時の円環-Reconstruction-


34



 施薬院が設置されてから、だいぶ経つ。それまでは店番も調合も鈴麗がほぼ一人でやっていたのだが、最近また動きが変わった。

 今日は番台には光玉が立っている。兼作業台となっている長机で鈴麗よりも手早く塗り薬を作りながら、小声で歌を口ずさんでいた。鈴麗のいる奥の薬棚からは、何を歌っているのかは聞き取れない。
 変わったことのひとつは、凍治や江晋といった医学の講師役を務められる人材が増えたことで光玉の時間が増え、施薬院に出てくるようになったこと。そのおかげで頼まれものの薬をさばくのが楽になったし、鈴麗も店番から離れて別のことができるようになった。
 番台から奥に引っ込んで医学書を広げることもできるし、わずかな時間だったら街に出かけてもいい。
 医学書や薬について母親と問答するのも、実に久しぶりのことだった。全員が忙しすぎて家に帰ってもほとんど両親と顔を合わせることがなかったりしたのだ。

 手元の作業が一段落したところで、鈴麗は表を覗き込んで光玉に声をかけた。
「母さん、こっちは終わったから、裏に行って様子を見てくるね」
「ええ、お願いね。一番右側の畑、ちょっと荒れてきてるみたいなのよ」
 鈴麗は薬棚の並ぶところからさらに奥にある部屋に入った。中央に大きな机といすが並ぶそこは控室を兼ねていて、医学書を読んだり休憩するときはここを使う。反対側の扉を出れば、二階へと続く階段と外へ出る裏口があるだけの短い廊下。
 鈴麗の目的地は、その裏口を出た先にある。決して広くはない裏庭に設えられた小さな薬草園だ。薬草園というよりは、正しくは畑に近い。
 時間に余裕はできたが、まずやらなくてはならないのはこれだったりする。
 当然だが、薬を作るには生薬――材料が要る。植物、鉱物、動物の一部などなど、多岐に渡るのだ。
 施薬院の仕事は、人々の病や怪我など状況に応じて薬を施すこと。多用される材料は常に一定量が確保される必要がある。鳳族の薬師たちは、その材料を外に採取に行ったり自分で育てたり、店から買ったりして用意するのだ。
 つまり、定期的に薬を作る以上は、鈴麗たちも同じことをしなければならないということ。
 手始めにこの小さな薬草園を利用して、薬草を育てることにした。王宮などで見ていた薬草園とは規模が違いすぎるので、鈴麗も光玉もここを畑と呼んでいる。
 薬草の世話も薬師、医者の仕事のうちなので、畑の手入れに苦労はない。ただ、もともと畑用の場所ではないので、どうにも植物の育ちは悪いようなのだ。
 外に出ると青空が広がっており、日当たりの良いところは少し汗ばむくらいの温かさだった。
 鈴麗は腕まくりをして畑へ向かう。ふと前を見たところで先客がいることに気付いた。
 畑のさらに片隅、葉と花に薬効がある灌木が多少観賞にも堪えるので植えてあるのだが、傍の陽だまりに背もたれのある長椅子が置いてあって、そこに老齢の男性が一人座っている。湯呑を片手に満足そうな表情を浮かべていたが、鈴麗の姿を見とめると笑いかけてきた。
「おや、鈴麗嬢はまた畑仕事かね。ご苦労さん」
「宋燈(そうとう)様は息抜きですか?」
「そうさね。読まなきゃならんもんが多くてな」
 もうひとつ変わったことといえば、これだ。
 施薬院のまとめ役、院長として宋燈(そうとう)という老齢の男性が任じられたこと。薬物をほとんど使わない神族の中にあって、若い頃から薬物研究をしていたという『変人』で、今回の役目も嬉々として快諾したらしい。今までの研究成果や鈴麗の父・華瑛から提供された様々な資料とともに、今まで使っていなかった施薬院の二階に移り住んでいた。
 院長ではあるが、店に出ることはまずない。一日中資料を読んだり実物を見に来たり文章を書いたりしているのだが、鈴麗が見ている限り、外でこうしてまどろんでいることの方が多いような気がしている。
 読まなきゃならんもん、とは大量の医書のことだ。光玉と鈴麗の蔵書を整理した一部分の本。
 挨拶はしたものの、それ以降宋燈は会話を続ける様子もなく目を閉じてしまった。
 その姿に苦笑し、鈴麗は早速薬草の世話に取り掛かる。
 光玉が指摘した一番右手の部分――宋燈がいるのと反対側――は、確かに育ちが悪く、むしろ萎れているといってもいい。
(これはまずいかも。やっぱり土が合ってないのかな)
 その後も宋燈が話しかけてくる様子はなく、鈴麗は黙々と作業を続けた。枯れかけたものを除き、土に肥を混ぜて、雑草は抜く。手を入れていくと、心なしか葉の勢いが良くなったようだった。


