3
儀式を行うための広間の周囲は、昼前から急に慌ただしくなっていた。
巫女姫付きの女官や、デュエールがよく顔を知っている神官たちが入れ替わり立ち変わり広間に出入りしている。
彼らの動く邪魔にはならないだろう通路の端で壁に寄りかかり、デュエールはその光景をぼんやりと眺めていた。
まもなく準備が整う、との女官の言葉に、なんとなくその場所へ来て彼らを観察していたのだ。誰も彼もどことなく嬉しそうに見えるのは、彼らが長年の不安から解放されるからかもしれない。
デュエールが朝ミルフィネル姫との婚約を承諾して、まだ半日も経っていない。返事を聞いた後の巫女姫たちの対応は、デュエールが予想していた以上に素早かった。
いずれこの都市の首長になるべき姫にはふさわしくない簡素なものとはいえ、その日のうちに婚約式を執り行うなど。
一応それ相応の儀式である。食事を振舞われたあとデュエールは問答無用で着替えさせられ、式を執り行う巫女姫やミルフィネル姫も身支度を整えている頃だ。
といっても、今朝の今で衣装やらの支度が間に合うわけがない。デュエールの衣装に至っては神官の服をそのまま借りている。それでも、金糸や銀糸で縫われ小さな刺繍の施された衣は、デュエールにとっては違和感があった。
明らかに周りから浮いているような気がして仕方ない。
デュエールはふと窓から外を見た。目に見える速さで雲が流れていく―――風が強い。それでも、その背景の空は、美しく青に染まっている。
デュエールはその光景を見つめたまま、静かにため息をついた。
一体誰が想像できるだろう、今まで当たり前のように繰り返してきた日々が、ある日突然崩れ去ることなど。
仕事に出る前、いつも通り交わした「帰ってきたら」という約束が果たせなくなることなど、考え付きもしなかった。
デュエールの頭に巻かれていた包帯は既にない。手当てをしてくれたのはミルフィネル姫であったそうだが、デュエールが婚約を承諾した後、神官たちが魔法で傷を跡形もなく癒してくれた。
その態度の違いが、つまりは彼がルシータの民に受け入れられたということなのだった。
これで、父ジュノンの居場所は護られる。彼が望んでいたように、最後までルシータにいることができるだろう。
そして、婚約式が終わったらエルティスは解放されるはずだった。それは、巫女姫が神々のもとに誓った約束である。
たぶん何も知らされないままに彼女はルシータを追放されてしまうだろう。デュエールの行動の意味も、本当のことも知らずに、彼女は行ってしまう。
何ひとつ、彼女には告げられない。
デュエールは俯いて何かに逆らうように歯を食いしばった。そうしなければ耐えられそうになかったからだ。
その彼の前に、ふと立ち止まった影が二つ。
「デュエール様、用意が整いました」
響いた言葉に、デュエールははっと我に返った。目の前に、同じような装束を身にまとう二人の女官が立っている。
気付けば、辺りに人影はなく、静まり返っていた。人がいなくなったことに気付かないほどに、考え込んでいたのだろうか。
二人のうち右側に立っている女官が、手で扉を示す。
「どうぞ、あちらの扉からそのままお入りください。巫女姫様と姫様がお待ちです」
もう後には引けない。この扉を開ければ、彼とミルフィネル姫の婚約は決定的だ。
デュエールの頭の中で、まだ何かが警鐘を鳴らしていた。
―――こんなことは、望んでいたことじゃない。本当の望みを捨ててまで、何故従わなければならない?
(それでも)
デュエールは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。女官の誘導に従い、扉の前に立つ。
(……もう誓ったことだ)
デュエールは扉に手をかけ、静かにそこを押し開けた。
そこは、デュエールがあまり入ることのない場所。けれど、忘れることのできない場所。
このルシータにおいて冠婚葬祭、あらゆる儀式を行う広間だ。ここで、母やエルティスの両親を見送った。彼がこの広間に入った経験は、その一回だけだ。
まさか、こんな形で入ることになろうとは。
デュエールがいる扉から見て一番奥に一段高い場所があるきりで、他には何もない、ただ広いだけの部屋だ。用途に応じて用意されるものは違う。
今は、壁や柱が花や紙細工で飾られており、奥にはひとつの台が設置されている。巫女姫はその横に立っていて、その手前では前を向いたままミルフィネル姫が待っていた。
奥に立っている巫女姫の姿を見て、デュエールは自分が間違いなく婚約式という場に立っていることを自覚する。今彼女が来ている衣装と同じものを着た巫女姫の姿を、デュエールは一度だけ見たことがあった。
それは、まだ幼い頃だ。ある神官同士の結婚式のときに。彼らに敬遠されていた自分たちはもちろん神殿に入ることはできなかったが、そこから出てきた二人のお披露目は人ごみに紛れて見ることができた。そのときの巫女姫の着ていた煌びやかな装束とまったく同じ。
「デュエール、どうぞ、ミルフィネルの隣へ」
