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あの言葉が、本当に嬉しかったから。
エルティスは、二度と乗ることはないだろうと思っていた輿に揺られていた。王都へと続く街道を北上しているらしい。
はっきりとしないのは、あの時と同じように両脇には厚い織物が下げられ外が確認できないからで、だがエルティスは輿の周囲を歩く兵士たちに尋ねる気も起きなかった。エルンデンに連れて行かれたときよりも遙かに時間がかかっていることだけはわかる。まったくあのときと同じで、エルティスは輿を降りることも叶わずたった一人腰掛けていた。
ふいと目の前を過ぎった風霊にエルティスは小声で尋ねる。
(デュエールは大丈夫?)
少し迷った後肯定の返事があって、エルティスは安堵の息をついた。少し後ろから来てるよとの言葉にエルティスは視界を遮る織物を睨みつける。
近くにいるのに、引き離されたまま傍に行けないのがひどく悔しい。
エルティスはかすかに俯いて自分の手を見つめた。くせを失い亜麻色に戻った髪が肩から落ちて視界を遮る。
五つの精霊を操り高度な移動魔法を使う稀な者。強力な魔法を使いこなす<アレクルーサ>。
(そんな風に呼ばれたって)
その力はただひとつの約束事を果たすためにあった。そのためにどれだけ畏れられる者であったとしても、今はなんて無力なのだろうか。事態を思うように運ぶことすらできない。
怒りのあまり震えだしそうになる手を強く握り締めて、エルティスはしばらく前の出来事を思い返した。
あのときエルティスとデュエールの前に立ちはだかっていたのは、王子を含めて三人だった。兵士と思われる二人は既に剣を構えているが、王子本人はただ立っているだけだ。けれど、その腰にはきちんと長剣が装備されているから、すぐにでも戦いに参加できるだろう。
対して、こちらは剣を使えるのはデュエールだけ。エルティスも護身術程度に短剣の扱いの心得はあるが、鍛錬を積んでいるであろう兵士とやりあうなど問題外だ。そもそも、デュエールだってどれだけの心得があるものだか―――。
まだ、互いの間にはある程度の距離がある。
デュエールが静かに剣を抜いた。
「剣術、習ったの?」
エルティスは囁くような小声でデュエールに尋ねる。デュエールは正面から視線をはずさぬままに答えた。彼の横顔は真剣なままだったけれど、エルティスはその返答に唖然とする。
「簡単に、だけど。受けて払うくらいならなんとかなるんじゃないか?」
「そんな―――」
いい加減な、と叫ぼうとした瞬間、デュエールの背中が遠のいた。
金属のぶつかり合う嫌な響きに刃が滑る不快な音が続いて、ふたつの剣が太陽の光を照り返す。間を詰めた兵士たちに応じて、デュエールが前に踏み込んだのだった。
エルティスは邪魔にならないよう慌てて後ろへ退く。
デュエールの動きは、目を奪われるほど鮮やかだった。本人が言った通り、相手の剣を受け止めるので精一杯なのかもしれないけれど、それでもエルティスはこんな姿のデュエールを知らない。
襲い来る刃を受け止め押し返す。踏み込んで空気を薙ぎ払う。再び振るわれた剣を受け流す―――。
エルティスには両者は拮抗しているように見えた。たぶん、兵士を相手にしていてはこれが限界だろう。
(どうしよう、何をすればいいんだろう)
戦うための武器や力を持っているわけではない。精霊の力はひとを傷付けるものではないのだ。エルティスはただ立ち尽くすだけだった。
「エル、来るぞ!」
―――危ない、横!
デュエールと精霊の声が同時に響いて、エルティスは我に返った。
示された方向に目を向けると、すぐ目の前に兵士が飛び込んでくる。エルティスは瞬間的に風霊を呼んでいた。数歩分隣へ飛ぶ。
うわ、と慌てたような声がして、目標を失った兵士がよろめくのをエルティスは見た。
きょろきょろと周りを見ている青年と目が合ってしまう。エルティスを視界にとらえると、彼はにやりと嫌な笑いを浮かべた。
「そうか、魔法が使えるんだったな」
それでも、移動魔法が使えるのはほんの一握り、片手にも満たない。しかも、今の魔力の源の拡散状態ではどうなっているか。けれど世界の大部分は魔法を知らない。過大評価される可能性は高いのだ。
自分を捕まえようと再び踏み込もうとする兵士を睨みながら、エルティスは唐突に自分にも出来ることを思いついた。
今、背後には湖が広がっている。ほとりまでは少し走れば辿り着く。
エルティスが走り出すのと兵士が飛び出すのはほぼ同時だった。エルティスが湖に沿って走ろうとすると、兵士はその外側を走り、彼女をほとりの方へ追い込もうとする。エルティスの足はどんどん水辺へと向かって行かざるを得ない。
兵士がさらに前に出た。もう彼と湖の間をすり抜けるような隙間はない。このまま飛び込めば青年の意図通り捕まるしかないのだ。
祈るようにエルティスは風霊に願った。同時に風が巻き起こり全身を包み込んでいく感覚がする。エルティスは位置を確認しながら再び風の力で飛んだ。
先ほどとまったく同じ目に合いよろめいた兵士の隣に。
またもや目標を見失い、さらに走ってきた勢いで前へふらつく彼の身体を、エルティスは風霊とともに湖に向かって全力で突き飛ばした。
激しい水音とともに水柱が上がる。鎧を着けているとはいえ、きっと水泳の訓練も受けているだろうから、あくまでこれは時間稼ぎだ。
すぐに浮き上がってくる様子がないことを確認して、エルティスはデュエールの傍へ戻るべく後ろを振り返った。
デュエールは未だもう一人の兵士とやり合っている。デュエールが疲れきってしまう前にこちらも何とかしなければいけない。
駆け出そうとしたとき、エルティスの耳に精霊たちの悲鳴が響き渡った。
―――やめて! 燃えてしまう!
