悠久の絆

第5章




 なんとなく空は赤みがかっている気がする。もうそろそろ夕暮れだろう。
 ぼんやりと窓から外の木々を眺めていたエルティスは、緑の隙間から零れる光の加減を見てそう思った。確認するすべはない―――精霊に尋ねれば空が茜色かどうかくらいは見てもらえるだろうが、そんな気も起きない。
(デュエール、どうなったのかな。どこに連れて行かれたんだろう、大丈夫かな……)
 心の中を巡るのはいつもそればかりだ。
 デュエールの安全を盾に閉じ込められているということは、少なくとも今は無事で、しかも王子が近くにいるのだろう。
 この館に兵士は二人いて、ある一定の時間を置いて扉を叩いてエルティスの所在を確認したり食事を運んだりする。もし返答がなくエルティスの姿が見当たらなければ、すぐさま王子のもとへ連絡が行くに違いない。

 今のエルティスは、飛ぼうと思えばデュエールのところへ飛んでいける。<アレクルーサ>になれば外気の遮断は意味を為さないから、どこにいたとしても傍には行ける。
 問題は、そこで終わりだということだ。エルティスの使うことのできる移動魔法は自分に対してだけで、誰かを連れて行くことができるわけではなく、相手を移動させることなど論外だ。だから、デュエールを助けることはできない。
(<アレクルーサ>でもできないことはあるんだよね……)
 魔法は万能ではない、とエルティスは眉をしかめた。

 玄関の扉が勢いよく開けられる音が響く。エルティスははっと扉の方向を見た。傍に寄って来た風霊が耳元で教えてくれる。あの人、来た、と。
 そんなに存在を知らせなくてもいい、とばかりに床を蹴る音が鳴り、エルティスが見つめている扉の前でぴたりと止まる。何の確認も無く、扉が開いた。
 廊下に立っていたのは予想に違わず王子である。窓際にいるエルティスを認めると、彼は口だけで笑った。

「ほう、逃げずにいたか。―――良い人質を手に入れたものだ」
「デュエールは、どこにいるの」
 皮肉るような口調の王子に向き直り、エルティスは真正面から彼を睨みつける。
「お前はどこにいると思う?」
「まともなところではないんでしょうね」
 楽しそうな声にエルティスが冷たく応じると、王子は嫌な笑い声を上げた。嘲るようなその態度にエルティスはますます腹が立ってきた。
 あの日、この人の手を取った過去の自分を抹消したいくらいだ。いくら想いに渇望していたとはいえ、どうしてそんなことをしたのか今思えば本当に不思議だった。
「あるいはそうだな。奴は今はファレーナ王城の地下にいる」
「地下?」
(どうしてそんなところに……?)
 子供のように相手の言葉を繰り返し、エルティスは疑問に思う。だが、次に続いた王子の話に一瞬絶句した。
「地下にあるのは牢だ。奴は重罪人だからな」
「……重、罪っ!?」
「そうだ、多くの命を奪った罪でな。間違いなく極刑となるだろう」
「極刑……」
 でっち上げだ。彼が何もしていないのは、きちんと調べれば明らかになる。けれど、本当に牢に入れられているなら、ないはずの罪を事実にしてしまうだけの力がこの王子にあるのかもしれない。デュエールは城の者にそれだけの罪を犯した者として認識されているのかもしれなかった。
 もしそうなら、地下牢にいれられたままなら一体どうなるか。

 あまりの怒りに返す言葉もないエルティスに大股で近付くと、王子は憎たらしい笑みを浮かべたままエルティスを見下ろしてきた。
「助けたいか?」
「……卑怯者」
 エルティスはそういうだけで精一杯だった。このあとに続くやり取りをエルティスは容易に想像できる。そして、それに酷似する出来事を過去にも聴いたことがあった。
 持ち掛けられる取引は、エルティスには間違いなく拒否できないもの。圧倒的に相手が有利なもの。エルティスが大事なものを失わなければならないもの。―――そして、助けたい者の安全は、確実には保障されない。

「あの男を助けたければ、私に力を与え、私に従うことだ。それならば、あの男を牢から解放してやろう」
「デュエールが安全だっていう保障はあるの?」
 約束した後で、覆される可能性がないとは言い切れない。
 エルティスは王子に厳しい視線を向けて尋ねる。だが、王子の方はその視線を受けながらまったく堪えた様子はなかった。
「<アレクルーサ>が手に入るなら、あの男のことなど別段構わんな。まあ従わないならそれでも良い。あの男が刑に処されるだけだからな」
 そうなのだ、エルティスにもともと拒否権は無いのだ。やり取りをすることが無意味なのかもしれないとエルティスは眉をしかめる。
「まあ、一晩やろう。どうするつもりかゆっくり考えろ」
 立ち尽くすエルティスに何のためかわからない猶予を投げつけると、王子は颯爽と部屋を出て行った。



