悠久の絆

第6章




 エルティスはとっさに風霊に呼びかけていた。
 下から吹き上げるような風が巻き起こり、デュエールとエルティスを包み込む。いくらか勢いを相殺して、二人は豊かに葉を茂らせた木に突っ込んだ。
 騒がしい葉擦れの音がエルティスを包み込み、落下が止まる。
「……いたた……」
 エルティスの下で声がした。恐る恐る目を開けてみると、一番最初に目に飛び込んできたのは至近距離にあったデュエールの顔だった。
 デュエールを下敷きにして、二人は幹の枝分かれした部分に引っかかっているらしい。

 エルティスと目が合うと、デュエールは苦笑した。
「エルのおかげで助かったな」
 風が吹いたことを言っている。おそらく誰であっても不自然だと気づく風の吹き方だったから、それがエルティスの力だと彼は気付いたのだろう。
 明らかな怪我はないようだ。エルティスはデュエールの様子を見て安堵すると同時に呆れた。本当に何ともなくてよかったとしか言えない。逃げるためとはいえ、地面に直接落ちてしまったらどうなっていたのか。
「本当に……何かあったらどうするつもりだったの!?」
 エルティスの言葉に、デュエールは困ったように考え込んだ。
「まあ……来る時に辺りが木だらけなのはわかってたから、咄嗟に上から飛び降りれば何とかなるかとは思ったんだけど」
「せ、せめてあたしに教えてくれてたらよかったでしょう……?」
 デュエールの意図がわかっていれば、先に風霊に頼んでおくことだってできたのに。エルティスが非難をこめて眉をしかめると、デュエールは今更気付いたように目を丸くした。
「言われてみればそうか。エルなら風霊の力が使えるんだよな、全然思いつかなかった」
 自分が精霊が見えないから、とデュエールはすぐ傍で苦笑する。

 エルティスは唖然とした。数秒遅れて湧き上がってきたのは怒りだった。思い切り跳ね起きてデュエールに向かって叫ぶ。
「信じられない! もし上手くいかなかったらどうなってたと……、!?」
 胸倉を掴む勢いでデュエールに言い募ろうとして、エルティスは勢いよく木から落ちそうになった。彼女は下にいた幼馴染みに支えられていたのだ。そこから身を離せばバランスを崩すのは当然だった。
「っ、危ないっ」
 慌てて伸びてきた腕に再び抱え込まれて、エルティスはようやく自分たちが半端でなく密着していることに気がついた。意識してしまった途端にどうしようもなく恥かしくなってきて、エルティスは慌てふためく。
「エル、ちょっと待て、また落ちる……!」
 デュエールの焦った声が耳元に響き、エルティスはぴたりと動きを止めた。あからさまに安堵の息を吐いたデュエールはエルティスを抱えたまま幹の上で身体を捻り体勢を整える。落ち着いたところでデュエールはようやくエルティスの身体を解放してくれた。

 少し離れたところで、エルティスはデュエールに相対する。といっても狭い木の上だったから、せいぜい地下牢にいたときくらいの距離ではあったのだけれど。
「ごめん……、でもなんであんな危ないこと……」 
 どさくさ紛れになりそうだった話題をエルティスはもう一度振った。
 デュエールは観念したとばかりに肩をすくめると、ゆっくりと目を閉じる。
「危ないとかそんなことより、エルと一緒に逃げることしか考えてなかったよ」
 だから、自分が怪我をするなんて心配はどうでもよかったんだ。
 口元に笑みを浮かべて紡ぐ言葉は、まるでエルティスに言い聞かせるようだった。
「だからって……」
「それなのに、逃げろとしか言わないんだもんな」
「だって、あたしは<アレクルーサ>なんだもの、なんとかなるでしょう?」

 エルティスが戸惑いを隠せずにいると、デュエールがゆっくりと目を開けた。
 緑色の瞳に宿る光を、知っている。ずっと前に見た記憶が、ある。デュエールはわずかに身を起こして、エルティスの頬に手を触れた。その視線はエルティスを捕らえたままで。
 ルシータにいた日々にも時々見た、エルティスの心を貫く真剣な眼差し。
「あのとき言っただろう。二度と傍を離れない、って」
 二人一緒じゃなければ駄目なんだ―――と、デュエールは言った。

