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「残念だったわね。今度は殺し損ねたわ」
そう言って、銀髪の彼女は笑った。嘲笑っているような気もしたし、純粋に笑っているようにも見える。ただ、いつもエルティスがする表情とは、少し違う。
神官たちに更なる動揺が広がっているのを、デュエールはただ眺めていた。エルティスの話すことの意味がわからない。
「リアーナ叔母さんも、こうして亡くなったのね……」
笑顔のまま寂しそうに呟いたエルティスの言葉も、デュエールには思い当たることはなかった。
彼女の親族の話を、あまり聞いたことはない。そんなことを共有しなくても、幼い二人が一緒にいるには充分だったから。
ただ、神官たちも巫女姫たちも思い当たる節はあったらしい。一瞬にして、顔が蒼白になる。デュエールが後ろを伺うと、すぐ隣で彼の服をつかんでいたミルフィネル姫も同じような顔をしていた。
自分の知らない、何かがある。そしてそれをエルティスも知っている。
それがこの一連の騒動を解く鍵のような気がした。しかし、それを直接彼女らに問いただす時間は、ついに与えられなかった。
背後から弓弦をはじく音が響く。デュエールが振り向くのと、目の前を矢が通り過ぎるのは同時だった。それを撃ったのが誰か確かめずに、デュエールの視線は矢を追う。
ずっと狙い続けていたとしか思えないほど正確な軌跡を描いて、矢は一直線にエルティスの胸部に向かって飛んでいく。彼女にもその矢は見えているはずなのに、微動だにしないのは何故なのか。
「エルティス!?」
そのままでは矢を受けてしまうとデュエールは叫んだが、それは杞憂だった。
矢はエルティスを貫くどころか到達することさえできなかったのだ。彼女の直前で矢は粉々に破壊されてしまった。
周囲にいる神官たちに恐怖の表情が浮かぶのが見える。次々と手に持つ武器を構え、武器を持たないものは魔法のために集中を始める。
デュエールが視線をめぐらせると、何もしないで立っているのは、彼自身のほかは目の前にいる巫女姫と後ろにいるミルフィネル姫の二人だけだった。
ミルフィネル姫につかまれている服の裾がひどく重い。彼女の細い腕はたいした力はないと思えるのに、デュエールは縛られているかのように身動きできないのだ。
自由になるのは先ほども使えた声と視線だけで、デュエールは一歩も動けずに見守っているしかなかった。
囲まれているすべての人々からあらゆる武器と魔法を向けられていながら、エルティスは微笑を浮かべている。余裕の笑みと言っていい。その瞳はこちらを向いていなかったけれど。
そう。エルティスらしくない人々を嘲るようなその笑顔を、彼女はデュエールだけには向けていなかったのだ。
エルティスの顔から唐突に表情が消える。
示し合わせたかのように、発動した魔法と狙い定められた武器が同時に神官たちの手を離れ、エルティスに襲い掛かった。
それぞれの魔法と武器とがぶつかり合い、力の本流となって爆発的に膨れ上がる。
激しい光の明滅の中に姿が消える瞬間までも、彼女の妖しく輝く銀の瞳から自信は失われていなかった。
炎と雷とそれぞれの武器のすべてが白い光に呑み込まれ、暮れていこうとする空を真昼と思うほどに明るく照らす。
そこから吹きつける衝撃は先ほどの雨のようにデュエールの身体を叩き通り抜けていく。これがエルティスを襲ったものの反動だとすれば、的になっている彼女はどうなっているのか……!
