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貿易街道はシェリバンという商業都市で北と南に別れ、北の港町アズマールと南の港町ルバーツに至る。どちらもファレーナ王国の貿易で重要な役割を果たす港だ。
デュエールは今シェリバンからアズマールに向けて馬を進めていた。辿り着くのに十日以上かかるこの道には人の往来が多いせいか今まで通った街道よりも町が多く点在し、宿も取りやすい。
街の通りに人が絶えることはなく、時には馬車がいくつも連なる隊商とすれ違うこともあった。行きかう人々の姿も見慣れぬ髪や衣装をしていることが多い。飛び交う声さえ聞いたことのない言葉であったり、旅芸人から面白い異国の話を聞いたりもする。
しかし、残念ながらそれらの話の中にエルティスに関する有益な情報はなかった。
人の目に留まれば、その銀髪だけで間違いなく印象に残る。興行中の一座に髪を銀色に染めている踊り子を見かけたが、<アレクルーサ>になったエルティスの髪の方が艶やかでずっと綺麗だった。それに銀色に煌めく瞳であれば、人目を惹くに違いないのだ。
よほど人気のないところにいるのだろうなと、デュエールは思う。もう半年近く経っているのに、何ひとつ聞こえてこない。そうでなければ、話すら入ってこないほど遥か遠くにいるか―――。
世界は、広いから。昨日泊まった宿で見た世界地図には、母国の言葉で書かれていながら何と読んだらいいか判断がつかない国の名前もたくさんあった。そして、人が住まない未開の場所もたくさんあったのだ。
世界の広さは、旅芸人たちから聞いた様々な話からもわかる。想像もつかない人々の生活や巨大な生き物の話や海に浮かぶ島々の話。デュエール自身が聞いていて面白かったので覚え書き程度にしたためておいたが、エルティスでも目を輝かせるに違いないものばかりだった。
デュエールは手綱を繰るとやや急ぎ足で向かってくる馬車を避けた。少し日が傾いて、赤みがかってきている。なるほど今からシェリバン方向へ行くのであれば、急がなければ街に辿り着かない。
こちらも宿が取れないということはないとは思うが、なるべく早めに入るに越したことはないだろう。太陽の高さを確認するとデュエールは少し馬の速度を速めた。
さらに進むこと五日、ようやくアズマールに辿り着いた。
冷気を含んだ風がデュエールの前髪を梳いていく。久しぶりの潮の匂いを、懐かしいと思った。
デュエールが港を訪れるのは、これが初めてだった。仕事帰りに海を見たことはあるが、港まで降りていく機会はなかったのだ。もっとも彼の行動範囲の中に存在した港とここでは繁栄ぶりがまるっきり違っているだろうが。
王都も人が多いと思ったが、アズマールも負けてはいないようだ。人とものの出入りする場所であるせいか、宿を取るにも一苦労だ。
日も暮れてきた頃、デュエールはようやく空き宿を見つけることができた。空腹と疲労とを引きずったまま宿泊の手続きを済ませる。
一旦部屋で休むか迷った後、デュエールは先に食事をとることにして、同じ階にある酒場を兼ねた食堂へ向かう。少しでも横になったら、そのまま朝になってしまいそうな気がしたのだ。
まだ宵には少し早いのだが、すでに盛り場となった食堂は人が溢れかえっていた。馬から下ろした荷物を抱えたままテーブルの間を抜けながら、置いてくるべきだったかと一瞬デュエールは考える。しかし、すぐに人のいないテーブルを見つけることができた。
荷物を足元に置いて席に着くと、デュエールはほっと息を吐く。
これでも慣れてきた方だと思うが、やはり人の多いところはなんとなく落ち着かない。デュエールはふっと辺りを見回した。酒を酌み交わす元気な人々や周囲お構いなしに語り合う恋人同士らしき人もいる。この賑わいは決して嫌いではないのだけれど。
注文を済ませてお茶をもらったところで、デュエールの座るテーブルの傍に人影が立った。
「ここ、空いてますか?」
かけられた声にデュエールが傍らを見上げると、茶色のマントに身を包んだ青年が誰もいないデュエールの向かい側の席を指差している。人懐こい笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「どこも空いてなくて」
「あ、どうぞ」
そう答えて、デュエールはテーブルの下に置いた荷物をいくらか自分の方へ引き寄せた。その拍子に括りつけておいた剣が床に滑り落ちる。使うこともないしと鞘ごと布にくるんでいたためさほどの音はしなかったが、デュエールはひやりとした。
荷物を直そうとテーブルの下に頭を入れているうちに青年は席につき、通りがかった給仕に注文を済ませたらしい。デュエールが再び頭を上げたときには既に彼の前に湯気を立てるお茶が置かれていた。
「いやあ、ファレーナは初めて来たけど、人多いすねえ」
青年は日に焼けた顔で笑ってデュエールに話しかけてくる。アズマールは北からの流入が多い。燃えるような赤毛は確か北方の民族の特徴だ。歳はデュエール自身とさほど変わらないような気がする。
「王都だともっと多いですよ」
「ああ、やっぱり大きい国は違うなあ」
俺の故郷は小さい国だから、と感嘆のため息をついた青年は北方の小国の名を言った。名前だけは知っている。デュエールも所詮自分の国の一部の地域を巡っていたに過ぎないから、それ以上国の外のことは知らなかった。
そう言うと、青年はまたしても楽しそうに笑う。声は周りの喧騒に負けないほどよく響く。
「そんなもんですって」
彼はルオン・ハーディと名乗り、そのまま故郷のことをいろいろと教えてくれた。小さな国が乱立する中のひとつであること、山の多い土地でお世辞にも豊かとは言えないこと、名産品や古くから伝わる祭りや国を救った勇者のこと……彼はどうやらずいぶんと話好きらしい。
デュエールも話にすっかり引き込まれ、相槌を打ちながら聞いていた。
その話がようやく途切れたのは、二人に注文した食事が届いたときのこと。同じ席で同じものを頼んだせいでひとまとめにされたらしかった。
「おんなじ物頼んでたのか」
「一番安かったから」
「それは言えてる。無駄に金は使えないし」
デュエールの言葉にルオンが真顔で応じる。一瞬後に二人同時に笑い出し、食事を取りながら今度はデュエールがファレーナ王国について簡単に説明することになった。
とにかく広大で平坦。地域による違いはあれど、温暖ではっきりとした四季のある穏やかな気候。魔法都市を抱えているという特殊な国。もう長い間戦はしていない、平和な国。
故郷に仕送りをするための稼ぎ先を探してライゼリアに向かうというルオンに、デュエールは数ヶ月過ごした王都のことを思い出す。あらゆる物と人とが集まる街。
一番最初に思い浮かんだのは、密集した家々だった。中心の王城から遠ざかるほど建物同士の間は狭くなり、人一人通るのがやっとの路地もあったくらいだ。 次に思い出したのは、いたるところにあった出稼ぎ者用の宿。
店を回れば揃わぬものがないくらいに品物が溢れていたし、人が多い分選り好みしなければ仕事も色々とあった。
デュエールは話しながらちらとルオンに視線を走らせた。マントの合わせ目から、皮鎧が見えている。多少剣術の心得があるので、道中商人の護衛をして稼ぐこともあったらしい。都内では商人を狙った強盗も頻発していたから、彼ならデュエールと違ってそちらの仕事もあるだろう。
話からまだ見ぬ王都を想像し子供のように目を輝かせ、あれやこれやと質問してくるルオンを見て、デュエールは思わず笑ってしまった。
初出 2005.12.15