火の気配を感じて、エルティスは周囲を睨みつけた。森にいる火霊はごくわずかだ。普段は力を抑えて過ごしているというのに。
「<アレクルーサ>、取引だ。抵抗を止めなければこの森に火を放つ!」
高らかと響き渡ったのは王子の声だった。いつの間にか現れていた二人の兵士が、燃え盛るたいまつを掲げ木々の傍に立っていた。
エルティスは立ち止まる。精霊たちは口々に人々を罵っているが、当然ながら肝心の相手には聞こえるはずもない。
「もちろん、そこのお前もだ」
王子はエルティスに続いてデュエールにも視線を投げかける。
森に火がかけられればどうなるか―――。無残にも焼き尽くされた黒焦げの世界が記憶に蘇る。エルティスは人間の利己的な理由で作られてしまったその酷い光景を知っている。そして、たぶんデュエールも覚えているはずだった。
動物たちは居場所を追われ、精霊たちは混乱の極致に追い込まれた。
しかも、ここは集落のすぐ目の前だ。恵みを与える森が失われるばかりか、人々自体に被害を与えかねない。
エルティスは立ち尽くした。
どうすればいい。
目の前に大量の水はある。思い切り風の力をぶつければ火は消えるだろうか。それともどうにかしてたいまつを持っている兵士の動きを止められたら……。
そこまで考えて、エルティスはそれが不可能であることに気がついた。
ルシータでやったような雨ではない水を呼ぶことも、あるいは尋常ではない風の力を起こすことも、大地の摂理を歪めるほどの魔力を持つ<アレクルーサ>でなければできないのだ。精霊を動かす強制力がなければ無理だ。
デュエールによって<アレクルーサ>の力を解かれている今のエルティスでは駄目なのだ。どれだけ強力な魔法を使いこなすと言われても、それは人間が持て得る範疇でしかないから。
身体中に魔力を満たし<アレクルーサ>になる前に、相手に感付かれて火を放たれるのが落ちだろう。<アレクルーサ>になってしまえば、人が放つたいまつの火程度どうにでもできるが、その間にどれだけのものが失われるのか。できれば自分たちのためだけにそんなことはしたくない。
「さあ、返事を聞かせてもらおうか」
勝ち誇った笑みで王子が問う。エルティスがデュエールを見つめると、彼は一度呼吸を整えて、無言で剣を鞘に戻したのだった。
そして、抵抗できないまま、エルティスとデュエールは引き離される―――。
エルティスがようやく輿を降りることが出来たのは、深い緑に包まれた三階建ての建物の前だった。
(どこだろう?)
もうあの森から何日経過したのかはっきりしない。ひたすら座りっぱなしだったせいでエルティスはとにかく腰が痛くて仕方がなかった。
エルティスは兵士たちに追い立てられるように入り口の扉をくぐる。どこかで別れてしまったのか、デュエールらしき人影は見当たらなかった。
吹き抜けがおそらく最上階まで貫いている広間は、なんとなく王子と初めて会ったときに行った場所を髣髴とさせて薄ら寒くなる。酷く嫌な気分だ。
エルティスは振り返り、肩越しに兵士を睨んだ。
「デュエールはどこに行ったの?」
返答はない。どうやらここにいるのはこの兵士たち二人だけで、デュエールはおろか肝心の王子も姿がないようだ。
手足は拘束されてはいないし、刃物こそ突きつけられてはいないものの、状況は変わりない。せっつかれるままにエルティスは一階の部屋へと押し込められる。
ひと目で来客用とわかる整えられた部屋だ。当然ながら鍵などかかるわけはないが、エルティスはそこから出ることもできずに過ごす羽目になった。『ここから逃げたときは一緒にいた男が無事で済むと思うな』との王子の伝言のせいである。
事態が動いたのは、数日が経過したある日の夕刻のことだった。
初出 2007.1.28