 静かな靴音が遠ざかっていくのをエルティスは注意深く聞いていた。扉の傍で聞き耳を立て、かすかな音すら聞き取れなくなったところで深く息をつく。
 振り返ると、部屋の中央にあるテーブルには湯気を立てる器や焼き菓子の収められた籠が置かれている。つい先ほど無言で現れた兵士がエルティスの所在確認とともに置いていった夕食だった。
「これで……あとは朝まで来ないよね、いつも通りなら」
 ここ数日の記憶を思い返してエルティスは呟く。
 夕食を届けた後は、誰一人としてエルティスの部屋を訪れてはこない。すべてこの一室で済むように様々なものが用意されているし、兵士に言付ければ大抵は持ってきてくれる。そして、朝食が準備されるまでは放っておかれるのだ。

 いい匂いが漂っているが、エルティスは食欲など無かった。
 何より、今はしなければならないことがある。エルティスの不在を知られない時間帯を選んでしなければならないこと。
(デュエールがいる場所、わかった?)
 エルティスはふいと目の前に現れた風霊に問いかけた。くるくると踊る風霊は、軽く頷いて、その場所を教えてくれる。
「ありがとう」
 風霊の答はエルティスの予想とほとんど違わないものだった。王子の言うことは本当なのだ。城の地下牢、など思い描くこともできないけれど、デュエールのことを想ったらきっと傍には行けるだろう。

 エルティスは目を閉じると自分の中にある力に意識を集中させた。
 普段は抑えている力をゆっくりと解放していく。高まっていく力は体中を包む熱となり、エルティスの全身へ満たされていった。今まで以上に感じられる大地や精霊の気配が濃くなって、自分と精霊たちとの繋がりをはっきり自覚する。同時に自分が周囲の時間から切り離されて遠ざかっていくのがはっきりとわかる。
 目を開け、鏡を見やるとそこに立っているのは銀色の波打つ髪と銀の瞳を持つ娘だった。ずいぶんと見慣れてしまった姿。時間の流れから外れた、神々に列する者。
 デュエールが自分を<アレクルーサ>からもとのエルティスに戻してくれたときに、どうすれば<アレクルーサ>になれるのかということだけはわかったのだ。神からひとに戻る方法はわからないままだけれど、あるいはそれは<器>であるデュエールにだけ可能なことなのかもしれない。
 けれど、もうひとに還る必要はないのかもしれなかった。

 エルティスは祈るように胸の前で手を組んだ。
(エル、って、昔の呼び方で呼んでくれた)
 湖のほとりで再会したときのデュエールの声を思い出す。その名を聞いたとき、胸が痛んでひどく泣きたくなった感覚は今もなお焼きついたように残っている。もう失くしてしまったものだと思っていたから、ただ嬉しかった。
 やっと逢えたと思ったのにまた離れてしまうことが哀しいわけではないのだけれど。
「きっと、同じだよね、あのときと」
 エルティスはずっと前の出来事―――ルシータの洞窟に閉じ込められていたときに『聞いた』やり取りを思い起こす。彼女が祠から助けられるためにデュエールに突きつけられた交換条件。選択肢はひとつしかなく、それを選ぶしかない。
 状況は同じだ。デュエールがそれを選んだように、エルティスも同じ行動をする。きっと、デュエールは理解してくれると思う。……もしかしたら、自分が誤解したときと同じようにデュエールにはうまく伝わらないかもしれないけれど。

 ゆっくりと深呼吸をして、エルティスは目の前に呼んだ三人の精霊を見つめる。
 ずっと自分についてきてくれた風霊と水霊と、窯がこの館にあったおかげで呼ぶことができた火霊。
「私の力をあげるから、何かあったらデュエールのことを護って」
 そう笑いかけると、エルティスは慣れた手つきで<アレクルーサ>の加護を三人に与えた。これで、エルティスが指定した条件に限り、世界の摂理を越えてでも力を使うことができる。デュエールに危害が及びそうになったときに人に対して手を出せる。
 自分が神に当たるものである以上、これは理を歪めていることであるはずだ。しかも、たった一人の個人のためだけにそれを行使する。相応の罰を受けるに違いないが、その覚悟はできていた。

 まず風を呼ぼうとしたところで、エルティスは思いついたようにテーブルに近付いて焼き菓子の入った籠に手を伸ばす。あらためて用意が整い、エルティスは再び精霊たちに顔を向けた。
「行ってこよう、デュエールのところに」
 きっと逢うのは最後だから―――。呟くには哀しい言葉を飲み込んで、エルティスは移動のための風を呼び起こした。


 大事なあの人を助けられたらそれでいい、とそれだけを強く想って。


初出 2007.1.28


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