時の円環-Reconstruction-


35



 収穫期も終わり、世の中はすっかり秋が深まって、過ぎゆく風もどこか冷たい。温める力も弱い陽射しの下、海苓は目的地に向かって商業区の中を歩いていた。
 目指す場所は施薬院だ。
 最近は母親から用事を頼まれることもなく、自分が忙しくなったこともあってすっかり足が遠のいていた。以前はそれこそ薬草茶がきれそうになる度に海苓が駆り出されていたのだが、この頃番台に出るようになった鈴麗の母親・光玉と話が合うようで頻繁に入り浸っているらしい。
 施薬院が知られるにつき、周辺にも人の往来が増えてきたはずだが、今日この時間はどうやら人の出入りも絶えているようだ。木々のざわめきの他は静まり返っている。
 あまりの人気のなさにもしや休業かとも思ったが、扉には営業中であることを告げる看板がかかっている。なんとなく妙な気分で、海苓は静かに施薬院の入り口を開けた。

 ――中も静かだった。
 店内に人気がない。それどころか番台にまで人がいない有様で、海苓は一歩踏み込んだ姿勢で固まってしまった。どうやらとことん間合いが悪かったらしい。
 店主がいないのではどうしようもない。海苓の用事は相談事だったのでできれば鈴麗がいるとありがたかったのだが、それ以前の問題だった。
(出直した方がいいか?)
 入り口に立ったままで思案する。表の看板は店が開いていることしか知らせておらず、いつ店番が現れるか保証はない。しかし、できれば余裕のあるうちに片づけたいことだったから、海苓は待つことにして中に入った。
 ただ突っ立っているのもどうかと思い、海苓は片隅にいつも通り置かれている卓へ向かう。無造作に引いてあった椅子に腰掛け、軽く足を組んで思考の態勢に入った。

 室内に漂う独特の匂いは、久しぶりに来ても変わりがない。相変わらず不思議な空間。――今の忙しさや厄介ごとを忘れてしまいそうなほどだ。
 戦の気配は、今のところない。鳳族の動向を見ている限りでも、大きな動きはないようだ。
 ただし、鳳族が何もしていないわけではない。戦を仕掛けてこない代わり、別の動きがあった。おかげで、海苓たち武官を始めとして警備の仕事が増えたのだ。
 

 移動魔術というのは高等魔術に属する。神族にとっては馴染み深い術だ――なにしろ遠く離れた場所や他部族の領地へ潜入するときに大変重要なものだから。ほかの種族とは離れた不可侵とされる地に住む神族にとってはなくてはならないものだ。
 ただし、印や呪文といったものを使う他の魔術と違って、慎重な準備と多くの術者が必要だから、たいていは特定の行き先を指定して術を込めた道具や場所を使う。
 その、移動魔術を込めた特別な場所を<道>や<扉>と呼ぶのだ。
 一度に通れる人や物の量の差で呼び分けてはいるものの、基本的には<道>も<扉>も同じものだ。力の残滓で描かれた方陣の上に生み出される空間のつなぎ目。その場所を知るのは神族だけだが、その存在だけはほかの部族にも知られていた。
 どこにある<道>も<扉>も基本的には神族の領地へと続いているのだから、それを見つけ通り抜けることができれば、簡単に侵入することができる。逆に言えば、神族が一番守らなければならないのがそれだ、ということでもある。

 ――いつも戦の舞台となるあの荒野に、鳳族の姿が頻繁に見られるようになった。
 今までも<道>を探ろうとする鳳族も含めた他部族の密偵がいなかったわけではない。しかし、最近の報告件数の増加は顕著だった。変化は件数だけではない。その鳳族の密偵たちのたどる道筋も以前とは異なってきている。放置しておいてよい案件ではないと王も軍部も判断した。
 対策として、<道>が見つからないようにするか、別の場所に移動するかのどちらか。後者には莫大な術者の力と時間が必要で、一朝一夕にできるようなものではない。そして今行われているのが前者というわけだ。
 他部族の目をくらませ、本当に守るべき<道>から目を逸らさせる。場合によっては直接介入し小競り合いになることもあるのだ。結果、怪我を負い治療院に運び込まれる兵士が増える――。


