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「こんなに続けて会うなんて、夢にも思ったことなかったわ」
そう評したのは母だ。確かにごく稀に会うだけだったのだから、昨日も今日もというのは鈴麗にも違和感がある。一般的な家庭であればごく普通のことなのだろうが。
約束通り華瑛はいつもの時間に家を訪れた。
「こんばんは。どうだい、鈴麗、調子は」
鈴麗と顔を合わせた父が最初に口にしたのはそんな言葉だった。笑顔ではあるけれど、その目には真剣な光が宿っている。自分の望みを賭けて、父も本気だということだろう。
果たして昼間見つけ出した方法で魔術を使うことができるか。
緊張しながら鈴麗が答えようとすると、絶妙な間合いで母がそれを遮った。
「夜は長いのよ。集中するためにも先に食事を済ませてしまいましょう。その方がじっくり取り組めるわ」
「そうだね、その方がいい」
光玉の提案に華瑛は頷く。普段はいそいそと夫を出迎える母であるのに、今夜ばかりは違うらしい。それぞれに思うところがあるせいか、いつもは賑やかな晩餐も妙な雰囲気で過ぎたのだった。
光玉が入れたお茶を飲んで一息ついたところで、父はようやく本題を切り出してきた。驚異的な速さで後片付けを済ませてきた母も傍らで見守っている。
「上手くできそうかい、鈴麗」
「……前よりは、理解できたような気がする」
「そうか」
鈴麗の返答に、華瑛は言葉少なく頷いた。前、というのはそれこそずっと昔のことだ。鈴麗が魔術を試みるのは今に始まったことではない。その度に鈴麗は混乱をきたし焦るばかりで上手くはいかなかった。
それでも、昼間のひらめきは今までにはなかったことだ。
「では、まずは私に眠りの魔術をかけてごらん」
「え?」
父の言葉に鈴麗は思わず目を瞬いた。卓に向かい合わせに座る父の顔を思わずまじまじと見つめてしまう。
「父さんが眠ったら、成功ってこと?」
「いや、魔術を防ぐ術をかけてあるから眠ることはないよ。それでも抵抗が起きるから、呪文が発動したかどうかはわかる」
やってごらん、時間はたくさんあるから。
その言葉に、鈴麗は卓の上にたたんでおいた紙を広げた。父が書いてくれた眠りの呪文だ。心と身体を鎮め、眠りをもたらす力。
鈴麗はゆっくり息を吐いてから、顔を上げた。
「じゃあ、父さん、ちょっと手首を貸して」
「? こうかい?」
鈴麗の言葉に華瑛は少し首を捻り、右腕を卓の上に差し出す。鈴麗は迷わず華瑛の脈を取った。特別なんでもないが、わずかに早いような気もする。
「父さん、少し緊張してる?」
「そりゃあ当然だ。鈴麗が魔術を使えるかどうか、大事なところだからね」
苦笑と共に返ってくる言葉に鈴麗は笑う。今までの試行の中で、父はずっとそう言ってきた。そして鈴麗が魔術を使うことができなくても、笑って慰めてくれたのだ。
この緊張を解くことに重点を置けば良いだろう。的は絞られる。
(……持っていきたいのは、眠る状態だから……つまりは心と身体の休息、かな)
望む光景を描くこと。それが魔術の発動の始まりだ。医学でも目標を描くのは同じだが、それよりももっとはっきりとした像を結ばなければならない。
なかなか思うように描くことができず、鈴麗は唾を飲み込んだ。
(もし神族なら、きっとこれが簡単にできるんだよね)
そしてそれが魔術の素質を持つ者と持たない者との違い。前者になる可能性を持ちながら、鈴麗は今まで後者に属していたのだ。
どれだけ時間が過ぎただろうか、焦りばかりが心を占め、余計像を描くことができなくなってくる。到達するべき場所を導くことができない。
「鈴麗、焦るのが良くないな」
ふと割り込んできた声に鈴麗は我に返り顔を上げた。目の前には穏やかな顔をしてこちらを見つめる父。少し視線をずらせば無言で息を詰めて娘を見守っている母がいる。
「まだ始めたばかりだろう。何度でも試してみなさい、時間はまだたくさんある」
父の言葉に頷いて、鈴麗はもう一度深呼吸をして目を閉じた。
魔術には、約束事がある。それを形にするのが言霊と動作だ。定められた呪文と印が望んだ光景を現実にする。
辿り着きたい場所は、体の緊張を解き、心の高ぶりを静めること。
医学なら処方で働きかけるその部分に、鈴麗自身の力で対処するのだ。
気の流れ、滞りを取り除く。
ふ、と鈴麗の意識が何かを捕らえた。今までにない何かだった。
(もしかして、これが?)
