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それは、何年ぶりに使った呼び名だったか。
自分が最後に叫んだ言葉を思い返して、デュエールはその場に立ち尽くした。
ほんの数瞬前までエルティスがいたはずの場所を見つめる。もうそこには何の痕跡も見つけられなかった。まるで最初から誰もいなかったかのように何もない。
いつの間にか使うことをやめていた呼び名。幼い頃は何のためらいもなく呼べていたエルティスの愛称を、今デュエールはごく自然に叫んでいたのだ。
何がきっかけで愛称で彼女を呼ばなくなったのかは、まったく思い出せない。しかし、一度使わなくなった呼び名をそうそう簡単に呼べるものではない。
心の底では思っていたのかもしれない。またエルティスを愛称で呼ぶようになるのなら、それは今までの幼馴染みという関係が変わるときなのだと。
しかし、肝心のエルティスには聞こえなかっただろう。デュエールがその名を呼んだのは、エルティスが消えたその瞬間だったのだから。
俯いて届かなかった右手を見つめたまま、デュエールはぎりっと歯噛みした。
一体、エルティスはどこへ行ったのだろう。
デュエールの傍から消えたなら、彼女が次に行くところは―――。弾けるように顔を上げたデュエールは勢いよく振り向くと、崩れた塔の残骸を背に走り出した。
カルファクスが必死の思いで神殿へたどり着いたときは、もうすべてが終わった後だといってよかった。
ミルフィネルが力なく座り込んでいるのを筆頭に、視界に入る限り放心したような者たちばかりで、その場に立っているのはデュエールひとりきりだった。
<アレクルーサ>たるエルティスの姿はそこにはない。使命のすべてを果たして消えたのだろうか。
神殿は無残なものだった。中央部は瓦礫に押し潰され跡形もない。冠婚葬祭を執り行う場所も、魔法の儀式を行う場所も、神託を受けるための場所もその下だ。
居住区域は残っているし、政を行う場所も謁見の場も周縁部のために無事ではあるが、おそらくまともには機能するまい。ルシータの最も重要な中枢部が完全に破壊されている。
もっとも、それらが残っていたところで意味は成さないのだが。
「あぁ……」
背後の女官がうめき声を上げる。ルシータの民であれば、これを見れば同じ反応をするだろう。
カルファクスは娘の傍に歩み寄る。そっと見下ろすと、肩が小刻みに震えているのが分かる。
彼女は一部始終を見ていたに違いない。自分がデュエールを連れてきたことで滅びの引き金を引いたと知ることは、どれだけの衝撃だろう。
もしかしたら、ミルフィネルが連れて行かなかったとしても、デュエールは一人でエルティスのもとへ行ったかもしれないけれど。
カルファクスがひとり立ち尽くすデュエールに目を向けると、俯いていたデュエールは何か閃いたのか、勢いよくこちらへ振り向く。
カルファクスとミルフィネルには目もくれず横を通り過ぎたのを、カルファクスは静かに呼び止めた。
「どこへ行くのですか、デュエール」
石畳の音が止む。カルファクスは前を向いたままだったからデュエールの様子は分からなかったのだが、どうやら立ち止まったらしい。
「答える必要がありますか」
デュエールの返答は刺々しく、カルファクスの予想外のものだった。後ろを振り返ると、立ち止まったデュエールはこちらへ向き直り、カルファクスを睨んでいた。
辺りは暗闇に沈み、誰も火を灯すことも明りを呼ぶこともないために顔もはっきり見えなくなってきている。しかし、彼のその剣呑な光を宿す瞳はしっかりととらえることができた。
何かを言いたそうにしているが、次の言葉はない。
カルファクスが反応をうかがい黙っていると、デュエールは力を抜くようにふっとため息をついた。無言で右手を自分の額にかける。
そこにあるのはカルファクスが与えた婚約の証である飾環。透き通った緑色の宝石が中央を飾るそれを、デュエールはそっとはずす。そのまま右手を真っ直ぐこちらへ伸ばし、彼はようやく言葉を搾り出すように言った。
「これは、お返しします。もう俺には必要ないものだから」
そのデュエールの言葉に、傍らのミルフィネルがびくりと身体を震わせるのをカルファクスは感じた。
「デュエール、あなたは……」
「巫女姫様は、エルティスを護らなかった。俺がミルフィネル姫との婚約を受ける理由がどこにありますか。それがすべての前提条件だったのに」
今のがミルフィネルにはとどめの一言だったかもしれない。婚約はエルティスのためだったと、ミルフィネルには何の感情もないのだと言い切ったのだから。
カルファクスは動かなかった。だが、デュエールもおとなしく彼女が受け取るのを待ってはいない。
何の未練もなく、デュエールはぱっと右手を離した。
からんと乾いた音を立てて、飾環は石畳の上に転がる。何かを反射して一瞬だけ翡翠色の光を放ったが、すぐに足元に迫った闇の中に沈んでしまった。
「神々の前に誓うと、あなたはおっしゃった」
暗闇の中にデュエールの声が響く。かろうじて敬語ではあるものの、言葉に抑揚はなく、怒りを隠しきれてはいない。
「エルティスがルシータを無事に出て行くまで、誰にも手出しをさせないと……それを……」
語尾が震え、最後は言葉にすらならなかった。しばらく沈黙が続き、再び口を開いたとき、今までとはまったく違う口調で、デュエールは吐き捨てるように叫ぶ。
「こんな街、滅んで当然だったんだ!」
その言葉を最後に、呆然としている二人を残し、デュエールは背を向けて祀りの森の方角へ走り去った。
―――神の子二人ともに見捨てられたな。
カルファクスの脳裏に、誰かの声が聞こえた気がした。
神託には、ある。
神の子は滅びをもたらし、また繁栄をもたらす。どちらの未来へ進むかは、ルシータの民次第。
繁栄を招くはずの神の子二人が滅んで当然だと見捨てたルシータに、これから先の隆盛など望めるわけもない。
デュエールの後姿が小さくなっていくのを、カルファクスは言葉もなく見送った。
魔法都市ルシータは、滅びる。
これから先の街の姿を、カルファクスは何ひとつ想像することができなかった。
暗闇に呑み込まれたルシータをデュエールは走り抜ける。
昼間から固く鎧戸の閉ざされた街並みは、明りがなくまったく人気が感じられなかった。夜になれば神官たちが魔法の明りを灯して回るはずの街灯も機能を果たしていない。
空に月はまだ昇っていなかった。煌めきだした星明りだけがわずかに足元の石畳を浮き上がらせている。
足元ははっきりせず、全力で走るには心もとない。だが、デュエールはかまわずに石畳を蹴って走っていた。
小さいときから駆け回ってきた街だ。距離感は体が覚えている。それに、目的の場所までは、陽が沈む前に真っ直ぐ走ってきたように道なりに進んでいけばいいのだ。
ルシータでエルティスが頼れるのはデュエール親子と犬神だけ。
デュエールの傍からエルティスが消えたなら、次に行く場所は犬神のところに違いないはずだ。彼女がまだルシータにいるのなら。
目の前に森が見えてくる。まだ木が焦げた後の嫌な臭いが周囲に漂っていた。
もし彼女がルシータからも消えていたら、追うすべはないかもしれないけれど―――ふと頭をもたげてきた考えを振り払うように、デュエールは走る速度を上げる。
きっとエルティスはここにいるはずだと半分は祈るような気持ちで、デュエールは祀りの森に飛び込んだ。
(初出 2004.10.1)