 ふと響いた小さな振動に、海苓は思考を止め顔を上げた。
 店の奥で、何か物音がしたのだ。施薬院は開店中だったのだから、店の主は客足が途切れたのを幸い、奥で作業をしていたのかもしれない。
 音がしてからそれほど経たないうちに、何か壺のようなものを抱えた鈴麗が棚の間から上機嫌で現れる。確かに作業中だったのだろう、汚れ防止の前掛けをつけて長い髪をすっかり結い上げている、施薬院でのいつもの姿だ。
「――え?」
 表に出てきた途端、鈴麗は何か違和感に気付いたらしい。訝しげに周囲を見回し、そして海苓を目にして一瞬で固まった。
「え? え……っ!?」
 慌てて番台に駆け寄り壺を置くとそのまま身を乗り出してくる。勢い余ったせいなのか、まとめた髪からひと房横に流れ落ちた。
「す、すみませんっ、気が付かなくて……! お待たせしましたか……!?」
「いや、たいして待ってない。――何か手を離せないことでもしていたのか?」
「そういうわけじゃなかったんですけど。鈴の音がしなかったから、気付かなくて……声もしなかったですし……」
 彼女の勢いにやや呆気にとられつつ尋ねてみると、鈴麗は勢いよく首を振った。言われて、そういえば入ったとき何の音もしなかったことに海苓もようやく思い当たる。訪れの度に聞こえて耳に馴染んでいたあの鈴の音が聞こえなかったのだ。
「確かに呼び鈴は鳴らなかったな……俺が声をかければよかったのか」
 壊れるか何かだったかと海苓が振り返り扉の上部を見上げると、かけてある呼び鈴がわずかに曲がり扉からずれていた。これでは扉を開閉しても音はならないだろう。すぐ直りそうだと判断して海苓は椅子から立ち上がった。
 いつも扉が開くと同時に中から反応があるのに、ないから今は不在だと勝手に判断した海苓の失敗だ。兵士は気配を読むよう鍛えられるし、凍治なら即座に看破するだろうが、彼女にそれを要求するのは酷だろう。
 鈴の位置を直して試しに扉を開けてみると、聞き慣れたあの音が高く響いた。
 これで大丈夫だろうと番台のところへ戻ると、気を取り直したらしい鈴麗が恐る恐るといった様子で尋ねてくる。
「あの……それで、どういう用件でしたか?」
「ああ、ちょっと相談したいことがあったんだ」
 ようやく本来ここに来た目的が果たせるわけだ。先ほど一人考えていたことを、海苓は話し出した。



「……それで、携帯できる傷薬を、ってことなんですね」
 前置きが長くなってしまったが、鈴麗は納得したように頷いている。
 海苓と鈴麗は店内にある卓を挟んで向い合せに座っていた。話が長くなりそうなことに気付いた鈴麗が場所を移したのだ。それぞれの前には彼女が入れた薬草茶も置いてあった。
「ただ包帯を巻く程度で放置されることも多くなってきた。何か役立つものがあればいいかと思って」
 今回はあくまで海苓の個人的な行動だった。<道>を守るため、武官たちは交代で領地外へ出る。重傷を負うことがなければ応急的な手当てをしただけで数日帰らないこともざらではなく、海苓自身は六日連続というのが今のところの最高記録だ。
 法術士がいればなんとかなるものの、そうでなければ帰ってきたときには傷だらけ。兵士たちはあちこちに派遣されるから、治療院は重傷者で一杯で、そうでない者はほとんど自力でなんとかするしかない。
「できれば、あまり手間もなくすぐ使えて、日持ちもするものだといい」
「はい、数日くらい保つものならできますよ」 
 鈴麗は自信たっぷりに頷いた。塗り薬でそういうものが作れるという。あとは、負った怪我にもよるが葉の状態で薬を持ち歩き、その場で処置をした方が良いものもあるらしい。
 海苓が、最近の鳳族との小競り合いの様子を簡単に話すと、鈴麗はしばらく考えた後奥の棚からいくつかの薬を持ってきて具体的に説明してくれる。それを聞いて、最初に話した塗り薬をひとつと二種類の生薬を頼むことにした。
「欲しい日の前日に必要な分を言ってもらえたら、次の日の朝には用意できるし、王宮に届けることもできます」
「ああ、俺が出発前に取りに来る。個人的な用件だしな」
 次の海苓の領地外出動は三日後。それほどに朝早い出発ではないから、施薬院が開いてからでも十分に余裕はあるだろう。
「じゃあ、こちらに用意しています。三日後の朝、ですね」
「ああ、頼む」
 話も一段落したところで、ちょうど湯呑も空になった。
 海苓が席を立ったのを合図に、鈴麗は卓の上の湯呑を片付け始める。椅子に掛けていた上着を羽織り、海苓は軽く息をついた。
 これで仕事がだいぶ楽になるだろうという安堵だった。鳳族の密偵程度に引けを取るつもりはないが、戦いが長引けば疲弊するし不安にもなる。傷を負っても対策があると思うだけで、気持ちは軽い。


