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「……そう、です」
知らないはずがない。命じたのも、実行したのも、神族の者のはず。
「そうだね、鈴麗は、皇女様に仕えているのだったな」
「助けたいの。……私を助けてくれた人たちを助けたい」
分を超えた願いだろう。それでも、鈴麗の言葉を父は黙って聞いてくれた。けれど、その瞳の光の強さは増している。父ではない、神族の華瑛、の立場で訊いているのだろう。
「皇女様が目覚めたら、鳳族はまた戦を始めるのではないだろうか」
「うん、そうなるのはわかってる」
鈴麗が今いる鳳族の目的は、神族の下にある神々へ続く扉を手に入れること。今は首長たる皇帝が娘・芳姫のことに動揺しているだけで、もし彼女が復活したら即にでも戦を仕掛けるに違いない。戦が終わってしまうなら、それが一番いいのだろうけれど……。
「でも」
鈴麗を護り、そして母をも護ってくれた大事な人たちだ。この鳳族の中で一番の恩がある人なのだ。
その言葉に、華瑛は複雑そうな表情をする。立場と気持ちの狭間で迷っているのだと思う。
「そうか、光玉のことも鈴麗のことも護ってくれたのか」
鈴麗が頷くと、華瑛はふと視線を別の場所へ向けた。光玉が様子を伺いながらお茶を持ってくるところだった。
「方法が、ないわけではないよ。鈴麗―――お前が、魔術を使えるなら」
「華瑛殿! またそんな無茶を言うの!?」
声を荒らげたのは、光玉。恋人に向ける顔ではない、今は母の顔になって華瑛を諌めた。確かに、今の華瑛の提案には鈴麗も賛同しかねる。
今まで、何度も試してきた。それでも。神族なら理解できるという魔術の組み立ても、鳳族の術士が最初に覚えるのだという術の呪文も、鈴麗には発動させることができなかったのだ。
せめて、鈴麗が魔術を使うことでもできたなら、神族の娘を産んだ女性として政略的にではあっても優遇されることもあったかもしれない。だが、肝心の鈴麗がまったく魔術の才を発揮しなかったのだ。
それが、光玉が娘と共に神族の夫の元へ行かなかった理由でもある。魔術の使えない鈴麗を、神族の血を濃く継いでいる娘だという証明が出来なかったからだ。自分だけ非難されるなら構わない、けれど娘までいわれなき差別を受けるなら自分では護りきれないから行かない―――。こうして華瑛と光玉の儚い逢瀬は繰り返されているのだった。
「光玉。私はね、やはり君や娘と一緒に暮らしたいと思っているんだ。上と話をしているところだけれど、二人の医学の知識に興味を持っていたよ。けれど、鈴麗が魔術を使えて、周囲にも神族だと認められたら、その話はもっとうまく進むんだ」
「でも、もう何度も試して、やっぱり駄目だってあれだけ……」
華瑛の説明にも、光玉はしかめ面のままだ。鈴麗はふと質問してみた。
「私じゃなくちゃ、駄目なの?」
「そう。これは神族しか使えない。―――それに、その方法を人間に教えてしまうのであれば、規約違反になる。教えられないんだよ、鈴麗」
この返答に鈴麗は我に返る。
鳳族側はこの夫婦の逢瀬を知らないが、神族側では公然の秘密なのだという。
華瑛がここに訪れるための条件。それは、神族の情報を決して洩らさないこと。戦況や作戦や魔術といったもの。
光玉がかつて王宮で侍医をしており、そして今鈴麗が皇女付きの護衛且つ侍医見習いをしているからこそ、つけられた条件だ。華瑛はそれに鳳族側の情報も持ち帰らないということで了承した。統括者と繋がりを持つ互いが間者と疑われないように予防線を張ったのだ。
だから、華瑛が教えてくれた方法を誰かにやってもらうわけにはいかないのだった。それは神族側のものを人間に与える行為と見なされる。
「……使えるの、かな」
「鈴麗!?」
「今まで使えなかったのに、使えるの」
「鈴麗は、今まで魔術を使いたいと思わなかっただろう。使えるようになればここを離れなければならないから」
大事にしてくれる人から離れたくなかったんだろうね。
華瑛が言った途端に、鈴麗の脳裏に思い浮かぶ。
二人だけだ。神族の娘とか、裏切り者の娘とか、飛び交う噂を全く気にせずに受け入れてくれた龍炎と芳姫、だけ。
「でも、その人を助けたいと思う。今までは気持ちが伴っていなかったから、魔術が使えなかったのかもしれない。今度はできるかもしれない」
