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その声がまだ違う口調であったなら、デュエールはあまりの嬉しさに振り向いたに違いない。しかし、実際のところデュエールがその声の主を探したのは、焦りのせいだった。
たとえ声が愛しいほどに懐かしいものだとしても、口調が違うならこれは探している人とは別人。
デュエールが目を向けた先にいたのは、星の光に波打つ銀髪を揺らめかせるエルティス。煌めく銀色の瞳がこちらを見つめていた。草を掻き分けてきたのではなく、その場に突然に現れたのだ。
その姿はデュエールが予想した通り半透明で、向こうの木々が薄く透けて見えていた。暗闇の中、星明りしか頼るものはないのに、それでもその姿ははっきりととらえることができる。
「<アレクルーサ>……」
目の前の娘の名を、デュエールはかすれた声で呟いた。
エルティスと同じ姿を持つ、彼女ではない者。希薄な姿を持ちながら圧倒的な存在感を放つ少女は、言葉を聞きつけたらしくデュエールに向かってゆっくりと首を振ってみせた。
エルティスと同じ声で、静かに告げる。
『私に名はない。私から記憶と力のすべてを継いだあの娘自身が、すでに<アレクルーサ>なのだ。私は、神から力を預かり伝える役目しか持たぬ』
彼女の言葉は、デュエールにとっては何の救いにもならなかった。エルティスが<アレクルーサ>、神の子そのものであるという事実をあらためて知らされたところで、何になる。
エルティスではない少女はふと何かに気付いた様子で、空中を滑るようにしてデュエールの傍にやってきた。
『あの娘が悲しむだろうに』
ぽつりと呟いて、彼女はデュエールの額の左側にそっと手を触れる。
そういえば、そこは少し前に神官の一人に殴られて出血していたところだ。気付いた途端にデュエールは痛みを思い出したが、ほんのりとした温かさをそこに感じると、あっという間に痛みは薄れていった。
彼女の手が離れぬくもりが消えると、デュエールはそっとそこに触れてみる。傷の痕どころか、血が流れた痕跡さえ消えている。これが彼女の、あるいはエルティスに渡されたという力なのだろう。
呆気にとられるデュエールを見て、少女は満足そうに笑った。
『本当に仕方のない奴らだ』
エルティスなら決して使うことのない言葉を紡いでいて、目の前の少女は銀色の髪と瞳をしているのに、そうして浮かべる微笑みがあまりにエルティスそのままで、デュエールはめまいを起こしそうになった。
『<アレクルーサ>は人の中に生まれた神族。もともと手の届く存在ではない。人間程度がどうにかできるわけがないものを』
その言葉に、デュエールは静かに唇を噛み締める。たぶん、エルティスを屠ろうとした神官たちのことを言っているのだとは思う。しかしそれはデュエールにも当てはまることなのだ。
デュエールがうつむくと、視界に入った自分の手が震えていた。
人ではない存在。もともと手の届かない存在。その生まれすら、デュエールたちからは隔てられている。
―――それでも、俺は……。
力を込めて拳を握ると、デュエールは顔を上げて目の前の少女を見た。
「あなたは、エルティスがどこに行ったのかわかりませんか?」
エルティスの姿を持ち、神々からの力をエルティスに渡したという彼女なら、あるいは知っているのかもしれない。わずかな可能性にかけて、デュエールは尋ねてみた。
彼女はデュエールの質問に一瞬驚いたあと、楽しそうに微笑んだ。
『さて……、姿を借りてはいるが、そもそも私と<アレクルーサ>は別々の存在だ。役目を終えた私には、<アレクルーサ>がどこに行ったか知ることはできぬ。地上にしても神々の地にしても、私はすべてを知っているわけではないしな』
エルティスの行方を知る手がかりはないということ。八方ふさがりだ。デュエールは軽く眉をしかめた。
だが、それはもしかしたらいいことなのかもしれない。神々の世界にいるのだと完全に望みを打ち砕かれるよりは、地上にいるのかもしれないというかすかな希望にかけて、エルティスを探して世界中をめぐることができる方が。
エルティスに逢うことを諦めてしまうことだけは、できなかったから。
彼女はデュエールの様子を気にするでもなくさらに言葉を続ける。
『肝心な用件を忘れるところだった。私はお前に借りていたものを返しに来たというのに』
「借りた?」
覚えのないことに、デュエールは目を瞬かせた。一体何のことだろうか。
『正確には私ではなく、<アレクルーサ>が借りていたものだ。<器>と<アレクルーサ>が繋がるための力。あの娘は、お前との絆を欲して、幼い頃にその力をお前から借りていたのだよ』
少女の言うことに、デュエールはまったく心当たりがなかった。デュエールが持っていた力。エルティスがデュエールから幼い頃に借りていた力。
一体何なのかと、デュエールは記憶を探り続けた。
<器>と<アレクルーサ>の絆、つまりデュエールとエルティスが繋がるための力。
そして、デュエールの中に唐突にひらめいたのは、遠い昔のひとつの記憶だった。
それはまだずっと幼かった頃の思い出。
自然のままに生い茂る草むらの中で、デュエールは息を潜めてしゃがみ込んでいた。
