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何が起こったのかわからなかったが、周囲から聞こえてきた絶望の悲鳴だけは確かに聞き取れた。
デュエールを包んでいた光がゆっくりとほどけて消えていく。空の茜色がはっきりして周りが見えるようになると、まず確認できたのは崩れ落ちた柱の残骸だった。
崩れ落ちた石が、神殿の中央部を完全に押し潰している。もしあそこに人がいれば最悪の結果になっているに違いないが、<アレクルーサ>が破壊しに来ると分かっている場所の真下にいた者などいないだろう。
まだ崩れたときの名残だろう粉塵がいくらか舞っており、吸い込んで激しく咳き込んでいる人の姿も見える。崩れたときはさぞかしひどい砂煙が起きただろう。考えてみれば、デュエールはあの光の柱に守られていたのかもしれなかった。
神官たちは絶望に陥っているようだった。
頭を抱え込んでいる者、叫びながら天に祈りを捧げている者、地に頭を伏せ震えている者。ミルフィネル姫は立ち尽くし、両手で身体を抱きしめて微動だにしない。
誰もが尋常な状態ではなかった。
デュエールはミルフィネル姫に近付き声をかけた。
「ミルフィネル姫、一体何が……」
「<結界>が壊された……魔力の源がどんどん外へ流れ出しているわ……!」
そうデュエールに教えるミルフィネル姫の声もひどく震えている。確かに何かが起こっていた。神官たちが恐怖に騒ぎ出すような何か。
だが、デュエールには何の変化も感じられなかった。
彼の目に見えるのは崩れ落ちた柱の残骸だけだ。建物も、人々も、エルティスが何かをする前と変わったようには見えない。
エルティスがルシータを滅ぼすのだと、巫女姫は言った。これがルシータの滅びだというのだろうか。
それが魔法に関することなら、彼にはわからないのも仕方のないことかもしれない。世界にある魔力の源を感じそれを自在に使いこなす力を、デュエールは生まれつき持たないのだから。
デュエールにできたことは、エルティスを探すことだけだった。
空には誰もいない。エルティスがいたはずの場所に目を向け、そのことを確認したデュエールは、そのまま視線を下に下ろした。
足元を風が流れていく。茜色の空に、闇の色が混じり、辺りは急速に薄暗闇に沈み始めた。
デュエールの視線の先にいるエルティスの姿はわずかに輝きを帯びている。昨夜見たときと同じように、その表情をはっきりと見ることができた。
波打つ銀色の髪を躍らせながら、エルティスは地面に軽く足をついて降り立つ。丸一日ですっかり見慣れてしまった姿だった。デュエールが知っている彼女とは、違うのに。
エルティスの顔に、先ほど見た憎しみの表情はなかった。何の激情も感じられないが、無表情とは違う。ただ、触れ難い雰囲気だけがある。
「<アレクルーサ>……」
デュエールは傍らのミルフィネル姫の呟きを聞いた。エルティスはちょうど彼女の真正面に降り立っているのだ。座り込んでしまったミルフィネル姫と超然と立つエルティスが真っ直ぐ向かい合う。
祀りの森で半透明の<アレクルーサ>に喧嘩を売ったときの威勢は、既にミルフィネル姫の中にはないようだ。無言でエルティスを見つめている。
デュエールはふと周囲を見回した。いつの間にか嘆きや絶望の声すら聞こえなくなったと思ったら、神官たちは息を詰めてエルティスを見守っているのだった。
巫女姫が神託を人々に告げるときは、もしかするとこんな雰囲気に包まれるのかもしれないと、デュエールは思った。神官たちも、ミルフィネル姫も、エルティスが何かを話すのを待っている。
エルティスはルシータを滅ぼすために神々が下した使い―――彼女の言葉はまさしく神託になるのだろう。
だが、デュエールが何度彼女を見直そうとも、彼にとってはやはり幼馴染みのエルティスにしか見えないのだった。たとえそれが知っている姿ではなく、まとう雰囲気すら変わってしまっていたとしても。
周囲から瞬く間に魔力の源がなくなっていくのを感じて、エルティスはやっと終わったと思った。
ルシータに閉じ込められていた魔力の源が世界に流れ出ていくのだ。濃いものと薄いものが混ざり合い一様になるように、いずれ世界に散らばる魔力の源の濃度と一致すれば、流出も落ち着くだろう。
しかし、<結界>が壊れた瞬間から、魔力の源が外へ出て行く勢いはまったく緩む気配がない。エルティスが思っていた以上に世界から魔力が失われているか、あるいはルシータがよほど異常な量の魔力を抱え持っていたということだろう。
