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その日ファレーナ王国第二王子グレイスは、私室の机でひとつの書類を眺めていた。詳細に綴られた報告書に目を走らせながら、時々紅茶を口にする。
そこに書かれているのは、数日前に国境から程近い農村から届いた情報だった。
恵みの森で奇妙な人影が見られるようになった、とのこと。
最初に出会ったのは茸を採りに分け入った村娘。ふと気付くと、森の木々の向こうから誰かがこちらを眺めていて、ほんの瞬きの間に消え去っていた。
そのあとも幾人もの村人が、その人影を見ている。
氏神を清めに森へ入った老婆。薪を取りに行った若者。湖へ泳ぎに行った子供たち。狩をするために森の奥へと踏み込んだ男性。
誰もが印象的だったと必ず語るのは、こちらを見透かすような不思議に煌めく銀色の瞳。
そして、報告の最後につい最近その人影に出会ったという二人の子供の話がまとめられていた。最近といっても、この報告書が作成され届くまで、数週間は経っているのだが。
同い年の少年と少女は、冒険ごっこと称して子供の溜まり場である湖を通り過ぎ、森のさらに奥へと入り込んでいた。
意気揚々と進んだはいいものの、いざ夕暮れが近付いた頃になり、道がわからなくなってしまった。道なき道を蔦や草を分けながら歩いたせいで二人とも切り傷だらけのぼろぼろ。
帰り道はわからない。お腹はぺこぺこ。さあどうしたものか―――。
二人で泣きそうな気分になっていたところで、ふと誰かがすぐ傍に立っていることに気が付いた。見上げてみると、綺麗に波打つ銀髪の女の人だった。
誰だろうと少女が脅え、少年が庇うように前に出たところ、その女の人は優しそうに二人に笑いかけ、ゆっくりしゃがみ込むとそっと二人に手をかざした。なんだか全身が温かい気持ちになって、あちらこちらにあった切り傷が跡形もなくなっていた。
少年と少女は顔を見合わせて目を瞬かせた。一体何が起こったのか、まったくわからない。
女の人は立ち上がり、ある一方向を指で示した。目を凝らしてみるとかすかに獣道のようなものが見えなくもなかった。少年が、帰り道を教えてくれるのと尋ねると、その女の人はにっこりと笑っただけで、ただひたすら二人を導きながら傍を歩いてくれた。
話しかけても、女の人は穏やかに笑みを浮かべるだけで一言も喋らなかった。
しばらく無言で歩くうちに、辺りはどんどん暗くなっていき、そろそろ目が利かなくなってきた頃になって少年と少女はようやく開けた場所に出た。
空に残るかすかな残光を照り返し、地面がきらきらと揺らいでいる。彼らが遊び慣れた湖のほとりに出たのだった。ここまでくれば、あとは庭のようなものだ。たとえ完全に陽が落ちた後でも家には簡単に帰り着ける。
二人はほっとして顔を見合わせた。お互いの顔に浮かんでいるのは安堵の笑顔だった。
そうだ、あの人にお礼を言わなくちゃ―――。
慌てて辺りを見回すが、そこには二人以外の人影は見当たらなかった。
いつの間にか、女の人の姿はまるで最初からいなかったかのように消えていた。
「『悪い人じゃないよ。だって僕たちの怪我を治して、湖まで連れて行ってくれたんだから』―――か。なるほど」
幼い子供たちの話を苦労しながらまとめたであろう文書から顔を上げ、グレイスは満足げに呟いた。
「一瞬で怪我を治したのは、魔法で間違いない。魔法が使えるのは本来神官だけだ。しかし、この娘が魔法を使えるとなると……あの時聞いた<アレクルーサ>の可能性が高いな」
グレイスは、母親と神官たちの間で交わされた話を思い返す。すべてが聞き取れたわけではなかったが、興味深い内容だった。
<アレクルーサ>は神々により地上に下された神の子であるという。人には持ちえぬ魔法の力を持ち、ルシータに脅威を及ぼした娘。
それをこの手にすることができれば、魔法の親和性により王位継承が決定されるこの国において優位に立てるのは確実だった。むしろ、そうするしかグレイスには王位継承権を得る方法がない。
その娘がどこかへ消えたという情報を得て、グレイスは密かに人を使いそれらしき話が聞こえてこないか捜させていたのだ。年が明けてようやく入ってきた報告だった。
「さて、確かめねばならんな。父上に許可を仰がねば……」
一息に紅茶を飲み干すと、グレイスは報告書を机の引き出しにしまいこみ、勢いよく椅子から立ち上がった。
外出の許可をもらわねばならない。もちろん目的を明らかにするつもりはない。兄たる第一王子はもちろん、妹の王女たちにも気付かれてはならない。水面下でことを済ませる。
供にするのは口が堅く自分によく従ってくれる者でなければならないな……と人選しながら、グレイスは静かに扉を開けた。
初出 2005.12.30