少し離れたところで、かさかさと草を分ける音が聞こえてくる。森の立てる音にまぎれて、普通に聞けばどのくらい離れているのかははっきりしないが、デュエールは相手との正確な距離を把握することができた。
距離は子供の足でも十数歩ほど歩けば届く程度。
そろそろ移動しないと見つかるかな、とデュエールはふと思う。
「デュー、どこ?」
ついに相手は声を出した。様々な音の隙間から聞こえた、空気に響く声は幼馴染みのものだ。
しかし、捜されているからといって、デュエールはのこのこと顔を出すわけにはいかない。見つかったら、次の鬼はデュエールになるからだ。
もっとも、彼が鬼になったところで、さほど時間がかからないうちにすぐに交代になるのだけれど。
デュエールは屈みこんだまま、音を立てないようにそっと移動を始めた。少しずつ移動して、相手との距離を置く。これならしばらくは時間を稼げるだろう。
しばらくして再び彼女はデュエールを見つけるべく動き出したらしい。さっきよりさらに音を立てながらゆっくりと草むらを捜している。
彼女が少し機嫌を損ね始めたようだとデュエールが思ったのは、それでは近くにいると気付かれてしまうのが明らかなのに、愚痴をこぼし始めたからだ。
だからかくれんぼは嫌だって言ったのに。自分が鬼のときは逃げる暇もなく見つけるくせに。
怒っているような口調に、泣き出しそうな声音が混じる。
それもこれも彼女が鬼になってから相当な時間探し回っているにもかかわらずデュエールを見つけられないからだろう。
このままだと、見つかっても彼が鬼になるどころか口すら利いてくれなくなるような気がする。そろそろ出て行ったほうがいいかもしれないと思いなおして、デュエールはまたもやゆっくりと彼女の方へ移動していく。
草を分ける音がしなくなった。動く様子もない。どうやら彼女は鬼の役を放棄したようだ。
これはいよいよ機嫌を損ねてしまったらしいと、デュエールは肩をすくめた。かくれんぼは自分が有利だとわかっていて提案したのは彼だったから、自業自得といえばそうなのだが。
その場から動かない幼馴染みの傍の草むらまで移動すると、デュエールは覚悟を決めてそこから顔を出した。
「エル」
デュエールが名前を呼ぶと、エルティスは一瞬呆気にとられた表情をしたあと、今にも泣き出しそうな怒った顔でこちらを睨み付ける。
「また……逃げ回ってたでしょう」
まったくもってその通りなので、デュエールは困ったような表情で応じるしかなかった。
デュエールにしてみれば、エルティスを相手にする限り『隠れる』という行為はなんら意味のないものなのだ。彼女の姿が見えなくとも、遮るものが草むらだろうと建物だろうと、デュエールはエルティスの居場所が分かる。
だから、エルティスがどこで迷子になろうと位置が分かるし、背後からこっそり近付いてくるのも完璧に見抜くことができる。それはエルティスに対してだけだけれど、魔法を使うことができないデュエールの唯一の不思議な特技だった。
「だから、かくれんぼは絶対に嫌だって言ったのに! デューなんかと二度と遊ばない!」
ふんと鼻を鳴らして顔を背けたエルティスに、デュエールは慌てて草むらから立ち上がり、ひたすら謝り続けることになる。
たとえどれだけひどい喧嘩になっても、必ず仲直りする二人ではあるのだけれど。
幼い頃にはごく当たり前のものとしてあった感覚を、デュエールはようやく思い出した。
「なんで……」
いつの間に忘れてしまっていたのだろう。記憶の中の小さな自分は、それを確かに自分の中にあって当然のものとしてとらえていたのに。
心の中に常にあった、小さな光のようなもの。煌めきを放つそのぬくもりは、たとえデュエールの目がエルティスの姿を見失っても、いつも彼女の存在と居場所をデュエールに教えてくれていたのだ。
一体いつ頃その光がデュエールの中から失われたのか、定かではない。時が経つうちに、デュエールは自分がそんな力を持っていたことすら忘れ去ってしまっていた。
『<アレクルーサ>は、お前といる時間が減っていく代わりに、その力を望んだのだ。エルティスがお前の視界と聴力を得られるようになったのは、新たな力に目覚めたからではない』
デュエールが力を失くすのとエルティスがその力を得たのは、確かに同じくらいの時期だったような気がする。お互いの距離が年を経るごとに離れていく気がしたのは、デュエールだけではなかったということだ。
『確かに返したぞ』
少女がそう言った後も、デュエールの中では何も変わったことは起こらなかった。違うのは、心の中に光があった感覚を思い出せること。
今は、その場所には何もなかった。光があるべき場所は空っぽで、そこから何か大事なものが失われていることがはっきりと分かる。かつてのようにエルティスの存在を感じ取ることはできなかった。
『<アレクルーサ>は神々と同等の存在。だが定命の存在でもある。そして、お前は<アレクルーサ>と深い絆を結ぶことを許された唯一の人間だ。それを忘れずにいるといい』
銀の瞳の少女の言葉に、デュエールは顔を上げる。目が合うと、彼女はひどく楽しそうな表情を見せた。
そして、彼女は告げる。
『ひとつ教えておこう。<アレクルーサ>は天に還るのではなく、この地上に残ることを選んだのだ。だから……少なくともこの世界のどこかにいる』
(初出 2004.10.31)