『嫌だね。二度と傍を離れないって、決めたんだ』

 それは確かに彼がエルティスに再会してからの一貫した意思だったのだ。逢いたかった、ずっと探していたのだと言った。地下牢で言った、ここから出るのが先だという言葉も同じだった。
 王子が指摘するように、デュエールが安全な場所に逃げてエルティスがそれを追う、という形が一番二人にとって有利だったのだろう。
 エルティスは自分を犠牲にしてデュエールを助ける方法を考えていたというのに、彼はずっと二人一緒に助かる方法を考えていたのだ。

 胸が熱かった。二人一緒、というデュエールの言葉がとても嬉しかった。
 目の奥がじわりと疼く。泣き出す寸前の痛みだとエルティスは思った。<アレクルーサ>のときに散々味わった感覚だ。あのときは辛い思い出に苛まれたときで、しかも涙は流れなかった。でも今の感覚は、あまりの嬉しさのせいだ―――。
 自覚したら、あっという間に視界が潤んでいく。驚くデュエールの顔がぼやけて表情がわからなくなり、溢れた涙が、エルティスの頬を伝っていった。
 触れていたデュエールの手が頬を拭う。苦笑の混じる声がそれに続いた。
「泣かれると、困るんだけどな」
「だって……」
 エルティスは俯いて目元を擦る。確かに泣いている場合ではない。今は静かだが、まだ二人とも兵士に追われているのだ。泣いている場合ではないのだが……止まらなかった。嬉しくて、だけではなくて自分が涙を流せたことにもびっくりして。
 ふいに力任せに引っ張られ、エルティスは思い切りデュエールに向かって倒れこむ。
 止めるどころかさらにひどくなってしゃくりあげるエルティスを、デュエールは宥めるように抱きすくめた。ぽんぽんと軽く背中を撫でられては、もうすでに赤ん坊をあやすような扱いだ。
「……子供じゃ、ない」
「はいはい、今は泣き止む」
 デュエールの胸に収まったままエルティスは文句を言ったが、笑われただけだった。悔しくなってエルティスは思い切り目を擦る。何とか涙は止まったが、ぐすぐすという鼻をすする音は収まらない。

「エル、そろそろ下に下りるぞ」
 デュエールの囁きにエルティスは黙って頷いた。軽い声にエルティスが顔を上げると、デュエールは彼女を抱えたまま、太い枝を支えにして飛び降りようとしている。
「大丈夫?」
 心配してみたものの、あからさまに鼻声で、エルティスは情けないことこの上ない。だが、その言葉を受けたデュエールはとても楽しそうな様子だった。
「ま、子供の頃散々鍛えてるから。ちゃんとつかまってろよ」
 幼馴染みの注意に応じて、エルティスはおとなしくデュエールにしがみつく。そういえば、小さい頃はずいぶんと木登りやら岩の上に上がって落ちる、ということを繰り返していたような気もする。
 浮遊感があったのも一瞬で、軽い衝撃とともに二人は地面に降り立った。

 エルティスが体勢を整えている間、デュエールは辺りを見回し訝しげな表情になる。
「ずいぶん、静かだな……」
「そう言われれば……」
 三階のテラスから落ちて、木の上でひと悶着して、今こうして地面に降りるまで、決して短い時間ではない。二人が落ちたことを確認してから階段を駆け下りてきたとしても、充分ここへ辿り着けるはずだ。
 館の中で何かあったか。
 逃げるなら、今のうちではある。テラスに出たとき一望しただけだが、思ったより深い森であることはエルティスにもわかっていた。まぎれて逃げることは可能だとは思う。
「馬はあるから、逃げることはできるけど」
「駄目! このまま逃げたって、ずっと追われるだけでしょ」
 ただ逃げても、デュエールの『犯罪者』という肩書きがあればどこかで無用に追われることになる。それに、エルティス自身が王子から追われる原因をなんとかして取り除かなければ、結局逃げ続ける羽目になるではないか。

