悠久の絆

第2章




 デュエールとルオンはすっかり意気投合し、雨に降り込められたのを機にしばらく同じ宿に腰を落ち着けた。
 もちろんただいたわけではなく、宿の一階の酒場に集まる旅人から色々な噂を聞いてみてはいたが、エルティスを想起させるような話はまったく聞かれない。
 ルオンの方も王都に行くまで護衛の仕事でもないかと捜していたようだが、こちらもあまりいいものはなかったらしい。すっかりふてくされた様子で宿屋に帰ってきた今はデュエールの部屋で茶をすすっている。

「……しっかし、信じられないな」
 茶の渋さに顔をしかめた後、ルオンは思い出したように唐突に言った。
「何が」
「護身術の心得もなくて、一人で旅して物取りにも会ったことがないってのが」
 どうやら今デュエールが様子を確認して布に包み直していた剣を見て、少し前にした話を思い出したらしい。デュエールは苦笑した。
「よっぽど運がいいんだろ」
「運がいい、で済まされる問題じゃないぞ。今まで一度もそれらしいのに出くわしたことともないんだろう? なんか憑いてるんじゃないのか」
 ある意味間違いじゃないな、とデュエールはルオンの言葉を反芻する。それは神官たちが精霊の加護と呼ぶものだが、エルティスが過去に言った通りあらゆるところに存在する精霊はデュエールに味方しているらしいのだ。
 お礼を返す術がないのが残念なところだが、ありがたいことだと思う。

 デュエールが剣に布を巻き終わったところで、茶を空にしたルオンが言った。
「そもそも使い方を知らないなら、その剣は何のために持ってるんだ?」
 見たところかなりの質のいいものだと、ルオンは眉をひそめる。厳重に布で包まれたそれを見つめて、デュエールは小さく呟いた。
「まあ……お守り、みたいなものかな」
 これは<器>と呼ばれるデュエールに与えられた力だという。何かの為に剣の形になっているはずで、犬神が話した通りその時が来れば自ずと使うことができるものなのだろう。目利きであろうルオンがよいものだというのなら、それはデュエールの力がそうだということだろうか。

 とりあえず、剣術の心得のないデュエールには今すぐ必要とするものではなかった―――が。ふと思いついて、デュエールは空のカップをもてあそぶルオンに向き直る。
「ルオンは使えるんだよな?」
「そりゃあこれで稼いでたんだし、当然だろ」
「俺に教えることはできる?」
 デュエールの言葉に赤髪の青年は奇妙な顔をした。
「まあ、基本くらいは教えてやれると思うけど……」
 いい考えだ、とデュエールは自分の発想に満足する。
 護身程度なら今まで使ってきた短剣でも不足ということはないだろう。デュエール自身もエルティスの為にある力をそれ以外のときに使う気はない。
 いずれ使う時が来るとして、何も知らずに剣を握るよりもそれ相応に基礎を知っておいた方が戸惑うこともない、と判断したのだ。
「言っとくけど、一日二日で覚えられるようなもんじゃないぜ」
「そんなことはわかってるよ」
 真剣な表情のデュエールに少し気圧されたらしく、ルオンはしばらく考え込んだ末にこんな条件を出してきた。
 教えるのはかまわない。けれど仕事が見つかれば自分はすぐに旅立つから、それ以上学びたければ王都までの道中に同行すること。
 デュエールにしてみれば、一度来たところを戻る余計な道行ではある。しかしデュエールは一も二もなく承諾した。ルオンは唇の端でにやりと笑って言う。
「俺は厳しいから、覚悟しとけよ」
「どうぞよろしく、先生」
 このやり取りで、ルオンがデュエールの剣の師となることが決定したのだった。





 石のようなものが転がる一面の砂色と、視界を埋め尽くす暗い緑と、すべてを覆い隠す白と―――しかしどれも断片でしかなく、自分がどこにいたのかはまったく覚えがない。
 記憶を探ろうとしても鮮やかな色が残っているだけ。


 白い視界にゆっくりと色が滲んでいく。染み込むように急速に広がっていく水色はやがて焦点が定まると、鮮やかな青に変化した。
 一定方向に流れていく白いふわふわした固まりは雲。
 ようやく自分が空を仰いでいることに気が付いた。
 降り注ぐ光の中に立っている。太陽の光。
 今は昼だった。
 そこで初めて昼だということに気が付いたのだ。
 空腹を感じないから、食事の時間に頭を悩ますこともない。身体の疲れを感じないから、睡眠を必要としない。暑さも寒さもこの身体を煩わすことはないから、それで陽が落ちたことを知ることもない。この目はどんな明るさの中でも暗さでも遠くまでも見通すから、昼も夜も関係がない。
 時間の経過は既に意味のないものになっている。どれだけの昼と夜が通り過ぎたのか、もう思い出せなかった。
 人間たちの時間の営みから、自分はもう切り離されているから。この身体に溢れる神々の力がそれを教えてくれる。身体を隅々まで満たす魔力の源が、彼女のすべての時間を止めている。天界の者でありながら永遠を生きられない彼女が神々の傍で生きられるように。
 身体の時間も、心の時間も。心に秘めるものさえも、もう変わらない。


 足元の水面を見つめると、緩やかに波打つ銀色の髪の娘がそこにたたずんでいた。水鏡に映しても光を宿す銀の瞳の色は薄れない。
「ここ……は」
 エルティスは辺りを初めて見渡して、ようやく呟く。
 自分の影が映る水面は、小さな湖。かすかに獣道しか見分けられないほど木々が生い茂る森は、湖の周りだけが明るく開けて陽光が差し込んでいる。風に揺れる湖面が、光を反射してきらきらと輝いていた。遠くから聞こえる鳥のさえずり。
 似た風景を、知っている。
 緑の濃さは違うけれど。水面の色も違っていたけれど。風に揺れる葉擦れの音すら、同じものではないけれど。
 ―――懐かしい……。
 だから、きっとここに惹かれて辿り着いたのだろうと、エルティスは思った。それは、きっと始まりの場所だから。
 エルティスは再び青空を見上げる。地上に向かってゆっくりと色が解けていく鮮やかな青。太陽の光をやっと眩しいと思えた。
 彷徨い続ける間も決して忘れなかった、ただひとつの想い。それが、彼女を神の身のまま地上に縛り付けた。
 それが叶うなら、他には何も要らなかった。残るものが、永遠の彷徨であったとしても。
 ―――たとえ一緒にいられなくても、同じ空を見ているなら。


 きっと、あなたもこの空の下で。


初出 2005.12.15


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