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施薬院ができてからしばらくして、少しずつ訪れる人が現れ、鈴麗の作業や勉強は時折中断されるようになった。
最初のころは、鈴麗たちが治療して回った兵士やその家族が訪れる程度。一日のうち、一度でも扉が開かれればいい方だった。
その内容も、痛みや傷の手当といったものだ。
誰もが魔術や法術を使いこなすとされる神族だが、各々素質に個人差があり、法術の素質が弱い者もいるらしい。そういった人たちが来ることが多かった。
医術、薬が法術士以外の目に触れるというのは初めてのことだったから、人伝に聞いて好奇心や冷やかしで覗いていく者もいたりする。そういった人々はことさら丁寧に対応するけれど、相手の表情に心の中で苦く思うこともしばしばだ。
それでも鈴麗がその応対をやめないのは、薬を作っている様子を面白がり、説明を真剣に聞いてくれる人もいるからだった。
鈴麗は今日も頼まれたものを作るべく長机の一部を使って作業していた。さすがに客も増えてきたので応対用の場所を開けておかないと面倒なことになる。
数種類の薬草をそれぞれ計りとり、鉢の中でつぶし、水と合わせながら混ぜていくのだ。ここ最近作り続けているので、慣れてきたためか手つきが若干演武めいてきている。
今作っているのは塗り薬だ。鈴麗は何の気なしに使っていたものなのだが、尋ねられて答えたところ意外と必要とされるものだということが判明した。
『あんた、ずいぶんあれやこれや草なんかをいじってるけど、案外手も綺麗なもんだね』
『あ、これは仕事の後に荒れた肌に効く薬を塗ってるからです』
薬の材料となるものの中には、当然ながら毒を持つものも含まれる。棘のある植物もあるし、生薬の効力に負けてかぶれるということもないわけではない。肌の荒れた手で扱われた薬は毒になる、というのが母・光玉の持論で、まず鈴麗が覚えさせられたのがこの薬だった。
実際、薬は役に立っていた。生薬を扱うのもそうだが、冬場水を扱うときにも重宝する。王宮内ではさらに貴重な生薬を惜しげもなく使って芳姫のための塗り薬が作られていたが、城下でも水仕事をする女性たちがよく使っていた。
神族の中に、そういう用途の薬はない。ないわけではないが、薬というものに対する信頼を失うには十分な、子供だまし程度の効能しかなかったのだそうだ。結局のところ魔術頼みだったり、放置して済ませる人もいるらしい。
鈴麗の使う薬は、特別な材料もいらず、手間のかかるものでもない。比較的作りやすく、鈴麗も作り慣れたものだ。
一人の女性が興味を示し、そこから少しずつ人伝で広がり、今では何人か定期的に求めに来る人たちがいる。今作っていたのもその分だった。
出来上がったものを貝殻で作った入れ物に移し、封をしていく。渡す分と予備用の分をまとめ終わると、鈴麗はにじんだ汗をぬぐって一息ついた。
鳳族にあった施薬院とはずいぶん必要とされるものが違っている。あちらでは病気や怪我がその中心だった。それでも、人から求められるだけいいのだ、という母の言葉を鈴麗は反芻する。
神族の目に留まったものは、肌荒れの薬の他にもうひとつあった。
後片付けをしているうち、扉の鈴の音がして客が訪れたことを知らせる。そこに見えた姿に、鈴麗の心はわずかに弾んだ。
「こんにちは、今日はどうしましたか?」
青年に向かって挨拶すると、わずかな笑みをこぼして会釈してくれる。海苓は手元の袋を示して言った。
「母が頼んでたらしい薬草茶を代わりにとりに来た」
「はい。香河(こうか)様のですね。今持ってきます」
海苓に言い置いて、鈴麗は店の奥の棚へと向かう。そこには厳重に封をされた布袋がいくつか置いてあり、鈴麗は書付を確認して、そのうちのひとつを持って表に戻った。
「この前と同じもので、っていうことだったんですけど良かったですか」
「何も言ってなかったな……たぶん大丈夫だろう」
布袋を持参した袋の中に受け取って、海苓はあきれたように笑う。
「しかし、すっかり常連だな。まさか母がここまで気に入るとは思わなかった」
もうひとつ、というのはこれ――薬草茶だった。
始まりは、海苓が薬草茶の葉を買って帰ったこと。自分の好みに合っているから家でも飲みたいと海苓が再度ここを訪れて、鈴麗が自宅用を作ったのだ。入れ方も説明したところ、実際やってみたらしい。
結果、家族のほとんどからは不興だったが、珍しい物好きの海苓の母親が見事に入れ込んだ。数日もしないうちに施薬院に海苓の母と名乗る人が訪れ、色々話をした上で鈴麗が作ったお茶を買っていき、その後あちこちで勧めまわるという事態になったのだ。彼女の勧めで来た、という女性が実際に何人もいた。
「父親や兄が言うのも聞かずに毎日何杯も飲んでる。別に害のあるもんじゃないからいいと思うけどな」
「それで頻繁に買いにいらっしゃるんですね」
海苓が長机の上に置いた木札を確認して、鈴麗はそれを受け取る。これが引き換えの印だ。
香河の代わりに海苓が引き取りにくることが増え、必然的に鈴麗と海苓の会話が増えた。ほんの少しのやり取りの中で、色々分かったことがある。
海苓は男ばかりの家族だということ。年の離れた兄が二人いる、三人兄弟の末っ子。
兄同士は仲が良くて好敵手同士なのに、海苓は立場のせいかどちらかというと疎遠だということ。
母親は割りと海苓に味方するけれど、海苓自身はなんとなく母親とは距離をおきたい気持ちでいること。
魔術も武術も好きだし、何でもできるほうだけれど、一番好きなのは弓術だということ。
本を読むのも好きなので、図書室も好きだということ。
王宮の東屋だけではなくて、軍部棟の弓道場と研究棟の奥にある東屋がお気に入りの場所。
こうして話しているときは、あの過去世の記憶のことを話しているときとはまったく態度が違う。過去世に触れなければ、あの表情は現れない。だから安心して話していられる。
「俺が飲むには、少し薄い気がするけどな」
「それは、少し蒸らしておくか、茶葉を多くとるか、あとは……一人分なら、砕いてない葉を浮かべたり、っていうのもありです」
鈴麗は、自分と母の好みが違うときに使う手を話してみる。海苓はああと納得したように頷いた後、しばし躊躇してから少し言いにくそうに鈴麗を指差した。
「ところで――右の頬に、何かついてる」
言われて、指差されたあたりの右頬に触れてみると、確かに何かが触れる。何だろうかと思い、先ほど薬を作ったすぐ後に汗をぬぐったことを思い出した。つまり、そのときについたまま、という――。
「ぅあ……っ!」
慌てて近くの布を探し、頬をぬぐう。恐る恐る長机の向こうにいる海苓の顔を伺ってみると、おかしそうに笑っていた。
「気づいていなかったのか?」
ずっと見られていたわけだ。なんだかこんな醜態をさらしてばかりのような気がする。
「は……早く教えてください……っ!」
「次からはそうする」
時間は、とても穏やかに流れていた。
2011.8.7