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その言葉を、聞き逃すことはできなかった。
銀色の髪が、夜の風に軽く踊っている。
デュエールがはっと彼女を見返すと、エルティスの姿を借りた者は穏やかな笑顔を向けてくる。暗闇の中でもはっきり見ることのできる銀色の瞳は、デュエールの心を完全に見透かしていた。
『同じ空の下にいたいと、そう言っていた』
たとえ傍にはいられなくても、同じ空の下、確かに生きているなら。
もしかしたら、考えていたのは二人とも同じこと。
夜空にはわずかな星の煌めき。先ほどよりも星の光が弱くなったのは、まだ見えないけれど月が昇ってきたせいかもしれない。
エルティスもこの空の下で、デュエールと同じようなことを思っているのだろうか。
この空と繋がっている世界のどこかに、エルティスがいる。邂逅を諦めない限りは、必ず逢えるのだ。
デュエールの口元には、徐々に笑みが浮かび始めていた。
エルティスが手の届く場所にいる。それさえわかれば、たとえ何年かかろうとデュエールは彼女を探し続けることができる。
『もし<アレクルーサ>を捜すつもりなら、返した力が役に立つだろう。まだ繋がりが残っていれば、だが』
最後にそう一言残し、少女の姿は空気に溶けるように消えてしまった。
少女とともに光臨も失われ、星明りだけがデュエールと犬神とを照らし出している。
デュエールは自分の手のひらをじっと見つめた。
繋がりは、失われているのだ。たぶん、エルティスがデュエールの手を払いのけた、あの瞬間に。
もし再び光を取り戻したいと思うなら、すべて初めからやり直さなければならないのだ。
それでも、エルティスは地上にいる。もし、彼女が自分と同じように思ってくれているなら、すべてやり直すよりずっと容易いかもしれない。
決意するように右手に力を込めて握り締め、デュエールは振り返った。
星影が降り注ぐ岩に座る犬神と目が合う。わずかに首を動かして、犬神はデュエールに問いかけてきた。
『捜しに、行くのかね?』
尋ねてはいるが、その口調はどこかデュエールの決意を納得している節がある。幼いときから二人を見守ってきた彼だ。その心は手に取るようにわかるのだろう。
デュエールは黙って頷いた。答えはそれで充分のはずだ。
『そうか……ならば、こちらへついておいで』
そう言うと、犬神はゆっくりと岩の上から立ち上がる。あまりに珍しい光景に、デュエールは思わず目を瞬かせてしまった。
犬神の導くままデュエールは森の奥へと進んでいく。そこは今までデュエールの入ったことのない場所。エルティスでさえも連れて行ったことがないと、犬神は教えてくれた。
『ここにわしが神々から賜り護ってきたものがある。連れて行くことができるのは、<器>の力に目覚めた者だけだ』
デュエールの前を歩きながら、振り返らずに犬神は言う。
『<器>は、唯一<アレクルーサ>と絆を作ることのできる者として特殊な力を与えられている。一つ目が、おそらく体験しただろうが<アレクルーサ>の魔力を預かること。二つ目が先ほど言っていた<アレクルーサ>と繋がりその存在を感じる力。三つ目が、わしが護ってきた<アレクルーサ>を守る力だ』
やがて、デュエールと犬神は一本の古木の前にたどり着いた。古木には既に葉もなく、残っている幹もぼろぼろで中は空洞化しているようだ。表皮が剥がれて所々に穴が開き、そこから中が覗き込めそうだ。
その穴から、不思議な色をした光がこぼれている。まばゆくはなく、ほのかな灯火のような光。白いような、蒼いような、あるいはもっと別の色のような気もする光が古木の姿を内側から浮き上がらせている。
『この力は<器>に受け入れられるのを待っている。エルティスを捜しに行くなら、きっと必要になるだろう』
犬神は振り返り、デュエールを促す。応じて古木の光を見つめるデュエールの脳裏にひとつの疑問が閃いた。
「犬神は……」
デュエールの呟きに、犬神は再びこちらを振り向く。澄んだ瞳はあらゆることを知り尽くしているように思われた。
「知っていたんだな、俺たちのこと」
『<アレクルーサ>と<器>であったことをかね? 気付いてはいたな。だが、見守っていただけだ。宿命に目覚めるかどうかは、二人自身とルシータの民次第だったからな』
犬神は体ごとデュエールに向き直り、正面から向かい合う。
『<アレクルーサ>と<器>の絆とルシータを滅ぼす使命が約束されたものならば、そもそも強大な魔力を持つエルティスも魔法を使えないお前もここには生まれていなかった』