文章として読んでいたときには意味をつかめなかった呪文と印。人に眠りをもたらすために呪文は何を導くのか、印は何を働きかけるのか、その瞬間に符合する。
紙を見直さなくとも、呪文は自然と鈴麗の口をついて出た。緊張と心を静めるための言霊を、印で結んで力にする。紙に書いてあったことを思い返しながら、鈴麗は脈を取っていない手でゆっくりと宙に定められた印を描いた。
手ごたえが、あったような気がした。
周囲に沈黙が落ちる。
一瞬の後、何かを弾く澄んだ音がした。
鈴麗が目を開けると、目の前の父は驚いた顔をしたままこちらを見つめている。
「……父さん?」
目を丸くしたその顔は、驚愕といっていい。予想外の反応に、鈴麗は訝しげに呼びかけた。せめて失敗だったのかどうか教えて欲しかった。
横で見守っていた母もついに我慢できなくなったのだろう、身を乗り出してくる。
「華瑛殿、どうだったの?」
「……いや、驚いた。鈴麗はそんな方法で法術が使えるのか……」
父の言葉に、鈴麗は目を見開いた。今、なんと言ったか。
「驚いたよ、一度で成功した。今の音は眠るのを防ぐための結界が壊れた音さ。まさかこれほど効果の強いものだとは思わなかったよ」
無言の問いかけに気付いたのか、父はにっこりと笑って繰り返す。
「本当に……?」
「ああ、大したものだ」
「本当に使えたのね、華瑛殿!?」
まだ信じられず唖然とする鈴麗と満足そうな表情の華瑛の間に割り込んだのは、やけに上気した顔の光玉だった。頷いて答える父を見て、母は勢いよく鈴麗に向き直る。
「すごいわ、鈴麗!」
押し倒されそうな勢いで抱きつかれ、鈴麗は慌てた。力いっぱい抱きしめてくる母は、鈴麗自身よりずっと嬉しそうだ。むしろ鈴麗の方が今の言葉を信じられない。
「今ので本当によかったの?」
「いいんだよ。むしろ今の神族には絶対にできない法術の使い方をしたんだ。もう少し鈴麗が慣れてきて時間をかけずに術が使えるようになったら、父さんでも今みたいに防ぎきれないな」
「神族にはできない使い方……」
意味がよくわからず鈴麗が首を捻ると、父は簡単に説明してくれた。
神族は、各々得手不得手な系統があるにしても、誰もがごく普通に法術、魔術と呼ばれるものを使うことができる。多種の術を使えること、あるいはより強力な術を使えることが術の才の証明になるのだ。
だが、鈴麗が呪文の構造を見て大雑把だという印象を持ったように、たとえば眠りの魔術なら相手の状況に関わらず術に注ぎ込む力で強制的に眠りに落とすような力任せなところがあるのだという。
例えば傷を癒すならとにかく傷を治しその部分を元に戻すように強制的に働きかけるのが癒しの法術だ。だから怪我人が多ければ多いほど術士の疲労は大きくなる。
鈴麗はますます首をひねった。
「……診断するような医者はいないの?」
その傷がどんなものかわかれば、治療の方法は自ずから決まるのではないのか。
「残念ながら、光玉や鈴麗のようにきちんとした医学を修めている者はいない。そんなに重傷や重病になる者はあまりいなかったし、才ある法術士が揃っていれば事足りるからね」
むしろ医学という概念自体が神族には乏しく、学問としても地位は未だ低い。
だが、最近はそうも言っていられなくなったのだという。戦による負傷者はここ数年で圧倒的に増えてきた。法術士の負担は増えるばかりで、戦が終わる度に力を使い果たし床に伏す法術士も後を絶たない。
そのすべての原因が、鳳族との戦にあることは明らかだ。鳳族が力を伸ばし神族と互角に戦えるようになったということは、逆に言えば神族は被害を被るようになったということになる。
だからこそ、今になって神族は光玉と鈴麗に目を付けた、ということなのだ。
もともと神族ではない上に宿敵の鳳族である光玉と、神族の父を持ちながら魔術を使えなかった鈴麗。居場所がないが故に神族の下を離れ、鳳族の地で暮らしている。光玉が鳳族の下で侍医を務めたほどの医者であること、その娘の鈴麗も医学を修めていることは、神族には周知の事実だった。
「医学の目線をもって法術を使えるなら、それは神族の中でも武器になる。……今まで使えなかったことで、鈴麗は新しい法術の使い方を身につけられたんだよ」
「……なんだかすごい事を言われてるみたい」
「そうだな。父さんも驚いたけれど、誰も考えてもいなかったことだ」
そう言う父の顔はとても嬉しそうだった。
たとえ最大の敵の領地であっても逢いに来た父が二人と一緒に暮らしたいと思っているのは本当だろう。神族はそれを利用しただけなのだ。そして、華瑛がこうして神族のことを話してくれたということは、彼は間違いなく鈴麗たちを神族の地へ連れて行くつもりでいる。
母はきっと喜ぶだろう。
けれど、自分は? 嬉しいだろうか、辛いだろうか?
この地に住むしかなかった。周囲の人はすべてが敵ではなかったけれど決して優しい人ばかりではなかった。
一緒に支えあってきた母と、時々訪れてくれる父と、そして何のわだかまりもなく受け入れてくれた龍炎と芳姫。それが鈴麗の世界のすべてだった。
「それなら、次の段階に進もうか、鈴麗」
華瑛の声が鈴麗の思考を遮る。鈴麗は応えて顔を上げた。
魔術がひとつ使えたことで喜んでいるだけでは駄目だ。芳姫を救い、龍炎を助け、あの二人に笑顔を取り戻すには、まだまだやらなければならないことがある。
「次は何をするの?」
「本当は、眠りを解く魔術を教えてから、皇女殿にかけられた高等魔術を教えるつもりだったんだけれど……」
華瑛は少し考え込む様子を見せてから、鈴麗を見た。卓の上に放置してあった走り書きのされた紙をひっくり返す。先ほど鈴麗が眠りの魔術を使うために置いておいたものの裏側だ。
「今のような魔術の使い方ができるなら、別の方法を教えたほうが良いかもしれないと思う。今からここに書くのは、かけられた魔術を解くための術だ。鈴麗なら、これひとつ知っていることで応用ができるかもしれない」
これが、芳姫を救う力を手にするための第一歩。そして、鳳族から遠のく一歩になるのだった。
2008.1.25