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視界に影をとらえとっさに避けたものの間に合わず、勢いよく振り下ろされた棒が側頭部をかすめる。昨夜のようなことにはならなかったものの、鈍い音が響き、衝撃でデュエールは足元をふらつかせた。
「デュエール!」
ミルフィネル姫の悲鳴のような呼び声が聞こえたが、その姿を確認する暇はデュエールにはない。二打目が襲ってくる前に体勢を整えなければ、エルティスを助ける前に自分が倒れてしまう。
「何をするつもりなの!」
「デュエール殿には気絶していただくだけです。<アレクルーサ>が<器>の力を使う前に二人を離さなければならないのですから」
先ほど殴られたところが脈打って痛みを訴える。振り回される棍棒を避けながら、デュエールは顔をしかめた。鋭利な場所にでも引っ掛けて、傷でもついたのかもしれない。
エルティスの魔力を抑え込むことから、完全に注意は逸れていた。
―――馬鹿なことを。これでエルティスが俺から魔力を呼び出せば、もう終わりなのに。
本能的に殺気を感じ取り、間一髪で攻撃を避ける。必死に神官たちから逃れながらデュエールがミルフィネル姫を目だけで追うと、女性の神官二人がかりで両脇から抑えられていた。
自分たちに害を及ぼすというだけで、多人数で一人を追い詰められる彼ら。尊ぶべき姫すら抑え付けてまで、自分たちのために命を奪おうとする彼ら。
どうしてわざわざ守らなければならない。救ってやらなければならない。
休むことなく神官たちの攻撃の手から逃れながらも、デュエールは笑い出したい気分だった。
自分が、エルティスが、ルシータに仇なす者だとして、それを防ごうとする者におとなしく従ってやる理由などないのだ。そもそも、彼らを守りたいわけではない。むしろ救いたくなどなかった。
それでも彼らを守ろうとする理由は、ただひとつ―――。
「仕方のない人たち……」
唐突に聞こえてきた声に、辺りの神官たちの動きがぴたりと止まる。デュエールの目の前で棒を振り上げた神官もその姿勢のままで凍りついた。その顔には明らかに恐怖の色がある。
上空から響いてきた呟き。そんな小さな声など聞こえるはずもないほど離れているのに、それは空から地上にいる者たちすべての耳に届いたのだった。
乱れた呼吸を整えながらデュエールが声を追って見上げると、エルティスが嘲笑をひらめかせてこちらを見下ろしている。彼女はその表情のまま、言った。
「あたしを傷つけることができないから、デュエールに手を出すの? ルシータを滅ぼす力の源は、デュエールじゃなくてあたしなのにね」
エルティスがそう言い終えた瞬間。
再びデュエールの中で力が暴れ出した。今度は先ほど以上の勢いで外に向かって流れ出ようとする。
身体中を走り抜けるたとえようもない違和感に、デュエールは必死になって意識を保とうとした。脈打つ側頭部の痛みと身体の内側でのせめぎ合いに、身体がふらつくばかりでなく、意識まで朦朧としてくる。
デュエールの意思による枷は、川をせき止めるのと同じことなのだ。その高さを超えれば、あるいは堰の耐久性を超えれば水が流れ出てしまうように、デュエールの意思を上回れば、エルティスがその力を自由に使うことが可能となる。
<器>が抱えることのできる魔力とは、もともと<アレクルーサ>のものであり、一時的に預かっただけに過ぎないのだから。
デュエールの心身にかかる負荷は、先ほどまでとは比べ物にならなかった。エルティスも本気でかかってきているということなのだろう。
「デュエール!? またなの!?」
女官に動きを抑えられたままのミルフィネル姫が、デュエールのおかしな様子に気付いたらしい。もちろん、デュエールはそれに応えるどころではなかったのだけれど。
「滅べばいいのよ、こんな醜悪な街」
エルティスの声が聞こえて、デュエールはやっとの思いで顔を上げてエルティスを見た。言葉の端々に憎しみがにじみ出ている。何も知らないデュエールにもはっきりと分かるほどに。
この言葉で分かる。エルティスは何らかの理由でルシータの民を憎み、そして許しはしないだろう。エルティスはルシータを滅ぼすつもりなのだ。
エルティスが最後の柱に向かってかざした両手の中に輝かしい白い光が凝るのを見て、デュエールは力を振り絞り彼女に向かって一歩踏み出した。
「エルティス……!」
彼らの行動を目の当たりにして、それでもルシータの民を護りたいとは、思わない。
