悠久の絆

第5章




 二度と傍を離れない―――あの時の誓いを破るつもりはまったくないのだけれど。

 
 背中から伝わってくる石の冷たさは酷く堪える。デュエールは目を閉じて、石壁に身体を預けていた。耳を澄ませば、自分の吐息さえ響きそうなほどの静けさだ。
 きっとここには自分以外の誰もいないのだろうとデュエールは思った。
 彼の周囲を包むのはどこか湿っぽい空気で、かすかなカビの臭いが鼻につく。服にまとわりつく湿気がとても不快だった。

 そのまま、自分の中の感覚に身を任せてみる。エルティスを感じ取る力は常にそこにあるのだ。それは、今彼女がここから少し離れたところにいることを教えてくれる。
 彼女を探し歩いていたときとは比べられないけれど、ほんの少し遠いところにエルティスはいるのだ。わずかも動くことなく。

 それを確認してからデュエールはゆっくりと瞼を開ける。目に入るのは黒ずんだ鉄格子。
 ずり落ちた身体を直そうと身動きした途端全身を貫いた痛みに、呼吸が一瞬止まる。今更ながら道中何度も蹴られるは殴られるはだった上にほとんど引きずられる状態で最後にはここに放り投げられたことを思い出して、デュエールは眉をしかめた。
(ずいぶんな扱いだった……)
 あの男が兵士に対してデュエールが重大な罪を犯した者だと告げたことを考えればおかしくない対応なのかもしれないが。

 エルティスが言う通り彼の人物は本当に王子だったらしい。威風堂々とした門をくぐった先が初めて王都に来たとき見上げた王城だったので、デュエールはようやく納得したのだった。
 王子から重罪犯だと言われれば反論の余地などないのだろう。言われた相手は訝しげな表情で首は捻ったものの、結局は彼の言う通りデュエールを地下牢へと放り込んだのだ。
 全身の外傷も、抵抗の後だと思われたのかもしれない。牢の鍵はもともとのものに加えてどこから持ってきたのか鎖で二重に掛けられている。デュエールは苦笑するしかなかった。よほどの危険人物とでも思われているらしい。
 乱れた呼吸を整えながら、デュエールはエルティスと再会してからの経過を思い返す。



「<アレクルーサ>、取引だ。抵抗を止めなければこの森に火を放つ!」 
 エルティスいわく王子だという男が叫んだ瞬間、幼馴染みの顔色が変わったことをデュエールは見逃さなかった。
 森に火がかけられた後の無残な光景をデュエールは知っている。
 焼き尽くされた黒い土。焦げ付いた空気は臭気を放ち、姿を保てない木々が崩れていく。
 デュエールが馬と荷物を預けてきた集落は森に隣接しており、この森から恵みを得ていることは見てとれた。幽霊が騒ぎになることを考えても、この森に何かあれば、オルトの人々が影響を受けることは間違いない。
 ほぼ脅迫に近い『取引』がデュエール自身にも向けられたとき、デュエールは当然ながら剣をしまう外なかった。 

 ゆっくりと腰に手挟んでいた鞘へ剣を戻す。柄から手を離したのを認めて、目の前の兵士がにやりと笑うのをデュエールは見た。
 次の瞬間、デュエールの息がつまる。
 兵士が足を蹴り上げるのと、デュエールの腹部を衝撃が襲ったのは、ほぼ同時だった。
 思わず庇おうとしてデュエールの身体は後ろへ吹き飛びそうになる。だが、突然風が巻き起こり、デュエールの身体を受け止めた。勢いのまま転がりそうだったデュエールは、静かに地面に座り込んだ。
 背中に触れるのは柔らかなぬくもり。デュエールにはそれが誰なのか見なくてもわかる。

「デュエール、大丈夫っ?」
 掠れた早口で問いかけてくるのは、少し離れた場所にいたはずのエルティスだ。蹴飛ばされたデュエールを見て、風を起こして移動し受け止めてくれたに違いない。デュエールの身体を支えるようにエルティスの腕が回されていて、しがみついているようにも見えるかもしれない。
「……ああ」
 エルティスの問いかけに、デュエールは深く息を吐きながらようやくそれだけを返した。たぶん骨が折れたりはしていないと思うが、蹴られたところが鈍い痛みを発し、息をするにも苦しくなる。軍靴の衝撃は鍛えていない身体には重すぎた。
 エルティスの腕に力が込められる。その温かさを感じながら、デュエールは歩み寄ってくる王子を睨みつけた。



(離れるつもりは……なかったんだけどな)
 力が入らず、痛みを抱える身体を何とか起こして、デュエールは何とか楽な体勢で石壁に寄りかかる。

 目の前に凶器をちらつかされてはそれ以上抗いようがなくて、結局二人とも大人しく従うしかなかったのだ。デュエールとエルティスは引き離され、デュエールはまさしく罪人のように拘束されて連れられることになった。
 街道ではさすがに目立たないように誤魔化されていたけれど、ほとんど引きずられるような速さだったから、よくも二十日ほど耐え抜いたと自分でも感心する。碌な食べ物は与えられていなかったし、ふらつきでもすれば小突かれたのも数え切れない。人気がなくなれば容赦なく蹴られたりしたから、いつ倒れてもおかしくなかった。
 こうして牢に放り込まれてからもまともに食べてはいないから、体力も限界だ。なるべく身体を動かさずに温存しておかないといざ何かあったときにとてもではないが動けない。