巫女姫が真っ直ぐこちらを見て、静かに告げる。彼が入ってきた扉から巫女姫の元へ一直線に引かれた柔らかな感触の絨毯を踏みしめてデュエールは前へと進んだ。
振り返り、こちらへ視線を向けているミルフィネル姫に並ぶ。デュエールが彼女へわずかに顔を向けると、彼女は柔らかな微笑を返してきた。薄紅色の装束をまとう彼女のその額に、いつも身につけている額飾りはない。
デュエールがこちらを見たことを確認すると、巫女姫は一呼吸の間を置いて、朗々とした声で告げる。当事者と巫女姫の三人しかこの部屋にしかいないから、告げる相手はもちろん人々ではない。それは神々への宣言。
「神々の前に、デュエール・ザラートと次代巫女姫ミルフィネルの婚約の儀を執り行う。―――ミルフィネル、デュエール、前へ」
巫女姫は最後の言葉を壇の下へいる二人へ向けた。デュエールはゆっくりと前へと進み出て、巫女姫がいる壇との境界一歩手前で立ち止まる。デュエールの視線の高さに、巫女姫の顔があり、その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
満足に違いない。これで、彼女たちの望みは叶うのだから。"神の子"二人を引き離すことで、ルシータは滅びから免れる。
そのために自分とエルティスが彼らに利用されることが、悔しくてならなかった。
ふと、デュエールは隣を見る。彼と歩をそろえて歩いてきたミルフィネル姫は、視線を感じたのだろう、こちらを見返してきた。彼女の微笑みは、先ほどとまったく変わらない。
嬉しそうな様子が、その表情から手に取るようにわかる。それは巫女姫や神官たちとは違う種類の喜びだろう。彼女が自分にそれなりの好意を持っていることは、薄々は気付いていた。
その姿を遮るように目を閉じて、デュエールは巫女姫の方へ向き直る。
「神々の前に、ミルフィネルとの永遠の絆を誓い、婚姻を約束しますか」
簡素なものであると始まる前に言われた通り、厳密には誓いの儀式だけであった。あっという間に、誓いの時は来てしまう。
デュエールは、真っ直ぐ巫女姫を見据えた。
誓った瞬間に、たぶん全ては失われるだろう。護りたいもののために、最も大事なものを捨てる。それでも、それしか方法がないのなら。それで護りたいものを護り通せるなら、何だってしてやる―――。
巫女姫とミルフィネル姫が不審そうな表情を浮かべるほどに長い沈黙の後、デュエールは静かに息を吸い込んだ。
たとえ傍にはいられなくても、何も伝えることができなくても、―――同じ空の下、確かに生きているなら。
「はい。……神々の前に誓います」
この言葉で、ジュノンとエルティスの身の安全は保障される。彼が、失うものの代わりに引き換えにしたものだ。神々に誓われたその取引は、必ずなされなければならなかった。
デュエールの言葉に巫女姫は悠然と微笑むと、今度は娘であるミルフィネル姫へと視線を向ける。
「ミルフィネル、あなたは神々の前にデュエールとの婚約を誓いますか」
「はい、誓います」
ミルフィネル姫の返答は迷いがなく、即答だった。その返事に静かに頷くと、巫女姫はすぐ横にしつらえられた台座から銀の飾環を取り上げる。額の中央に来るであろう部分には、翡翠のような小指の爪ほどの大きさの淡い緑色の宝石。
「では、婚約の証に、この飾環を。デュエール、一歩前へ」
こちらへ飾環を捧げ持つ巫女姫に応じ、デュエールはさらに一歩前へ進み出た。これ以上前へ行けば、巫女姫と同じ壇上に上るしかない。そこで気がついたが、巫女姫の隣の台座の上には、今巫女姫が持っているものと同じものがもうひとつ置かれていた。
同じ緑色の宝石が埋め込まれた飾環は、これから先二人が婚約した証として身につけ続けるものだろう。だからこそ、ミルフィネル姫はいつもつけている鎖の額飾りをしていなかったのだ。
巫女姫はその姿勢のまま微動だにしない。自分が頭を低くしなければいけないということに気がついて、デュエールは慌てて跪いた。目を閉じてうつむくその頭に被せられる飾環の確かな感触。
デュエールがゆっくり目を開け立ち上がると、続いてミルフィネル姫も同じように飾環を受ける。
「神々の前に、誓いの更なる証として、口付けを」
巫女姫のその言葉に、デュエールはびくりと身体を震わせた。諦めきったと思っていたのにまだどこかで抵抗している自分に、デュエールは心の中で笑う。
仕方ない、全てはこの想いのせいだから。この選択をしたのも、今になって迷うのも。
神々の前に永遠を誓ったとしても、どうかこの想いと一緒に生きていくことは許されますように。
観念するかのようにデュエールはミルフィネルに向き直る。巫女姫と神々が見守る中、誓いの口付けが交わされようとしたその瞬間、乱暴に扉が開け放たれたのだった。
無礼な振る舞いの来客に巫女姫は眉をしかめたが、それも一瞬。
続いた言葉に巫女姫母娘は顔色をなくして凍りつく。デュエールが扉の方を振り向くと、そこに立っている女官も青白い顔をして立ち尽くしていた。
「巫女姫様。部屋に<アレクルーサ>がおりません。申し訳ありません、逃げられました……!」
(初出 2004.1.4)