「……うん、やってみる」
「大丈夫?」
心配そうな顔で光玉が鈴麗を覗き込んだ。母は娘が必死になって、でも何度も諦めたことを知っているのだ。魔術が使えれば神族になって母と共に行ける。でもどこかではここを離れがたかったのかもしれない。
「大丈夫、芳姫様を助けて、龍炎様に笑ってもらうためだから、頑張る」
「無理はしては駄目よ」
鈴麗が承諾したのを見て、華瑛は取り出した紙に何やら文章を手早く書きとめていく。
「まずは、皇女様を眠らせた魔法の前に基本的な眠りの魔法だ。眠れぬ者に安眠をもたらす程度の強さだね。まずはこれを理解できるかどうかだ。今から最後まで講義するには時間が足りない。―――また明日来よう」
華瑛の言葉に、光玉と鈴麗は共に驚いた。
「明日?」
「何度も来るのは危険が伴うけれど、鈴麗が頑張ろうとしているのなら、父さんもそのくらいはしなければね」
焦らず、ゆっくり考えてごらん。
鈴麗に一枚紙を渡して、華瑛は夜更けに帰っていった。
「うー……ん」
卓の上に紙を散らかしたまま、鈴麗はそれを疲れた目で眺めている。急遽参上を取り下げて、朝から父にもらった魔法の理論とにらみ合いをすること数時間。
降参、とばかりに鈴麗はため息を吐いた。
「医学の勉強の方がずっと楽……」
薬の処方の方がよほど簡単に覚えられる、と思わず愚痴る。
目の前の紙に記された文章はそれほど多いわけではない。
魔術を使うための基本的な概念と、理論的な背景。―――それがわからなければ魔術自体が構築できない。そして本題の眠りを起こす魔法についての構造と呪文が書かれている。こうしてみると、意外と魔法というのも体系付けられていて、呪文を唱えれば完了というわけではないことがよくわかる。
概念と理論はまずいいだろう。これ自体はさほど難しいものではない。魔術が使えなくてもこの部分について研究している人はいるし、鈴麗自身も過去の挑戦でここまで理解はできたのだ。
だが、肝心の各論――それぞれの魔術の段になると鈴麗は一気に混乱に陥る。
書かれている文章を読むことはできても、それをなぞって再現することができない。
たぶん呪文を読み上げるだけでは駄目なのだ。それはあくまで媒体でしかなく、構築された魔術を外界に表現するものだから。
鈴麗が読み取ることができないのはそこなのだった。そしてそれが神族の娘と鳳族に呼ばれながら、当の神族には同胞だと認められない理由。神族は魔術を使えることが当たり前だから。歩くように、話すように、魔術の構造を理解し力を行使できるのが当然なのだ。
「なんだろう、魔術の構造って……」
鈴麗は呟いた。
医学なら、まだまだ解明されていない部分も多いけれどある程度体系付けられ書物化されている。ひとの身体なら鈴麗も少しは理解しているつもりだ。どこが悪いのがどんな病なのか、それにはどうすれば良いのかどんな処方が効くのか――たぶんそれが魔術でいう構造と呪文なのだと思う。
理解するために、自分は一体何が足りないのだろうか。
「少しは休憩したら?」
背後から思いもよらず声がして、鈴麗は思わず飛び上がりそうになる。振り返ると机を覗き込んでいるのは光玉だった。
「母さん、帰ってたの?」
「ええ、思ったより春藍さんの調子も良かったようだから。他に訪問診察の予定も今日はなかったからね」
これ、お土産よ。そう言って光玉は手に持っていた箱を示した。おそらくは今名前が挙がった患者の家から買ってきたのだろう。いつも店番をしていた老女――春藍の作るお菓子は絶品なのだ。
鈴麗が城に上がり芳姫に仕え侍医の修行をしている一方で、光玉は街へ出て人々の治療をしているのだ。
神族の血を引く娘を産んだことで裏切り者と蔑まれることも多いが、かつて王宮で若くして侍医を務めていただけあってその腕は確かで、頼りにしている人も少なからずいると聞く。無理に治療費を要求することもないから、貧しい層からはずいぶんありがたがられているらしい。
「どう、進んでいる?」
「……あんまり」
鈴麗がぐったりとして答えると光玉は笑った。
「ちょうどいいわ、休憩しましょう。焼きたてのうちにこれをいただかないとね」