 畑全体を回り、気付いたら一刻は過ぎている。そろそろ戻った方がいいかと鈴麗が顔をあげたら、宋燈は全く同じ姿勢のまま居眠りをしている様子だった。
 陽がまだ温かいことを確認しただけで、宋燈を起こすようなことはしない。この前起こしたら不機嫌そうな顔でぶつくさ文句を言われたので、それ以降鈴麗は気を遣うことをやめたのだ。寝こけていても、夕暮れが近づいて空気が涼んでる頃にはいつの間にか二階に戻っているという不思議な人だった。
 軽く土を払い、鈴麗は小走りに中に戻る。道具を片付けて手を洗った後、店へ出る前に控室に置いてある鏡で顔を確かめた。大丈夫、土で汚れてはいない。
 以前、薬を顔につけたまま海苓と話していたという恥ずかしいことをやらかしてから、鈴麗は必ず作業の後は鏡を見ることにしている。覗いたおまけに風で乱れた前髪を直してから、鈴麗は店へ通じる扉を開けた。
「またどうぞー」
 棚で遮られた向こうから、来客を見送る光玉の声がする。誰かが薬を取りに来たのだろうか。見れば鈴麗が先ほど作った薬草茶の袋が半分ほどなくなっていた。どうやら早速常連客が来たものらしい。
「あら、鈴麗がやってくれて助かったわ。来るときは来るものね。さっきまでに来た五人とも全部お茶を取りに来た人たちだったのよ」
 鈴麗が表を覗いてみると、光玉が貝殻に薬を移しながら笑いかけてきた。
「今日は香河様が来ていったわ」
「そうなの?」
「ええ。ずいぶん楽しそうに話していかれて」
 香河とは海苓の母親だ。顔立ちはあまり似ていない気がするのだけれど、最初挨拶されたときになるほど親子だと思ったのは、彼女の茶色に透ける黒髪のせい。海苓の髪と瞳の色合いはこの人譲りなのだとわかる。
 海苓が持って帰った薬草茶に興味を示したのが始まりで、今はすっかり施薬院の馴染みになってしまっている。光玉とも話が合うらしい。
 彼女が来訪して用事を済ませていったということは、海苓が訪れることはしばらくないということだろう。
「なあに? 何か残念そうね?」
「え、別になんでもないよ」
 光玉の質問に頭をふって、鈴麗は裏に引っ込むと、残していた作業の続きに戻った。
 ほんの少しだけ、もやもやした気分になるのは、やっぱり残念ということだろうか。
「鈴麗、明後日は空けておいてね」
「うん。特に何もないけど……行く日が決まったの?」
 聞こえてきた声に、鈴麗は手元を見たまま答える。話は唐突だが、鈴麗には何の話か見当がついていた。
 育てられる生薬ならば畑でいくらか賄える。採取するしかない薬は、外に出るしかない。
 近いうちに遠出し、生薬採取に出向くことになっていたのだ。以前華瑛派の法術士を伴い採取指導に行ったことはあるが、ごく簡単なものだけに留まっていて、未だに実践に出られるのは鈴麗と光玉しかいない。人材育成と場所の開拓が必要だった。
 鈴麗と光玉が生薬を採取できるが、二人がわかるのは鳳族が行動範囲としている場所だけだ。そこに行くとなれば鳳族に見つかる危険性は高い。かと言って神族領地の周辺は未知だ。また現在別の問題も起きているために、大人数の神族が領地外で活動する場合、慎重に進めることになっている。
 どこに行くのか行き先を決めること。前もって他部族が侵入していないか調べておくこと。その他鈴麗にはわからない様々な手順があって、それが全部終わってから、実際の外出ができる。
「さっき鈴麗が畑に行ってる間に、治療院から人が来たのよ。明後日までに準備が整うって」
「わかった、用意しておくね」
「ここは休みにするしかないけど、この分なら明日までに全部受け取りに来そうね」
 うまく生薬の分布を調べられたら、定期的に採取の期間を作ることになっている。そうなると人材が育つうちは施薬院は閉めるしかないから、それも不都合ではあるのだが。
 先を見れば問題は山積みなのだけれど、また久しぶりに外に出られるとあって、鈴麗として予定がはっきりしたことは嬉しかった。先ほどの落胆が嘘のように気分がいい。薬の調合をしながら、思わず下手な鼻歌を歌いそうになるくらいだった。



2011.10.24


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