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エルティスとまったく同じ声で、その娘は笑った。祠から出てきたときのエルティスの口調。
背後から聞こえてきた声に、巫女姫はぎくりと肩を震わせ後ろを振り返った。ミルフィネル姫も周りの女官達も言葉もない様子だ。
ルシータなど滅んでしまえと冷酷に宣告した先ほどのエルティスと同じ瞳には、明らかに楽しそうな光が浮かんでいた。何度見直しても、そこに立っているのはエルティスなのだった。
「<アレクルーサ>……」
かろうじて聞こえた声は、おそらくは巫女姫のもの。つまりは目の前にいる彼女が、エルティスが目覚めさせた<アレクルーサ>ということだろうか。では、柱を破壊して回っているエルティスは。
『神の子の絆は、お前たちルシータの民が作り上げたもの。二人を迫害し同じ場所に追い込むことで、自分たちを滅びに導いたのだ』
「させない……。させるものですか!」
憤然として叫び返したのはミルフィネル姫だった。母の身体を女官に預けると、彼女は仁王立ちで<アレクルーサ>に相対する。デュエールに背を向けているからその表情は伺い知れないが、毅然とした態度が周りの恐怖におののく女たちとは対照的だった。
ミルフィネル姫の言葉を受けても、<アレクルーサ>の様子は変わらない。むしろ楽しそうな様子さえ感じられる。
陽は傾き、太陽の光は徐々に赤く染まり始めている。炎に包まれているわけでもないのに、辺りの景色は赤く照らされていた。
「あなたに、ルシータは滅ぼさせない」
薄く赤い世界の中で、ミルフィネル姫は静かに断言する。<アレクルーサ>は笑みを浮かべたまま、彼女を見据えていた。
『ルシータに裁きを下すのは、私ではない。だが、できると思うのか。神に従うことで栄華を極めていたお前たちに、神のさだめに逆らうことが』
「やってみなくてはわからないわ。私たちには切り札がある、デュエールがいるもの!」
ミルフィネル姫の言葉に、デュエールは思い出す。そうだ、巫女姫が言っていた。<アレクルーサ>がルシータに滅びを呼ぶためには膨大な魔力が必要で、その抱えきれない魔力を受け止める受け皿、すなわち<器>が必要なのだと。
エルティスの魔力の<器>であるというデュエール。彼がエルティスに力を貸せばルシータは滅びるし、力を貸さなければ滅びから免れる。デュエールの気持ち次第で、ルシータに訪れる未来は変わるのだ。
ミルフィネル姫の言葉を聞いて、<アレクルーサ>は静かに瞳を閉じた。口元にはわずかに笑みが浮かぶままだったけれど。
『そうか……。ならば、やってみるがいい。だが、世界に対し罪を犯しているお前たちが、正当なる怒りを持つアレクルーサに敵うだろうかね……』
ミルフィネル姫はデュエールに向き直った。胸の前で祈るように手を組み、彼女はデュエールに懇願する。騒動とは無縁の穏やかな風に揺れる艶やかな黒髪。
「デュエール。貴方の力が必要なの、私と一緒に来てください。このルシータを滅びから救って!」
駆け寄ってきたミルフィネル姫は、デュエールの右手をその両手で包み込んだ。温かなぬくもりには、先ほど彼女が裾をつかんでいたときのような束縛はない。
デュエールは、選ぶことができるのだ。ルシータを滅ぼすのか、救うのかを。
―――神々への誓いは、守られなければならない。
ミルフィネル姫との婚約とエルティスとジュノンの保護とを、デュエールは引き換えにした。デュエールがエルティスとの関わりを断ち切ることで、彼女の安全は約束されたのだ。それはすなわち、エルティスが神官たちに傷つけられるようなことがあれば、全ての誓いが成り立たなくなるということでもある。
「柱が残り三本に……!」
何もできず巫女姫の傍らですべてを見ているだけだった女官の一人が、絶望的な声を上げる。
一途にこちらを見つめてくるミルフィネル姫から目を逸らし、デュエールはその向こうにいる巫女姫に声をかけた。
「確かに俺はエルティスとの関わりを断つと神々に誓いました。でも、その代わりに巫女姫様はエルティスに手出しはさせないと神々に約束したでしょう。エルティスが無事にルシータを出て行くまで、俺には見届ける権利があるはずです」
ようやく見つけ出した言葉を巫女姫に告げると、デュエールはミルフィネル姫に頷く。ほっと安堵した様子で、ミルフィネル姫は走り出す。
デュエールは唇を強く噛み締めると、その後を追った。
娘が後ろにデュエールを伴い神殿の方向へ走っていくのを、カルファクスは女官に身体を支えられながら見送っていた。
振り返ることもできない背後からは、未だに銀色をまとう少女のくすくすという笑い声が響いてくる。
もう体力も限界だった。本来なら自ら神殿へと向かい、神官たちを指揮するべきなのだが、ここから歩き出すどころか女官の手を借りずに立っていることさえ危うい。既に気力だけで意識を支えているようなものだ。
周到に用意をし、慎重に機を計り動いたつもりだったのだが。ほんのわずかな狂いが、大きく流れを変えてしまった。
エルティスが神殿から姿を消さなければ?
