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昨日の経験やつい先ほどの出来事がまるで夢のように思えるほど、そこはいつもと変わらない光景が広がっている。
『どうしたのかね、そんな姿で』
「犬神……」
首を持ち上げ、優しげな瞳で問いかけてくる犬神の姿も今までと変わりない。この場所だけは、どれだけ時間が過ぎようとも変化がないのかもしれない。あるいは、今までのことは目覚めの悪い悪夢だったのだろうか。
―――はい。……神々の前に誓います。
だが、耳に残るデュエールの声は、夢だとは思えないほど今なお鮮やかに響いている。
犬神の労わるような優しい言葉に、エルティスは泣き出しそうな顔でその場に座り込んだ。エルティスの様子がおかしいことに気付いたのだろう。犬神はいぶかしげな顔をする。
『どうしたのだね、愛ぐし子。何かあったのかね』
「……わからない。わからないの……!」
犬神の問いに、エルティスは首を振った。そうすることしかできなかった。
彼女は何が起こったのか、何も知らないのだ。祠に閉じ込められ、意識を失くし、つい先ほどデュエールの言葉を聞くまでの間。そのわずかの間に、全てが変わってしまっていた。
「なんだかわからないけど、祠に閉じ込められて、気を失って……目が覚めたら、デュエールが……婚約……」
何とかして伝えようと覚えている限りのことを紡ぐエルティスの声は震えていた。
―――最初から、そのつもりだったのね! あたしだけ孤立させるつもりで!
巫女姫が、デュエールが二度と彼女に関わらないことを、エルティスを助ける条件にしたことは間違いない。ルシータの民が、エルティスを孤立させようとしてのことだろう。
あるいはデュエールがその条件を呑んだことで、エルティスは助け出されあの場所へ連れてこられたのかもしれない。
しかし、デュエールとミルフィネル姫の婚約式は、一体なんだというのだろう。
確かに、これでエルティスはルシータの中で完全に孤立した。デュエールが神官側に入ってしまえば、エルティスを支えてくれるものはルシータにはない。
幼い頃は、手に取るようにわかっていたはずの幼馴染みの考えが、もうエルティスには見えなかった。
(帰ってきたら、あの時言えなかったこと、言ってくれるって約束したよね……)
ふと、エルティスは思い出す。彼女がデュエールを待つ二ヶ月の間、支えにしてきた『約束』だ。今まで一度たりとも破られたことのない、二人の『約束』。
あの時、デュエールは何を言おうとしたのだろう。言い出しにくそうにしていたのは、何故か。
そこまで考えて、エルティスは更なる嫌な想像にたどり着いた。何の根拠もなく、認めたくもないけれど、まったく可能性がないわけでもない。
もし、この婚約式が、あらかじめ決まっていたものだとしたら―――。
デュエールとミルフィネル姫の会話を、エルティスはほとんど聞くことがない。デュエールの感覚を通してさえ、だ。二人が話しているのを聞きたくもないからであるが、その話がされていた可能性もあるかもしれない。
もしかして、デュエールが言おうとしていたのは、そのことだったのだろうか。
そこまで考えをめぐらせ、エルティスは慌てて振り払うように思い切り首を振った。どうして認められる―――そんなこと。そもそもデュエールから聞くまでは、わかりっこない。
エルティスは顔を上げる。思い切り首を振ったせいで髪はぼさぼさになってしまっていた。犬神と彼女の間を吹きぬける風が、絡まった髪を梳かしていく。
緩やかに波打つ髪が、木漏れ陽を浴びて銀色に輝いていた。
「……!?」
そこで、エルティスは全動作を止め、凍りつく。
緩やかな風に舞い上げられた自分の髪。見間違いではない、不思議に煌めく波打つ銀色。
慌ててエルティスが自分の髪を触ってみると、癖のほとんどなく真っ直ぐだったはずの髪は、根元から緩やかに波打っている。淡い亜麻色の面影はどこにもなく、木々の間からこぼれる光を銀色に反射していた。
違う。自分の髪ではない。
「な、何これ……!?」
突然のことに混乱したエルティスは目の前にいる犬神に懇願の視線を送る。岩の上に寝そべる大きな身体をした山犬は、器用にため息をつくと、呆れたように呟いた。
『また、<アレクルーサ>を覚醒させてしまったのか、彼らは……』
―――神々から、神託を既に受けて警告されていたにもかかわらず。
犬神の呟きを聞いてもエルティスは今の自分の状態が理解できずにいたが、聞いたことのない言葉が含まれていたことに気付いて、彼女はその言葉をオウムのように繰り返す。