空を染める茜色の鮮やかさが翳っていく。陽が落ち急速に光が失われており、そのうち人の顔も判別しにくくなるだろう。
だが、エルティスにはそんな心配は無用のようだった。まったく関係なく、はっきりと地上の人々の様子を見ることができる。
天を仰ぎ、あるいはわめき、絶望の声を上げる人々。
それを見ても、エルティスは何の感情も沸き起こらなかった。
<結界>がなくなったことで、ルシータは他の場所と何も変わらぬ場所になったのだ。強力な魔法を使うことができるルシータの民とは、<結界>の中の濃い魔力の源に抱かれて育つからこそ生まれてくる。
ルシータ以外の地域では、魔法はほとんど普及していない。誰もが使えるものではないのだ。ルシータでは魔法を使えないザラート親子は冷遇されがちであるが、ルシータから出れば、彼らの方が普通の存在になる。
これから先、それほどまでに魔力を持つ者は育たない。
そして何より、二度と巫女姫たちが神の声を聞くことはないのだ。
ルシータの民がその変化を受け入れ、生活を変えることができなければ、ルシータは間違いなく滅ぶだろう。
エルティスは地上を見回し、ある一点で目を止めた。
哀れみも何も感じず、すべてを冷たく見ていられたはずなのに、その光景で心が震えた。
艶やかな黒髪を土埃に汚す少女の傍らに、茶髪の青年がいる。肩を抱き身動きしない少女に、青年は何事か声をかけているようだった。
―――あなたの居場所をなくすようなことは、しない。
エルティスは、自分の言った言葉を反芻した。
そう。たとえルシータからすべての魔法と権力とが失われたとしても、それでもミルフィネル姫はデュエールを欲するだろう。
彼女はそれらのためにデュエールを求めたわけではない。そして、デュエールもそのようなものに惹かれるような人ではないから。
彼女がいる限り、デュエールの居場所は『ここ』にあるのだ。
ならば、自分は。どこへ行くのだろう。
『帰るかね、<アレクルーサ>』
ふとどこからか声が聞こえた気がして、エルティスは目を瞬かせた。聴いたことがあるような、懐かしい声だった。
『そなたは神々が下したわが一族である。人の地に生まれ落ちた子よ。よくぞ使命を果たしてくれた。もう地上で啼く必要もない。我らの住処へ帰ってくるかね』
父親とは、このようなものであろうか。包み込まれているような感覚をエルティスは味わった。望めば、エルティスは神々の住まう天界へ行くことができるのだ。
エルティスは空を仰ぐ。もう陽はなく、西の空がかろうじて残光で赤く染まっていた。東へ流れる雲は燃え尽き、濃い紫に変わっていく。
(神様がいる世界の空は……、きっとこことは違うよね)
そんな空を見上げて過ごすのも、悪くないのかもしれない。
ここにはいられないから。
まだ、一人になったわけではなかった。
犬神がいる。両親の墓も護らなければいけない。もうルシータに縛られることもないから、麓のレンソルにいる姉夫婦のところへ行ってもいいのだ。ずいぶんと顔も見ていないことだし。
しかし。
エルティスはもう一度地上を見下ろした。
寄り添う一族の姫君と大事な幼馴染み。二人とも空を見てはいないから、その額を飾る翡翠色の宝石は今は見えないけれど、それがどういう意味を持つのか、それくらいはエルティスにだってわかる。
ミルフィネル姫は青年を守ろうとしていた。そして、デュエールは姫のためにエルティスの力を止めて、ルシータを守ろうとした。
―――もう、ここにはいられないのだ。
『神々の時代が終わり、人の時代がくる。すべてを終わらせておいで、我が子よ』
その声を背に、エルティスは再び地上へ舞い降りた。
最後の言葉を伝えるために。
人々が沈黙する中、神々しい雰囲気すらまとってエルティスが放ったその言葉が、決定打だった。
「ルシータの過去からの過ちは、ここで終わりになるわ。魔法はなくなる。……神々の手から離れた世界に、神の声を聞いて未来を決定する巫女姫は必要ないのよ」
言われてみれば、デュエールにも理解できる。世界のほとんどが使えない魔法の使い手たちと、神託を受ける巫女姫を擁しているからこそ、ルシータは世界にあれだけの権勢を誇り、これだけ優雅な暮らしができるのだ。
それが失われれば、ルシータの繁栄を維持できるわけがない。滅びるに決まっている。
つまり魔法がなくなることが、ルシータの滅びと巫女姫が呼んだものなのか。
