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宿直が明けた朝、仕事のすべてをようやく終えた海苓は、軍部棟入口の扉に寄りかかり爽やかな笑顔を浮かべている凍冶を発見した。充分睡眠を取ったような爽快な雰囲気が大変憎たらしいくらいだが、彼の場合研究で徹夜した日でも宿直をした日でもこれなので始末に負えない。
「やあ、久しぶり」
と、言うほどでもない。最後に会ったのは実は二日前だ。医術がらみで凍冶の軍部棟への出入りが多くなっているので、以前より頻繁に行き会うようになっている。それこそ数週姿を見ないこともざらではなかったのだから。
「今日は何か用なのか」
「ああ、君にね」
海苓の耳に聞こえてくるだけでも、法術士を中心とした医術関係の話は盛り上がっているようだったから、また何か話し合いなのだろうと思ったのだが、凍冶は流すような口調で海苓を指差した。
「……俺にか?」
同時に嫌な予感も掠めていく。こうした凍冶の依頼が海苓にとって不吉な内容である可能性は五分だ。次に続いた言葉に、さらに不吉さが増す。
「今から帰る所なんだろう? せっかくだからお茶でもどうだい」
凍冶の言う茶というのは、薬草を煎じた類のもののことだ。
最近は多少改善されたとはいえ、あれは体の良い実験台だったのだと断言できる。極度に苦かったりしびれを感じたりと、既に昔のことだというのに味が舌の上に蘇る気がして、海苓は眉をしかめた。
海苓の表情の変化から何かを読み取ったのだろう、凍冶はその爽やかな笑顔のまま器用に苦笑してみせた。
「ああ、大丈夫。お茶を入れるのは私ではないよ。相談したいこともあったんだ、君が家へ帰る道すがらお茶でも、と思ってね」
なんだかんだと言いつつも、結局海苓は凍冶の誘いに乗る。
実験台にされるのはいただけないが、それでも彼は信用に足ると海苓は思っている。飄々として何を考えているかわからないと言われるし、実際考えていることもやることも奇抜でそれ故に『変人』などと呼ばれている凍冶であるが、彼の思考は常に遙か先を見据えて為されている。
かつても、凍冶の持つそういった視点が、海苓の苦悩を救ってくれたのだ。
街に出る、と宣言した通り、凍冶は軍部棟を出てすぐに王宮を出る最短距離を取った。半歩前を行き海苓を誘導はするものの、相変わらずどこに行く気なのかは全く口にしない。
海苓としてもそれを改善させる気は既に失せているので、男二人無言になる。
凍冶の行く先を見る限り、目的地は商業区であるようだった。
陽は高く上がり始めており、往来を行く人も多い。天気もいいが一晩寝ずの番だった海苓としてはこの明るさがまばゆいほどだ。
どこに行くつもりなのだろう、と若干眠い思考で海苓は考える。
商業区内でもそうでなくても、茶を飲める店などいくつもある。実際既に何件か通り過ぎてもいる。しかし、凍冶はそういった場所へは全く注意を向けていない。むしろこの勢いだと商業区を抜けていきそうなほどだ。
商業地区の外れ、居住区へと踏み込みそうなあたりで、凍冶はようやく足をゆるめた。
海苓も知っている建物だが、そこに出ている看板は見たことがない。
『施薬院』
見慣れない単語だったがそう読めた。なるほどやはり医術がらみで薬草茶がらみなのかと海苓は内心ため息をつく。まあ、凍冶の淹れる得体の知れぬものよりかはいいだろう――と思い直した。
「ここなんだけどね」
凍冶はそこで初めて海苓に声をかけると、説明もせず扉を開けた。かすかに響く鈴の音。
最初に中からこぼれてきたのは、何かの匂い。それが何か海苓は判別できない。
入ってすぐ右手には卓と椅子が数組置かれている。左手の壁側には作りつけらしい棚があって、いくつもの瓶や包みなどが並ぶ。そして正面には大きめの長机が置かれていて、それが番台がわりらしい――今は多数の物が置かれているが。そしてその向こう、奥にはさらに無数の棚。
外観は二階建てで、そこそこ大きく見えた建物だが、中は――店の部分はあまり広くもないようだった。
「いらっしゃいませ」
涼やかな少女の声が海苓と凍冶を出迎える。声が聞こえて程なくして、奥の棚の合間から鈴麗が現れた。
髪をしっかり結いあげて、作業用なのか前掛けと手袋をしている。先ほど扉を開けたときに鈴が鳴ったから、慌てて出てきたのだろう。彼女は凍冶とその後ろの海苓に気付くと、一瞬だけ固まった後、丁寧に挨拶をしてきた。
「人の出入りはどうだい?」
「そうですね……そんなに来てはいないと思います。あ、自宅療養してた方のご家族様は数人」
鈴麗はわずかに首を捻った後、苦笑しながら答える。
「まあそうだろうね」
「その間いろいろ作業できるから良いんですけど」