二人に強固な絆が生まれること、その証拠となる力が存在すること。
そして、二人がルシータは存続に値しないと思うこと。
これが<アレクルーサ>と<器>がルシータを滅ぼすために必要な条件だったのだと、犬神は言った。
デュエールとエルティスの間に絆が生まれず、あるいは絆があったとしてもルシータに悪い感情を持たなければ、ルシータは滅びずに使命は先延ばしにされたのだ。そして、二人に負わされた運命もまた、同じようにして過去から託されたものだった。
神々は、人の心までは操作できない。できるのは、絆を作りやすい環境におくことだけ。だから巫女姫に与えられたあの神託がある。
『これから先、これだけは忘れてはいけない。エルティスとの絆は定められたことではなく、自分たちで選んだのだということを』
犬神の背後に、古木に護られた光が煌めく。心なしか、先ほどよりも光が強くなったような気もする。
何故かその光に呼ばれたような気がして、デュエールは一歩前に踏み出した。
犬神が横に退いて道を開けると、デュエールは静かに古木に向かって歩いていく。古木の正面にはひときわ大きな穴が開いていて、手を入れることができそうだった。
穴から幹の中をのぞいて見ると、すぐそこに光の塊がある。眩しくはなく、デュエールは惹かれるようにしばらくそこを見つめていた。
『手にとってごらん。それはお前のための力だ』
どれだけそうしていたのか、デュエールは犬神の声で我に返った。
恐れは感じない。デュエールはゆっくりと光の中心部に手を伸ばす。何かをつかんだという感覚があった。
一瞬だけ白く輝くと、あっという間に光が消え失せる。デュエールの手に確かな重みだけが残った。
そっと幹から手を抜き出すと、デュエールが握っていたのは一振りの剣。片手で振るうに充分と思われる大きさと重さで、柄には小指の爪ほどの透明な石が埋め込まれ装飾が施されている。鞘から抜き出してみると、刀身は恐ろしいほど磨き上げられていた。
これがデュエールのための力なのだという。しかし、彼は剣術など学んだことがなかった。
「犬神、俺、剣なんか使えないけど……」
デュエールの言葉に犬神は不思議そうな様子だった。人間だったら首でも捻りそうな口調で答える。
『ふむ、その者に最も必要な形をとると聞いたが……、おそらくその剣としての形が、これから先必要になるということなのだろう。少なくとも、お前さんに使えないものにはなるはずがない』
そのときが来ればこの剣だけは使えるだろうという犬神の言葉に、デュエールはあらためて右手に収まる剣を見た。
確かに手になじんでいるようだ。初めて握った気がしない。きっと犬神の言う通りなのだろうとデュエールは納得した。
『さて……、どれだけかかるかわからぬが、エルティスを捜しにいくのだな』
犬神の問いかけにデュエールは頷く。
「エルを見つけ出したら、犬神にも会いにくるよ。エルだってきっとそう言う」
『そうだな。できればなるべく早くにな』
寂しそうな表情で犬神は答えた。デュエールが不思議そうに聞き返すと、犬神は小さく笑う。
『<結界>が失われたということは、世界から魔法が消えるということだ。わしとお前さんたちのように異なる種族が交流を持つすべはなくなるのだ』
精霊に働きかけるのが魔法。それは世界中に満ちていた魔力の源から生み出される。犬神が人の言葉を話せるのも、同じ力だ。犬神がデュエールたちに話しかける術がなくなれば、もうやりとりはできなくなる。
「話せなくなる、ってことなのか」
『そうだ。知恵が失われるわけではないから、わしはお前さんたちの言葉を理解できる。しかし、伝えることができなくなるのだ。別におかしなことではない。異なる生態を持つ種族が、住み分けていくだけのこと。世界の流れに従うだけだ』
デュエールには簡単には想像できないことだった。こうして犬神と話せなくなるということが、現実として考えられない。今もこうして犬神の言うことが判るのに。
しかし、幼い頃から頼ってきたこの老山犬と話せなくなるのは、とても寂しいことだった。思い出の中に、犬神が占める割合はとても多い。
デュエールの暗い表情に気付いたらしい、犬神は気にするなというように笑う。
『なに、今すぐのことではない。魔法がすぐにはなくならないように、そんなにすぐに話せなくなるわけではないさ。ただ、何十年も経ったらどうなるかわからぬが』
犬神の言葉にデュエールも今度こそ笑った。きっとそこまで待たせることにはならないと、デュエール自身も予感していたからだった。
「わかった。エルとまた逢えたら、すぐに犬神に会いに来るよ」
(初出 2004.10.31)