エルティスが為そうとしたことは、直接に命を奪うことではなかったのだ。ルシータの生活が変わることで結果として脱落者は生まれるのかもしれないが、それは努力次第で少なくできるはずだ。
知らなかったとはいえ、デュエールが必死になってエルティスを止めようとしたのは見当はずれだったということか。たとえエルティスが使命を果たしたとしても、彼女が誰かの命を背負うわけではなかったのだ。
もう誰も声を上げるものはいなかった。絶望すら通り過ぎたということだろうか。
デュエールはミルフィネル姫を見た。彼女も言葉も出ない様子だった。民に次代の巫女姫と呼ばれていた彼女にとって、エルティスの言葉は衝撃に違いない。自分と母親のの存在意義が、柱が壊れたあの一瞬で崩れ去ったのだ。
途方にくれた様子のミルフィネル姫の傍で、デュエールは立ちすくんでいた。これから先、どうなるのだろう。
伸びかけの横髪が、突然の風にさらわれ視界を遮る。慌ててそれを払いのけ、デュエールは周りを見回した。
風の向きが唐突に変わった。完全に逆方向に吹いている。エルティスに向かって。
急に思い当たって、デュエールはエルティスを見た。
彼女を中心に風が集まっていくのがはっきりわかる。何が起ころうとしているのかデュエールにはなんとなく見当がついた。
高いところから飛び降りるときや、段差がひどいところを登るとき、エルティスはいつも今のように風霊に願い風を呼んでいたのだ。
一体、どこに飛ぶつもりなのか。
そう思うと同時に、デュエールは飛び出していた。
地上と空中だったから距離を感じただけで、実際同じ地面に立てば、二人の間はさほど離れていない。ほんの少し走れば、エルティスが魔法を使う前に届く。
さらに暗闇に沈み足元が見辛くなった石畳を、デュエールは走る。辺りには篝火も魔法の明りも灯っていないのに、エルティスだけははっきり見えることが不思議だった。
エルティスの周囲に風が集まり、彼女を包み込んでいる。
舞い上がる髪も翻る装束も気にせず、デュエールはエルティスに向かって手を伸ばした。真っ直ぐどこかを見つめたままの彼女は、まだデュエールがすぐ傍に来ていることに気付いていないらしい。
「エルティスっ!」
デュエールが呼びかけると、エルティスは脅えるかのようにびくりと肩を震わせてこちらを見た。目を見開いたまま、その表情が凍りつく。
その手にデュエールの手が触れるかと見えたとき、エルティスは勢いよくその手を払いのけ一歩退いた。わずかに開いた二人の距離。
手を払いのけられたまま、デュエールは呆然と立ち止まった。エルティスは手を胸元に引っ込めてこちらを見つめている。その表情は明らかに何かに傷付いていて、デュエールが今まで見たことのないものだった。
デュエールは眉をひそめる。自分は何か間違いをおかしたのかもしれない。
ここまで手ひどく拒否されるとは思わなかった。手に確かに痛みを感じる。叩かれるどころか、一瞬たりとも触れ合わなかったのに。
痛んでいるのは、心かもしれなかった。
エルティスは傷付いている。デュエールが伝えなければ、彼女の誤解も解けることはないというのに、彼の喉から言葉は出てこない。一体何を伝えればいいのか―――。
無言で見つめ合う時間は、それほど長くは続かなかった。
エルティスが一歩後方へ下がり、さらにデュエールとの距離をとる。追いかけて一歩踏み出そうとしたデュエールに向かって何か言おうと口を開いて―――その唇が引きつり歪んだ。
結局、言葉は形にならなかった。エルティスは俯いて唇を引き結ぶ。
次に顔を上げたとき、エルティスは泣いていた。銀の瞳からあふれた涙は次々と珠を結び、頬を伝い落ちていく。
―――先に拒否したのは、誰?
そんな風に泣くエルティスを、デュエールは久しぶりに見たのだった。最後に見たのは、彼女の両親の葬儀のとき。あれから、エルティスはデュエールに泣く姿をほとんど見せたことがない。
再び、デュエールの心が音を立てて痛み出した。
消えてしまう。
それはデュエールの中に唐突に沸き起こった確信だった。
大きく風が動き、エルティスをデュエールの視界から隠そうとする。
足元に降り積もっていた粉砕した塔の残骸が舞い上がって視界を遮った。砂が目に入りデュエールが目を閉じた瞬間に、気配が掻き消えるような感覚が伝わってくる。
「エルっ! いったいどこへ……!」
デュエールが叫んだのと、風ごとエルティスの姿が消えるのは同時だった。彼女の光臨が掻き消えると、辺りは急速に暗闇へと沈んでいく。
最後の声は、きっと届かなかった。
(初出 2004.10.1)