それでもデュエールが彼らを救おうとする理由。
エルティスを止めようとする理由。
そんな、デュエールにとって護る価値のない連中の命と未来を、エルティスに背負わせたくなかったから。彼らを敵視するルシータの民の運命を、何故自分たちが抱えてやらなければならない。
ルシータが滅びれば、デュエールとエルティスは生まれたときから背負わされたしがらみから解放されるだろう。しかし、そのためにエルティスの手が血塗られることだけは我慢できない。
生きていくのは、ルシータでなくてもいい。
ファレーナ王国は広く、世界はもっと広いのだ。その中には、ルシータや魔法と何のかかわりももたずに生きていける場所もあるはず。世界の大部分は、魔法を知らず使えない国や人々なのだから。
彼らに繁栄も滅びも与えず、ルシータを見捨てて出て行くことが、エルティスにはできるのだ。
デュエールの絶叫のような呼びかけは、エルティスにたぶん届いている。だが、彼女は柱を見つめたままだった。視線を逸らさないまま、口だけが動いた。
「大丈夫……あなたの居場所を失くすようなことは、しない。あなたはここで生きていける」
エルティスの言葉は抑揚がなく、ひどく突き放すような響きがした。よく知っている声であるはずなのに、別人の声を聞いている感覚に陥る。何故だろうと頭で思う前に、デュエールはその理由に気がついた。
彼女は、デュエールを「あなた」と呼んだのだ。今までそんな呼び方をしたことなどなかったのに、何故。
嫌な予感がデュエールの脳裏をかすめた。
エルティスはあなたの居場所と言ったのだ。居場所がこのルシータにあるのだと。
―――まさか。あの婚約式を『見て』いた?
ミルフィネル姫への永遠の愛を誓うのを? 巫女姫から証である飾環を受けるのを?
もしその前の経過をエルティスが『見て』いなければ、彼女はデュエールの真意と巫女姫たちとの取引を何ひとつ知らないことになる。
そして、エルティスが神殿から姿を消したのは、デュエールとミルフィネル姫の婚約式の真っ最中ではなかったか。たぶん彼女が目覚めてから、そう時間は経っていないはずだ。
エルティスは婚約式しか『見て』いないのだ。だから彼女は―――。
「……!」
デュエールは思わず額の飾環を手で覆ったが、今さら無意味だった。それは今日デュエールがエルティスと顔を合わせてからずっとそこにあって緑色に煌めいている。
ミルフィネル姫が身につけているいつもと違う額飾りと同じものであることに、エルティスが気付いていないはずがなかった。
変化は、周囲で見ているだけで事情がわからなかった者にも明らかだっただろう。
エルティスの魔力を押さえこんでいるのは、デュエールの意思の力。デュエールの動揺は、そのまま枷の揺らぎとなった。
弾けそうな勢いで、デュエールが抑えている力が膨れ上がる。
もう駄目だ、これ以上止められない。側頭部を襲う痛みと戦いながら、デュエールはうっすらと思った。集中していなければ止めることができなかったのだ。ここまで動揺した心では、抑えることなどできるわけがない。
瞬間、デュエールの身体を包み込んで真っ白い光の柱が天に向かって屹立した。
その柱は、エルティスの両手の内に凝る光と同じ色をしている。呼応したのか、力を受け取ったのか、彼女の手元の光の玉は一層大きくなった。
デュエールの視界が捉えることができたのは、そこまで。デュエールの足元からはるか天空まで一直線に伸びる光の柱はさらに輝きを増し、すぐ傍にいたはずの神官たちすら顔を見ることができなくなった。
確認できるのは、ぼんやりとした輪郭と色合いだけ。そこに誰かがいるのは分かるけれど、何をしているのか、動きはほとんど分からない。
まとっている装束の裾と、いくらか伸びた髪が空に舞い上がっている。デュエールを包むこの光は今まで抑え込んでいたエルティスの力が具現化したもので、激しい勢いを伴って上へ―――すなわちエルティスへ向かって流れているのだ。しかし、多少巻き込んではいるものの、それはデュエールに害を為すものではない。
周囲の様子はまったく分からなかったが、エルティスの声だけははっきりと聞こえた。
「全部、終わりにしてしまいましょう」
光はますます強くなり、ついに輪郭も色合いも見えなくなる。デュエールには外で何が起こっているのか、エルティスが何をしたのか、まったく分からなかった。
しばらくして、石の建物が崩れ落ちる盛大な音と、薄い板硝子が砕け散ったような派手な音がデュエールの耳を叩いた。それはおそらくルシータ中に響き渡ったに違いなかった。