「……<アレクルーサ>?」
『銀の髪、銀色の瞳を持つ娘のことだ。神々から使命を賜り、その身に帯びた膨大な力でルシータを滅ぼす者―――エルティス、お前さんのことだよ』
わけのわからぬまま、祠に閉じ込められて。神官と巫女姫の態度に腹を立て、何故か意識を失って。目が覚めたら幼馴染みの婚約式。そして今また、犬神から告げられた言葉。
エルティスの頭は、既に許容量を超えていた。
「ルシータを、滅ぼす……あたしが?」
座り込んだまま、エルティスは目を瞬かせる。あまりに唐突過ぎて他に反応の仕様がなかった。
『ルシータの民の誰よりも強大な魔力と五精霊と心を通わせる力は、そのためにお前さんが神々から与えられたものだ』
「滅ぼす……あたしはそのために生まれたの?」
『そのためだけに生まれたわけではなかろう。けれど、お前さんが使命に目覚めたときのために、その力はあるのだよ』
犬神は柔らかな口調で淡々とエルティスの問いに答える。
「だから、神官たちはあたしを敬遠していたのね……」
『そういうことになるかね』
幼い頃から“神の子”と呼ばれていた。
ルシータに繁栄と滅びをもたらす者。それゆえに自分たちは神官たちに敬遠されていたのだと思っていたのだ、この十七年の間。
だが、どうやら違っていたらしい。
自分が<アレクルーサ>、このルシータに間違いなく滅びをもたらす者であるために今まで敬遠されてきたというのだ。
過ぎ行く風に木々がざわめく。だが、エルティスの耳には遠い響きにしか聞こえなかった。
ルシータが好きかと聞かれたら、自分はなんと答えるだろう。
街の外れにあるこの森が好きだ。水を湛える湖のほとり、森を統治する犬神。この街で家族四人で過ごした時間、そして幼馴染みとの時間。どれも忘れられない大切なルシータでの思い出。
だが、それを差し引いて余りあるほど、そこに住む神官たちや巫女姫は嫌いだった。彼らに何かが起こっても、同情する気も起きないほどに。
それでも。
「……別に、そんな力欲しくなかったのに」
エルティスはため息とともにぽつりと呟いた。
それでも、滅ぼしてしまいたいとまでは思ったことはない。両親を見捨てたという憎しみに近い嫌悪はあっても、彼らに仕返しをしたいとまで思ったことはなかった。
両親の墓を護って、犬神と時間を過ごして、傍には幼馴染みのデュエールがいて。
エルティスが欲しいと望むものは、そんな今までどおりの穏やかな生活だけだった。神官たちにどれだけ敬遠され嫌悪されていようとも、それさえあれば、他には何も。
彼女自身の気持ちとは裏腹に、ルシータを滅ぼす者の印であるという銀色の髪は太陽の光を受け神々しく波打ったままだった。
急激に辺りの空気が張り詰めていくことにエルティスは気付く。
風が変わった。通り過ぎていく風霊たちがただならぬ様子であることがエルティスには見て取れる。一体どうしたというのか。
犬神も気付いたのだろう、ゆっくりと首をめぐらせ、辺りの様子を伺っている。
しかし、獣たちが騒ぎ出す様子はない。何か異変があれば真っ先に動き出すのは鳥や獣たちだから、こんなに静かなはずはないのだ。
エルティスは立ち上がり周囲を見回したが、相変わらず穏やかな光に包まれ先ほどと変わる様子はない。空気だけが緊張し、何かよからぬことを伝えているようだった。
何でもなければいいのだが、精霊たちが反応しているのが気にかかる。
エルティスが犬神を見ると、彼は森の入り口の方向へと視線を固定していた。エルティスもそれを追う。
どこまでも広がる緑。普段と同じ静けさが続いており、何の変化も掴み取ることはできない。
『そういえば、先ほど<アレクルーサ>はルシータを滅ぼす者と言ったが……』
気を取り直したのか、犬神は視線をエルティスに向けて言った。その瞳はどこまでも沈んでいくような深遠の光を湛えている。
鋭くこちらを見る冷たい眼差し。けれど、エルティスがその犬神の様子を怖いと思わなかったのは、彼が睨んでいるのが自分ではなく別の対象であることに気付いたからだ。
『正確に言えば違う。正確には、<アレクルーサ>とは、ルシータを裁く者なのだよ』
「裁く者……」
エルティスは犬神の言葉を繰り返す。またずいぶんと印象の違う表現であるような気がした。
『天より使わされた使者。ルシータの民を裁くために地上に降りた神族。それが<アレクルーサ>だ。ルシータの民が、もう百年以上も前から罪を犯していることを知っているかね?』
(初出 2004.1.4)