身体に負荷がかかったのはほんの一時だった。雨が身体を叩いた時間よりずっと短い。
デュエールが素早く顔を上げると、白い光がゆっくりと収束していくところだった。
「……効いたか?」
それは背後から聞こえた呟きだったか、前にいた誰かが叫んだ祈りだったか。
光が消え去るとともに姿を現したエルティスは、<アレクルーサ>と呼ばれる所以たる銀色の髪を風に揺らめかせ、銀色の瞳を激しく輝かせながら、先ほどとまったく変わらぬ姿でそこに立っていた。
肌にわずかな傷もなく、髪一本すら焦げていない。
「そんな……」
すぐ傍のミルフィネル姫のうめきをデュエールは聞く。
誰一人、彼女を傷つけることができなかったのだ。
あるいは先ほど彼女の目の前で矢が粉々にされたように、今の攻撃のすべてをエルティスは直前で防いでみせたのかもしれなかった。魔法の理解の乏しいデュエールでは今ひとつ想像できないのだけれど。
自信に満ち溢れた瞳以外表情のなかったエルティスの顔に、笑みが浮かぶ。それは確かにルシータの民に向けられた嘲笑。
「……それが貴方たちの答?」
呟きのように静かな、だが辺りにしっかりと響くエルティスの言葉に周囲の空気が凍りつく。
神官たちがざわめくことすらできず息を呑む様子がデュエールには手に取るように分かった。もう彼らにはエルティスに何もできない。彼女が動くのを待つことだけ。
エルティスはゆっくりと頸をめぐらせると自分の右後方―――祀りの森の上空を見た。デュエールも彼女も行ったことのない、犬神がいる場所よりも深い森の奥には、緑の木々を貫いて一本の柱が天に向かってそそり立っている。
ルシータの街を囲む<柱の結界>の要である巨大な柱のうちの一本。
膨大な魔力を抱え込む<結界>の中にルシータは存在するが、その中には犬神の統治する祀りの森も一部含まれているのだ。
エルティスはその柱に振り返った。彼女を中心に風が渦巻き、波打つ銀色の髪を躍らせる。
神官たちの間から見えるエルティスの頭の位置がわずかに上がったことで、デュエールはエルティスが風を呼んでその場に浮いていることを理解した。
ゆっくりと柱に向けて右手を掲げると、エルティスは柱を見ていた顔をこちらに向ける。
もう彼女は笑ってはいなかった。瞳には冷たく冴え渡る銀の光が灯り、神官たちを哀れむように見つめている。
そして、彼女は冷酷に宣言した。
「滅べばいいわ、こんな街」
静かな言葉とともにエルティスは高々と掲げた腕を勢いよく振り下ろす。その先にあった巨大な柱は、一瞬鮮やかに輝くと音もなく崩れ始めた。
その柱は、遥かな昔に人々が神々から与えられたもの。地上のものではない不思議な素材でできていたのかもしれない。けれど、ルシータの中心部、神殿を貫いてそびえるそれを見る限りは、レンガのような石のような、とにかく硬いという印象を受ける素材だった気がする。
普通に考えれば、砕けて粉塵をあげて崩れることはあっても、あんな壊れ方をすることはないだろう。
それなのに、柱は砂で作った城が風に飛ばされて崩れていくように静かに崩れていく。
数十秒の後には空気に溶け去ったかのごとくその存在は消えてしまい、そこに柱があったというのが嘘のようだった。
今度こそ神官たちが騒ぎ出す番だった。
エルティスはなくなった柱に満足した様子を見せると、さらに空高く浮かび上がる。空気を蹴って、彼女は空中に飛び出した。神官たち、そしてデュエールの頭上を越えて、ルシータの中心部に向かっていく。
「神々からの裁きを受ければいい……!」
陽がいよいよ傾いて色褪せた空を背景に髪をなびかせたエルティスが飛んでいくのを、デュエールは地上で見送るしかなかった。
彼女が向かうその先には、今崩れた柱と同じものがまだ六本ある。彼女の目的がそれであることは明らかだった。
これがルシータの滅び? すべての柱がなくなったら、そのとき何が起こるのだろう?