立ち上る湯気を吹き払って、鈴麗は湯飲みに口をつける。薬草茶の作り方は昔よりずっと上手くなったつもりだが、やはり光玉にはまだまだ追いつかない。香りから何がどの程度混ぜられているのか判断しながら鈴麗はお茶を飲んだ。
疲れが洗い流されて、溜まっていたもやもやが晴れていくようだ。鈴麗は満足げに息を吐いた。
「こういう配分の仕方もあるんだね」
鈴麗の言葉に光玉は呆れたように笑う。
「こんなときも処方のことは忘れないの? 精神的な疲れなら、シトレを多めにしても良いと思うわ……この辺はもう経験ね」
皿に並べ直したお茶請けを卓において、光玉はその場にあった紙に薬草の配分を書いてくれる。鈴麗はそれを覗き込んで感心し、ふと我に返った。自分の反応に呆れて思わずうなだれる。
「あっ……そんな場合じゃないんだった」
「医術にのめりこみすぎね。勧めた母さんとしても嬉しい限りだけど」
「父さんが来るまでにできないと駄目なんだよね」
あとどれだけ時間があるのだろうか。休憩と言われつつも鈴麗は卓の上の紙に目を向けてしまう。
向かい側に腰掛けた光玉も一緒になって覗き込んできた。
「そうねぇ、この辺の概念とか考え方っていうのは、母さんでもわかりそうだわ」
「そうだよね。医学でも似たような部分があるし」
「でも、わかるだけでは魔術は使えないわね。現に母さんは魔術は使えないし……読んでいるだけでは駄目なのではないかしら」
光玉の言葉に鈴麗は顔を上げた。今、何かが引っかかった。文章を見ているだけでは見えてこない何かがあるのか。
「……それ、どういう意味だろう」
「この文章に表現されるものに何かが加えられて魔術になるのね。その何かが読み取れるのが魔術の使える使えないの差なのではないかしら。神族はそれがとても強い種族なのだと思うわ」
そしてそれが鈴麗が持ちながらにして使えないもの。
光玉の言葉を反芻しながら、鈴麗は考え込んだ。
……鈴麗は呆気にとられて目の前の鏡に映る娘を見つめていた。
「ほら、着てみれば似合うでしょう、鈴麗」
目を丸くして固まっている鏡の向こうの鈴麗の背後から、実に楽しそうな芳姫の顔が覗く。
芳姫が成人として位を頂いた式で着たのだという白絹の衣は予想外に鈴麗の体格にぴったりで、鈴麗自身がびっくりするほど大人びた印象を与えていた。
「ねえ龍炎。私の思ったとおりでしょう?」
芳姫は自信ありげに後ろを振り返った。彼女が呼びかけたのは鈴麗たちの後ろの壁に寄りかかって二人の少女の攻防を眺めていた龍炎である。鈴麗の座る鏡にも映っている少年は、問いかけに対し笑顔で頷いた。
「そうだな。自信を持っていいぞ、鈴麗。この姿を見せたらその辺の奴も黙る」
どう反応したものかと戸惑う鈴麗を余所に、芳姫は自ら櫛を手に取ると歌でも歌いだしそうな様子で鈴麗の髪をとき始める。癖のほとんどない黒髪は背の中頃に達するほど長い。
「私たちは茶色の髪に慣れているけど、黒い髪もこうしてみると綺麗なものね」
その芳姫の言葉に鈴麗はわずかに俯いた。父譲りだというこの髪の色が、鳳族の中で鈴麗が異質の存在であることを決定的にするものだからだ。
鈴麗の髪を梳いている目の前の芳姫も、鏡に映る龍炎も、それぞれ色合いはわずかに違うが明るい茶色の髪をしている。鈴麗の黒髪は、否が応でも目立つのだ。黒髪は神族の色とも言われ、故に鈴麗は忌まれる。綺麗、だなんて言葉を口にするのは母くらいのものだった。
状況についていけずにただされるがままの鈴麗の後ろで、芳姫は慣れた手つきで鈴麗の髪を結い上げていく。一体どこから調達してきたのか、それとも自身のお古なのか、金の房飾りがついた簪まで挿される始末だ。
ものの数分で、まるで別人のように貴族の令嬢に仕立てられた鈴麗の姿が鏡に映っていた。横で一緒に映る芳姫は実に満足した様子だった。
「やっぱり金の飾りは私たちの茶色より黒髪の方が映えるわね。ね、こうしてみるとお姫様みたいでしょう、鈴麗」
鈴麗は無言で頷くのが精一杯だ。急きたてるように芳姫に腕を引かれ、鈴麗は鏡に背を向けて立ち上がる。いつの間にか龍炎が近くまで寄ってきていた。
鈴麗をしっかり姿勢よく立たせて、芳姫は龍炎に並んで鈴麗を検分する。幼い時から一緒に過ごしてきたのだという婚約者同士は満足したように目配せし合い、鈴麗に笑顔を向けた。
「可愛いでしょう。飾り甲斐があるわ」
「そうだな。良く似合ってる」