祠に閉じ込めたエルティスが覚醒しなければ?
デュエールが帰ってこなければ?
ミルフィネルがエルティスから聞いた情報を鵜呑みにしなければ?
カルファクスにはもう未来が予測できなかった。できることは、彼女の視線のはるか先にある中央の柱、ルシータを包む<柱の結界>が壊されないことを祈るだけ。
『いいのか、カルファクス。娘を止めなくても?』
背後から聞こえる皮肉めいた声にも、カルファクスは身動きできなかった。だが次に聞こえてきた言葉。
『神託を忘れたのか? 言ったはずだぞ、「お前の娘が、自ら災厄を呼び起こす世界最後の巫女姫となる」と』
女官を振り払うような勢いで、カルファクスは振り返った。銀色の波打つ髪を風に揺らしながら、少女が笑っている。
その姿に二十年以上前に見た少女の幻影が重なった。そこに立つ彼女はエルティスと瓜二つで、リアーナとは血の繋がりもあり多少似てはいるが違う。同じところは波打つ銀の髪と輝く瞳の色だけなのに、カルファクスは時を遡ったような錯覚に陥った。
『今お前の娘が連れて行ったのは、<アレクルーサ>の<器>だったな』
デュエールは<アレクルーサ>の<器>。
エルティスがルシータを滅ぼすにはデュエールの力が必要不可欠で、だからデュエールの行動次第でルシータの未来は変わる。デュエールとエルティスを近付けてはいけない。
しかし、ミルフィネルは今デュエールを連れて<アレクルーサ>のもとへ向かっている。ルシータを滅びから守るために。デュエールの力で<アレクルーサ>をとめるために。
自ら災厄を呼び起こす―――。
「駄目だわ! デュエールを行かせてはいけない!」
カルファクスが力の限り叫んだときには、既に二人は視界から消え去ろうとしていた。緩やかな曲線を描く通りに添って建物の影に姿が隠れていく。二人のうちどちらかが声を聞きつけて振り返った様子はない。カルファクスの声では届かなかったのかもしれない。
彼女が命を出す前に気のついた女官たちが走り出す。だが、今からで間に合うかどうか……。
体力は限界だと思った。だが、カルファクスは女官の手からすり抜け一歩前に踏み出していた。膝は折れることもなくしっかりと彼女の身体を支えている。
「私も行きます。ミルフィネルとデュエールをとめなければ……」
これが意思の力かと、カルファクスは自分のことながら驚愕した。先ほど女官に支えられてかろうじて立っていたのが嘘のようだ。
神殿まで行かなければいけない。自分を支えていた女官を伴い、カルファクスは確かな足取りで歩き出す。後ろで少女の声が聞こえた気がしたが、その内容までは聞き取れなかった。
自分なら、<アレクルーサ>を止められる。
エルティスがルシータを滅ぼそうとするのをやめさせられる。
どうすればいいのか方法はまったく見当がつかなかったけれど、デュエールはミルフィネル姫の後をついてルシータの中央部、神殿のある方向へと向かっていた。
デュエールの前を頼りなげに走りながら、既に上がり始めた息でミルフィネル姫は告げる。
「神殿へ。きっと<アレクルーサ>が、最後にめざすのは、そこです。神官たちも、そこに集まっているはず」
前を見ると、その先には地上から真っ直ぐ天を貫いてそそり立つ柱。二人はそこを目指していた。周囲を囲んでいた同じような巨大な柱は影も形もなく、鮮やかな赤い空がどこまでも広がっている。
ルシータの空に常に存在していた柱は、今デュエールたちが目指している中央部の一本を残してすべてエルティスに壊されてしまったのだ。神官たちが巫女姫の言葉に従ったとすれば、神殿には彼らが集結しているはずである。
―――<アレクルーサ>と<器>を近付けるな!
そう叫び、<神の子>であるデュエールとエルティスに危害を加えようとした神官たちがいる。デュエールがエルティスを止められるとしても、隣にミルフィネル姫がいるとしても、彼らはデュエールを通すだろうか。
ミルフィネル姫の走る速度はだんだんと遅くなっている。足元も危なっかしい。全力を出せば彼女を置き去りにして先へ行くことは可能だが、デュエールはそうしたい衝動を気力で押さえ込んで、彼女の後ろを走っていた。
神殿前にある広場に飛び込むと、神殿を囲むように神官たちが群がっている。だが、彼らの誰もが一点を見たまま固まっていた。神殿の上空、柱の天辺付近を。
彼らの視線を追い、デュエールも神殿を貫く柱の先を見た。
波打つ銀色の髪を持つ娘が、空中に立ちこちらを見下ろしている。他の六本すべてを破壊したエルティスが、ついに最後の柱にたどり着いたのだ。
エルティスは確かにデュエールの方を見ている。彼女の顔を見て、デュエールはそこから目を離せなくなった。
こちらを見たまま、エルティスは待ちわびた様子で歌うように告げる。
「ありがとう、次代巫女姫ミルフィネル。感謝するわ」
笑顔を浮かべるその頬に伝う一筋の涙。
笑いながら、泣いていた。確かに泣いていた。
それは、デュエールの見間違いではなかった。
(初出 2004.7.10)