石畳を鳴らしながら慣れない様子で走っていたカルファクスがまだはるか先の神殿の様子を見るため顔を上げたとき、巨大な柱の隣で一条の光が天を貫いた。
見たこともない光景だったが、カルファクスは本能的に察知する。あれは、デュエールからエルティスの力が解放されたということなのだと。
ミルフィネルはデュエールを連れて行き、見事にエルティスに利用されたのだ。
『お前の娘が自ら災厄を呼び起こす、世界最後の巫女姫』
嘲笑う<アレクルーサ>の声がカルファクスの脳裏に木霊する。させるものかと息が上がるのもかまわず走る速度を上げたが、頭のどこかにもう終わりだという絶望感も確かにあった。
神の声を聞く巫女姫であるカルファクスは知っている。神々から与えられる託宣は絶対であり、残す予言は違えたことなどないことを。
デュエールから力が呼び出されたら、次に起こることは何か。予想するまでもなく、エルティスが<結界>を壊すために力を発動させることに決まっているのだ。
前方から尋常でない速度で光の壁が迫ってくるのをカルファクスは見た。
驚いて思わず立ち止まってしまう。あっという間に光の壁はカルファクスと供の女官を巻き込み、そのままの速度で後方へと走り抜けていった。振り返れば、真っ白な光は建物の影すら巻き込んで、さらにカルファクスたちから遠ざかっていく。
周囲はまばゆく煌めき白一色の世界になっていた。近くの建物は何とか形をとらえられるものの、離れたところにあるものは輪郭すらかき消されてしまっている。しかし、空を貫いて立つ最後の柱は白い視界の中まっすぐな直線の影をとらえることができた。
光の中心は、エルティスだろう。彼女が生み出した光が一瞬にして大きく広がりルシータを包んでいるのだ。
そして、カルファクスは見た。
真正面にある柱の影が、激しい音を立てて崩れていくのを。今までの六本の柱とは違う。地響きを立てながら崩れ落ちていく。かすかに見える夕暮れの空に映る白い影でしかないのに、はっきりとその様子が見て取れた。
間をおかずに遠く離れた場所で、薄い板硝子がひび割れ砕け散るような澄んだ、だが派手な音が響き渡る。カルファクスの背後からも左右からも、遠く離れたはるか前方からも。
最初の音は、柱が崩れる音。では、後から聞こえた音は?
次の変化は、カルファクスがルシータに生まれ、幼い頃から魔法に親しみ精霊や魔力の源を感じられるからこそ分かったものだった。
恐るべき勢いで、周囲から魔力の源が消えていく。
誰かが強力な魔法を使えば、しばらくの間その周辺の魔法の源が薄れることはよくあることだ。その程度ではカルファクスも慌てはしない。
だが、その減少の勢いが異常なのだ。
「<結界>の壊れる音……」
カルファクスは先ほどの音が<結界>が壊れた音なのだと気がついた。形があったものではない。<結界>が失われたことをはっきりと知らしめるために響いたものなのだろうか。
一カ所に留めおかれていた魔力の源は、抑えとなっていた壁がなくなったためにゆっくりと世界中へ拡散し、それはやがてないも同然なほどに薄れて消えていくのだ。
世界にある魔力の源はもう魔法の使い手がいなくなるほどに極端に少なくなっている。
ルシータに満たされていた魔力の源はとても濃密であったが、世界はもっと大きいものだから。
いずれルシータの周囲の魔力の源も、世界の他の地域と変わらぬ程度になるだろう。今まで当たり前だった、生まれながらに魔力を抱え持つ赤子は生まれなくなる。
次代のルシータの民は、今のような強力な魔法を使うことはできないだろう。
そして、神々は二度と彼らに神託を与えない。
強力な魔法を使うことができず、神託を受けることもできない魔法都市ルシータに存在の意味はないのだ。権威は失われる。今までの生活は崩れ去る。
神々が望み、<アレクルーサ>が見事に達成した、これがルシータの滅び。
今すぐどうなるわけでもない。
だが、今までの生活を改めることができなければ、ルシータの民は確実に滅ぶのだ。
魔法はルシータからすら消滅する。魔法と神託とで世界にその力を誇示してきたこれまでの生活を根本から支えてきた基盤は、今この瞬間に失われた。
カルファクスの隣では同様に変化を感じ取っているのだろう女官が恐怖に震えている。
二人を包んでいた白い光は、<結界>の崩壊とともにゆっくりと薄れていった。建物がはっきりと見え、空が茜色に輝く。だが、カルファクスの正面にあったはずの柱は、跡形もなくなっていた。
(初出 2004.10.1)