そう言って鈴麗は自分の恰好を示す。彼女は番台代わりの長机と奥にある作業台を往復して何事かをしていたらしい。長机の上には数種類の薬草のほか、花弁と思われるものもあって、何に使うのかいくつもの器や道具が散乱している。
しかし、何か気付いたのか鈴麗は慌てだした。
「あっ、でも何か買い物でしたか」
「いや、買い物ではないけれどね、様子見がてらお茶をいただこうかと思って」
「お茶ですか?」
急いで長机を整理し始めた鈴麗は凍冶の声を聞いて不思議そうに振り返る。
――ここまで海苓は完全なる傍観者だった。が、見ていてもわかる。若干雲行きが怪しい。少なくとも、凍冶と鈴麗の間で話はついていなかったと見える。
「普段から調合をしていないと腕がなまると言っていたのを思い出して。今日はちょうど彼が宿直明けなので、気持ちを静めて安眠できるような効能の物があるといいのだけれどね」
突然凍冶は矛先を海苓に向けてきた。それに合わせて鈴麗もあらためてこちらを向く。最初海苓の姿を見とめたとき動揺していたはずの彼女は、しかし今微塵もそれを感じさせない。じっと見つめられて思わず海苓の方が挙動不審になりそうだ。
「安眠ですか……わかりました」
鈴麗の瞳の光が変わったことを海苓は見逃さなかった――あれは「仕事」に向ける目だ。
後方の棚の向こうへ消えていく鈴麗を見送って、凍冶はやおら海苓を振り返った。
「……と、いうわけだ。そこに座ってしばらく待っていようか」
凍冶に再度促され、海苓は窓際の卓に着いた。隣に建物がないため明るく、通りの往来も眺めることができる。
「つまり目的はこれか」
施薬院の客増やし、あるいは鈴麗の腕試しのために海苓を利用したわけだ。若干毒も込めて呟くと、向かいに腰かけた凍冶は意味ありげな笑みを浮かべた。
「いろいろ目的はあるのだけど。まずは人に入ってもらわないと何もならないからね、君の知名度を利用させてもらったよ」
海苓と凍冶という存在は、実際のところ街でも王宮内でも人目をひくのだ。その二人が新しくできた施薬院なる店に入っていった、となれば話題になりやすい。
「まあ、好きにすればいいさ」
海苓はため息ひとつで終わらせた。自分の知名度は嫌というほど知っている。うんざりする話だが、明日以降、人々の間に施薬院のことは必ず出てくるはずだ。
しばらくしてから、鈴麗が二人分の湯呑が載った盆を手に現れた。作業を中断したためか前掛けも手袋も付けていない。
それぞれの前に置かれた湯呑から、ほのかな香りが立ち上がる。心地よく感じるいい香りだが、何かまでは海苓にはもちろんわからない。
「何を使ったのかな」
「ええと、精神を鎮める効果のある生薬をいくつか使ってます」
鈴麗はその薬の名前と思われるものをいくつか並べ、凍冶は興味深げに頷いていたがもちろんそちらについても海苓の専門外だ。
とりあえず、いただきますと言い置いてお茶を飲んでみる。湯気が立っているあたり淹れたてのはずだが意外に飲みやすく、口と喉元がすっきりする。
凍冶があれやこれややっていたものと比べると天地の差だ。
「……うまい」
思わず顔をあげて呟く。様子を窺っていたらしい鈴麗と目が合うと、彼女は満面の笑みを見せた。言われたことが本当に嬉しそうだ。
「うん、さすがだね」
凍冶も一口飲んで感心している。当然だが薬草の分量が変われば味も効能も変わってくるらしい。淹れ方ひとつで味も違う。
凍冶の鈴麗への質問が専門的なものになってきたので、海苓はそれを聞き流し、窓の外を眺めながら薬草茶を飲んでいた。
すぐに効き始めるわけでもないだろうが、あるいは気が鎮まるとはこういうことなのかもしれないと思う。先ほどまでは気にしてもいなかった陽射しの暖かさを感じる。家に帰ったら、すぐ眠れるような気がした。
外に出ると、先ほどまではまばゆいと感じていた陽が気にならなくなっていた。これは何が効いたのだろう。
海苓が振り返ると、何かを買ったらしく包みを持った凍冶が少し遅れて出てくるところだった。その後ろから鈴麗も出てくる。
「ごちそうさま。あまり焦らずゆっくりやっていくと良いよ」
凍冶の言葉に鈴麗は素直に頷いた。実際海苓たちがいた決して短くはない時間のうちでも、扉が開かれることはなかったのだ。長机にあれだけ道具と材料が広がっていることからもわかる。
鈴麗は後ろにいる海苓にも目を向けてくる。ほんの少しだけ心配そうな表情を見せた。
「よく眠れると、いいんですけど」
「ああ、眠れるような気がするよ。ありがとう」
海苓がそう答えると、鈴麗は一瞬驚いたような顔をしたあと、わずかに伏し目がちに笑う。褒められることに慣れていないような、恥ずかしそうな笑顔だった。
2011.2.21