 エルンデンからオルトまでの道の途中デュエールを追い続けていた視線は、王子の手の者だったのだろうと彼は確信していた。
 エルティスの乗った輿と王子の馬とを先頭に進む集団の中に自分が連れてきた馬がいつの間にかいることに、デュエールは五日ほどたってから気がついた。オルトに預けてきたはずなのに彼らが連れているということは、デュエールの行動は見張られていたということだ。
 今になって思えば、デュエールがエルンデンを訪れたときの厳戒体勢はまさしく<アレクルーサ>たるエルティスを探していたに違いない。彼女の行方を失っただろうところで同じように幽霊騒動のことを調べているデュエールのことをどこかで知ったのだろう。

 辺りの静けさにいらつきながら、デュエールは自嘲気味に呟いた。
「むしろ、俺が動いたからエルが見つかったのか……」 
 姿を隠していたエルティスを思えば、デュエールがオルトを訪れて彼女を見つけ出さなければ、あの王子に捕まるようなことはなかっただろう。
 知らなかったとはいえ、逢うべきではなかっただろうか―――そこまで考えて、デュエールは頭を振った。湿っぽい場所にいるせいなのか、つい思考まで暗くなる。


 ふと、自分の中で何かが動いた気がして、デュエールは意識を集中させた。
(エル……どうした?)
 今までエルティスの居場所は一ヶ所からほとんど動いていない。一体どこにいるのかは定かではないが、魔力を使って何かをしようとしていることは伺えた。

 エルティスの存在を示す光が一瞬遠ざかり、そして牢の中の空気が揺らぐ。デュエールが緩やかに首をめぐらせると、柔らかな風の向こうに光が凝って人の姿が浮かび上がった。
 デュエールはその人影を認めて思わず目を瞠る。彼にとっては見慣れた光景ではあったけれど、そこにいる人の姿は少し見慣れないものった。
 確かに再会したときに解放したはずなのに、彼女はまた<アレクルーサ>になっていたのだ。

 波打つ銀色の髪をしたエルティスは、重さなどないかのように軽やかにデュエールの隣に降り立った。銀に煌めく瞳と視線が絡んだ途端に、彼女の表情が強張る。
 エルティスはデュエールの傍に駆け寄ると膝をついて顔を覗きこんできた。身体は自由にならなかったものの、デュエールがなんとか笑みを返すと、エルティスはあからさまに安堵の息を吐いた。
「よかった……」

 胸を撫で下ろすエルティスに何か危害が加えられたような様子はない。デュエールと違って服が薄汚れているようなこともなかった。王子の目的は彼女なのだからそれも当たり前だが、デュエールにとってはエルティスの無事な姿を見れたことは幸いである。
 デュエールは思わず呟いていた。
「エルは大丈夫だったみたいだな」
「何言ってるの! デュエールの方がよっぽどひどい目にあってるじゃ……!」
 怒りも露わに叫びかけて、エルティスは慌てて自分の口を手で塞ぐ。ここが牢で、自分がいることが知られてはいけないことを思い出したらしい。

 エルティスの両手がデュエールの頬に触れる。顔をぐっと近付けてこちらを見つめると、エルティスは泣きそうな顔になった。
「だって、こんなに痩せてて顔色も悪いのに……」
「確かに、ろくに食事してないからなあ」
 痩せこけるのも無理はない。ことさらに軽い口調でデュエールは言った。
 エルティスの表情は変わらなかった。彼女はデュエールの頬から手を離すと、そのまま腕を伸ばして、首に抱きついてくる。デュエールにとってその重みは心地よいものだった。
「エル?」
「……ごめん、ごめんね」
 デュエールが声をかけると、返ってきたのはかぼそい謝罪の言葉。彼女の顔は見えなかったけれど、声のわりに泣いている様子はなかった。

「謝るなら、俺の方だ。エルだけなら、一人で逃げられたのにな」
 むしろ自分が彼女に逢いに行かなければ、見つかることはなかったかもしれない。
 デュエールは先ほども思ったことを口に出していた。逢いたいと思っていたのは自分の方だったから、もちろん後悔するつもりはないけれど、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかったのだ。
「そんなことないよ。あたしも、……逢いたかったの」
 首にすがるエルティスの腕の力がわずかに強くなる。伝わってくる温かさに、デュエールはふと思った。

 自分たちがこんな風に触れ合うことなど、あっただろうか、と。
 ずっと傍にはいたけれど、何事なく笑い合ってはいたけれど、手さえ繋ぐことはなかったような気がする。向き合うときはきっと『幼馴染み』でしかなかった。
 遠い昔なら、何の躊躇いもなかっただろう。一緒にいることは当然で、泣いているのを抱きしめて慰めたこともあったはずだ。でもそれはあまりに幼い二人だったからで、想うことを知ってしまった今とは違う。

 デュエールは左手を伸ばして、すがりつくエルティスの頭をそっと撫でた。
 エルティスの心がどうあるか、それがデュエールの想いと同じかどうか。それはたぶん、デュエールが再び取り戻した力が答となるに違いなかった。


初出 2007.2.19


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