二人の言葉は、不思議なほど鈴麗に充足感を与えた。何の先入観もなく手放しで褒めてくれる人は久しぶりだった。しかも明らかに異質の容姿を、だ。
突然呼び出されて着せ替え人形のような状況に陥ったにもかかわらず、鈴麗の心には安心だけがあった。
この人たちなら、傍に居ても恐れる必要はないのかもしれない。一挙手一投足を観察してそこに神族を見ることはないかもしれない。ただの鈴麗のままでいていいのだ。
「そうだわ、鈴麗。あのときの返事を急がせる気はないのだけれど、どうかしら、私に仕えて城に上がる気はない?」
芳姫の言葉に鈴麗ははっと我に返った。
それはしばらく前に王宮に呼ばれたときに芳姫から直々にあった話だ。それよりも前からよく呼び出されて皇女とその婚約者の遊び相手をさせられていたのだが、あらためて謁見の間に通されて皇帝陛下と皇女直々に仕官の話をされたのだ。
芳姫の護衛として傍仕えをして欲しいと。医学の勉強についても許可し、行く行くは芳姫の侍医として仕えて欲しいという話だった。
おそらくは鈴麗の立場上断れる話ではない。城に上がることで鈴麗と鳳族の距離は近くなり、光玉と鈴麗の立場が微妙になることは確かだ。しかし、二人には他に行く場所がないのも事実だった。
城に上がるたびに向けられる視線と囁かれる言葉に、躊躇いの方が勝るのは当然だ。
けれど、この人たちになら、仕えても良いかもしれない。否、仕えたいと思う――
ふっと意識が浮上し、鈴麗が最初に見たのは湯のみだった。頬に何かが張り付く感触があって、鈴麗は慌てて飛び起きた。
「ね、寝てた!?」
まずい時間を無駄にしたと鈴麗は窓の外を見る。幸いにも明るいが記憶がある前より光が弱い。確実に夕方が近い。
(うわ、どうしよう……)
陽が落ちて夜になれば約束通り華瑛が来るだろう。――もしそのとき魔術が使えなかったら、どうなってしまうのだろうか。
考えると一瞬で目の前が真っ暗になる気分だ。芳姫を救う手立てが失われると思うと、焦ってはいけないとわかっているのに焦らざるを得ない。
鈴麗は静かに一度深呼吸をすると、あらためて目の前の一枚の紙を見た。
今朝から何度も眺め、別の紙に書き写したりを繰り返している文章。
「この文章だけでは表されない何か……」
居眠りをする前に光玉が言っていたことを思い返してみる。それは一体なんだろうか。そして鈴麗はそれを読み取れるのか。
眠って休んだせいなのか、それとも光玉の淹れてくれた薬草茶の効果か、鈴麗の頭は妙にすっきりしていた。今なら何か読み取れるかもしれない。
これは、眠りの魔術。眠れぬ者に安眠をもたらす、と父は言っていた。
「不眠……。治療する場合は、まず、診察をして原因を見つけて、処方をするよね……」
例えば精神的な高ぶりが強くて眠れないなら、頭痛や眩暈なんかもあるはずだ。薬学ならそれにたいして精神的に落ち着かせる処方があるけれど、魔術ならばそれを取り除くように働くのだろうか。それともただ眠りに落とすのか。
そこまで考えて、鈴麗は紙に目を落とした。そして瞑目する。
「……あれ?」
なんとなく、さっきまでと見ていた印象が違う。
(もしかして、わかる?)
鈴麗はもう一度眠りの魔術の構造と呪文を読んでみた。もしかしたら、この構造は本当に大雑把で、きちんと的を絞った方が良いのではないのか。
これは、他者の身体に働きかける魔術。身体を鎮め、心を静め、無の状況へ持っていかせ眠りへと誘う呪文。つまりは相手の身体と心の状況により必要とされる力は全く異なってくるのだ。だが、どこが問題なのか判断できて、どこに力を注げばいいのかわかっているなら。
「あっ! そうなんだ……」
自分が持っていきたいところを想像して、そのためにはどこへ何を以って働きかければ良いのか探して、そこへ呪文をかければいい。それがきっとこの文章に欠けていた何か。
そして肝心の働きかける方法は、鈴麗の中にずっとあったのだ。
最初に紙を渡されたときよりもずっと簡単に文章が頭の中に入ってくる。わかってしまえば簡単、という言葉の意味がわかる気がした。もっともこれで本当に魔術が発動させられるのかは定かではないかも。
「これならできる……。でも、やっぱり薬の処方のほうが楽かも、ね」
ふっと息を吐いて、鈴麗は笑った。
そして陽が暮れて、約束の夜が来た。
2007.12.24