んで周囲を睨んでいたケヴィンなのだが、さすがに集中力が切れてきたらしい。ふわ……と欠伸がひとつ、こぼれる。
いけないいけないと眠気を払うように背伸びをしたケヴィンの視界で、何かが動いた。
「……!」
勢いよく中から窓が開いて、飛び出してきたものがある。それは外からの風に大きく翻った。
緑と薄紅色の花畑、そして館の濃茶色の壁にも映える、鮮やかな緋色。
風に翻ったのはマントかローブか。それをまとった人影はゆっくりと地面に降り立つと、緋色を揺らしながら、ケヴィンのいる方とは反対側へ走り出した。
「待って……!」
シャルロットの言葉が効いていた。普通なら「待てっ!」と鋭い大音量で吼えたところだが、ケヴィンは小さく叫んだきりだった。一瞬出遅れ、木から飛び降りたケヴィンがリースの部屋の前に来たときには、既に人影は館の影に消えている。
その場に残る匂いに、ケヴィンは目を瞬かせた。その匂いは、彼がもうこの世にいないと知っている人の匂いだったから。瞳の奥に焼きついた、激しく燃え盛る炎の色。
呆気にとられ、その場に立ち尽くしたケヴィンだったが、ふと思い出して、部屋の中へ視線を向けた。
そこにいるのは、テーブルに突っ伏した菫色の髪の娘だけ。その部屋にいるべき、リースの姿はどこにもなかった。
勢いよく部屋を飛び出したのは、同時だったと思ったが。
ケヴィンが導くように先頭を切り、その後にデュランが続いて廊下を走っていく。シャルロットはその二人の遥か後方から、二人が角を曲がるのを見送った。
一応全力で走ってはいるつもりだったのだが、足の長さの違いと普段からの鍛え方の問題で、シャルロットが二人と一緒に走れるわけがない。
シャルロットがすっかり息を上がらせて角を曲がったとき、既に二人はリースの部屋の前に立ち、扉を叩いて呼びかけている。
「リース、いるのか!?」
角を曲がったところで、シャルロットは走るのを止めた。扉を叩きはするものの、女性の部屋に許可もなしに入るのを躊躇しているらしいデュランに声をかける。
「……ケヴィンしゃんが見たのが本当なら、そこにリースしゃんはいないんでちよね。非常事態なんだから、リースしゃんには申し訳ないでちけど、今は入らせてもらったらどうでちか?」
シャルロットが足音を響かせながらデュランの前で立ち止まると、デュランは困ったようにこちらを見つめていた。その隣ではケヴィンがデュランとシャルロットを交互に見やっている。
しばらくの間の後、決断したらしいデュランは扉に手をかけ、静かに引いた。
「……」
三人で同時に扉から部屋を覗き込む。廊下を滑りぬけた風がそのまま部屋へ飛び込んで、窓のレースのカーテンを外に向かって躍らせた。
部屋の真ん中にある丸テーブルには、先ほどシャルロットが運んだティーセットが広げられたままだ。
シャルロットは他の二人の一緒に部屋に踏み込みながら、テーブルの上を見た。
三つのティーカップはどれも口がつけられた痕がある。そのうち二つはあと数口を残す程度に紅茶が残っていた。それぞれ置かれた茶菓子用の取り皿にもスコーンが乗せられたままだ。
ひとつだけ持ってきた覚えのない香水の瓶のようなものが置かれている他はシャルロットがこの部屋を出たときとほとんど変わりない。
お茶会の途中だということは明らかだった。
そして三つのティーカップのうち一番紅茶が残っているカップの前に、菫色の髪を束ねた少女が突っ伏していた。静かに肩が上下する様子から、どうやら眠っているらしい。
他には誰もいない。この部屋の主たるリースも、そしてもう一人のお茶会参加者のアンジェラも姿を消していた。