 喋っているうちに、エルティスの鼻声もずいぶん落ち着いてきた。ふとデュエールを見ると、呆気に取られた様子でこちらを見つめている。
「何?」
「いや、さっきまでとずいぶん態度が違うなと……」
「だ、だって、一緒じゃなきゃ駄目だって言ったのはデューの方でしょう!?」
 そうだけど、と苦笑したデュエールの表情が途端に変わった。素早く剣の柄を握ると、エルティスの横をすり抜けていく。何事かと振り返ったエルティスの瞳に映ったのは、振りかざされた剣を受け止めたデュエールの後姿。
 ついに兵士が二人を見つけたのだった。気配を殺して忍び寄りでもしていたところをデュエールに気付かれたらしい。
「<アレクルーサ>がここにいるぞ!!」
 デュエールと剣を打ち合わせながら、兵士は大音量で叫んだ。

 まずい、追いかけてきたあの人数に囲まれたら、多勢に無勢だ。エルティスは慌てて魔力を使って風霊を呼んだ。
 デュエールと兵士を挟んで向こうには、すぐ傍に館の壁がある。―――この兵士は王子の命令に従っているだけだ。たぶん彼に罪はないはずなのだが。
「ごめんなさいっ!」
 エルティスは謝りながら<アレクルーサ>の力で突風を起こした。家の屋根を吹き飛ばす嵐よりもなお強い、力が目一杯凝縮された瞬間的な風が目の前に吹き荒れる。エルティスの力を受けた風霊たちが呼び起こした暴風はデュエールを避けて兵士だけに襲い掛かり、彼を壁に叩きつけたのだった。
 うめき声が一度だけ聞こえて、兵士の身体は力なくずり落ちる。
 ぴくりとも動かない兵士をデュエールが覗き込んだ。
「な、なんともない……?」
「気を失ってるだけだ。息をしてるから大丈夫だと思う」
 その返答にエルティスはほっと息を吐く。いくら自分たちに危害を加えようとしている相手だとしても、やはり傷つけるのには抵抗がある。彼ら自身の意思ではないのだから余計だ。

 遠くから声が聞こえてくる。
「来るな、このままだと」
「とりあえず、全員気絶でもさせるしかないかな」
 少なくとも武力を行使してくる余裕があるうちは、やり取りをする余地はないだろう。
 デュエールは足元に転がる兵士を見下ろして言った。
「二人で今みたいにやれば、なんとかなるんじゃないか? とてもじゃないけど、俺は剣を受けるので精一杯だし」
 一人では駄目でも、二人なら。もともと<アレクルーサ>と<器>は一対なのだから、何のおかしいこともない。終わった使命で語るのも今さらだとは思うのだけれど。
「あたしは傷つけることなんてできないよ」
「それでいいだろ。気絶させるだけで済むなら、それで充分」
 そうじゃなかったらむしろ後味が悪い。デュエールの言葉にエルティスは同意した。力があるとしたって、そんなことはしたくない。
 意見が一致すれば、あとは行動するだけだ。

 デュエールは館の壁に沿って回り込み、様子を伺った。エルティスはその後ろを黙ってついていく。ふと眺めた幼馴染みの背中は、彼女が今まで何度も見つめてきたものだ。
 ルシータにいた頃は、その後姿は見送るものでしかなかった。街の外へと出向くとき、そしてミルフィネル姫の呼び出しを受けて応じるとき。
 けれど、今は違う。エルティスがデュエールと再会してからは、それはずっと彼女を護るためのものとして存在している。あの頃とは違う後姿に、エルティスは堪らなくなる。
 ―――今、ほんの少しだけでいいから、時間をください。
 そっと近づくと、エルティスはデュエールの背中にしがみついた。前に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「エル?」
 呼び声にエルティスが顔を上げると、突然の出来事に驚いたらしいデュエールがこちらを振り返っていた。見開かれた目にエルティスはにっこりと微笑んでみせた。
「あのね、全部終わったら、またもとの姿に戻してね」
 エルティスの容姿は<アレクルーサ>のままだ。銀の波打つ髪、輝く銀の瞳。
 あなたを護るために選んだ永遠の姿だけれど、またあなたの傍にいることを許されるのなら、どうか相応しい姿にして欲しい。
 時間はあまりないけれどこの想いだけは伝わって欲しいと、エルティスは願う。
 ほんの一瞬考え込んで、デュエールは朗らかな笑顔を返してきた。
「―――わかった。全部、終わったらな」


初出 2007.5.7


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