「まだ……まだ、最後の柱が残っていれば<結界>は保たれます! <アレクルーサ>を早く!」
巫女姫が明らかに動揺した様子で叫ぶ。
いつもの巫女姫からはとても想像のできない悲鳴じみた甲高い響きに、辺りにいた神官たちが一斉にエルティスを追って走り出した。
だが、その目の前で二本目の柱が一本目と同じように音もなく崩壊していく。エルティス自身は既に三本目の柱へと向かって空を飛んでいて、地上を走る神官たちが追いつけるとは思えなかった。
めまいを起こしでもしたのか、ゆらりと姿勢を崩しかけた巫女姫に慌ててミルフィネル姫が駆け寄りその身体を支える。ミルフィネル姫が傍から離れたことで、デュエールは動きを止めていた不思議な重苦しさから解放された。
残っていた数名の女官たちが心配そうに巫女姫の様子を伺うが、横になるほどではないようだ。むしろ今は倒れている場合でないという気力が彼女を支えているのかもしれなかった。
そして、巫女姫と話ができるなら、デュエールは聞かなければならないことがあるのだ。
「……さっき、エルティスが攻撃されるのを止めなかったのは、何故ですか?」
青白い顔の巫女姫に、デュエールは静かに問いかけた。自分で思ったよりも冷たく凍りついた言葉だった。巫女姫の返事を待たずにデュエールはたたみかける。
「エルティスに手出しはさせないと、神々に誓ったのではなかったのですか!?」
『約束しましょう。エルティスがルシータの領地から完全に離れるまで、ルシータの民には誰も手を出させません』
巫女姫はゆっくりと顔を上げてデュエールを見た。青白い顔に、少し生気が灯った気がする。先ほどとは違ういつも通りの冷静な声で、巫女姫は答えた。
「神々に誓ったのはあなたも同じでしょう、デュエール―――エルティスに二度と関わらないと誓ったのではなかったのですか。何故祀りの森へ走るようなことをしたのです。それではエルティスに関わろうと思われても仕方のないこと」
エルティスに関わらないという神々への誓いを破ろうとしたのはデュエール。だからこそ巫女姫もまたデュエールとの約束であった誓いを守らなかった―――。
それは詭弁以外の何物だというのか。エルティスが無事にルシータを出ること。それがデュエールが神々に誓うための条件だったはずだ。
それがなされなければ、そもそもすべてが成立しなくなる。
デュエールは唇を噛んで喉元まで出かけた叫びを呑み込んだ。巫女姫をはじめとしたルシータの民が、エルティスの抹殺を何より望んでいることを思い出したのだ。
デュエールとの取引でエルティスを保護しなければならないとして、たとえデュエールが二度とエルティスと関わらないとしても二人がいる限りは滅びの不安と恐怖は残る。
巫女姫たちは、エルティスの保護の約束を破棄する口実を待っているのだ。それがデュエールに対する揚げ足取りだとしても。
言質を取られるような感情的な発言はしてはならない。思考を巡らせて、デュエールは黙り込んだ。
「柱が!」
巫女姫の傍らで、ミルフィネル姫が悲鳴を上げる。彼女の視線を追い、デュエールが後ろを振り返ると、宙に浮かぶ銀色の娘の向こうで三本目の柱が静かに姿を消そうとするところだった。残り四本。
巫女姫に対して言葉を捜していたデュエールは、ふと笑い声が聞こえてくることに気付いた。彼がよく知っている、聞き慣れた声。だが、その声の主は今彼の背後で空を舞っているはずだった。
愕然として視線を巡らせると、先ほどエルティスが立っていた場所に、同じような銀色の髪と瞳の娘がいた。デュエールの視界にいたはずなのに今までまったく気付かなかったのは何故だろう。
薄く背後の森が透けて見え幽霊のように思えるのに、その存在感は生身の人間以上に凄烈だった。<アレクルーサ>と呼ばれた銀の髪のエルティスよりも。
『だから何度も言い聞かせたというのに。神の子の……その絆に、干渉してはならないと。この都市の輝ける未来は永遠に失われたのだよ、カルファクス』
(初出 2004.7.10)