 鈴麗は店の出口のところまで見送りに出てきた。今日はどうやら開店休業状態だったようだ。海苓がいる間、他に来客はなく、そして外に出てきても前の往来には誰の姿もない。
「あの……薬はいくらでも作れますけど」
 こちらを見上げる彼女は、ひどく不安そうな顔をしている。しばらく躊躇した後、思い切ったように言葉を続けた。
「できれば使う機会はない方がいいから、怪我しないように……気を付けて、ください……」
 海苓は目の前の鈴麗の様子に目を瞠る。
 心配、されているらしい。それはなんとなく気恥ずかしいようなむず痒いような不思議な気分。ほんの少し表情が緩む。
「――ありがとう。でも、その言葉はそっくりそのまま返した方がいいな」
「え?」
 鈴麗にとってはそれは思いがけない返答だったらしい。先ほど店の奥から出てきて海苓に気付いた時の表情とまったく同じだ。なんとなく可笑しくて海苓は思わず笑っていた。
「そちらも薬草採取に外に行くだろう。姿をくらますから目が離せないと凍治が言ってたぞ」
 どうやら夢中になる性質らしく、薬草採取をしている鈴麗は目の前にばかり集中していて周囲に注意を払わない。目についた薬草を追いかけて動いて、結果一人でどこかへ消えてしまうのだ。それを海苓は二度ほど目撃している。
 凍治は武官でもあるが、今は医術に関わる者の一人として薬草採取に同行し護衛を務めているのだ。鈴麗の厄介な性質は、以前より危険の増した領地外に出てもなお健在らしい。
「……!」
 どう反応するのかと思っていたら、鈴麗の顔は一瞬で茹で上がるが如く真っ赤になった。言葉も継げないらしく、口を開きかけたもののそのまま黙りこみ、海苓の顔を見上げたままの姿勢で小刻みに震えている。
「……そ、そんなことないです。ちゃんと、横も後ろも気を付けてます」
 しばらくして少しだけ余裕が出てきたのか、何とか声を絞り出してきた。その言葉が出てきたのは、海苓が以前指摘したからだろう。ただし、彼女の語調は弱く、頷くにはどうにも頼りない。
「たまには、か?」
「……時々、は……」
 海苓が前言った言葉を使ってさらにたたみ掛けてみると、鈴麗の返答はさらに弱々しくなった。すっかり肩を落としてしょげている。顔は赤いままだし、その瞳も若干潤んでいるようだ。
 その姿が可愛らしいとは思ったけれど、かわいそうな気もしたので、海苓はからかうのをそこで止めることにする。薬を作らない、と万が一拗ねられても困った事態だ。
「つまり、怪我に気を付けるのはお互い様ってことだな」
 海苓の声音が変わったことに気付いたのか、鈴麗は再度顔をあげ、ほっとしたように表情を和らげて頷く。その様子に満足して、海苓は彼女に見送られ施薬院を出た。
 通りに人影はない。街の喧騒は遠く、海苓は風も吹かない静けさの中を歩き出す。
 その耳に、ふっと『蘇る』声。



『――お二人とも、またそんな汚れて……! いったい今度はどこにお出かけだったんですか……!?』
 王宮を裏側から戻り、誰にも見つからないようにこっそり回廊に出たところで、背後からあきれたような叫び声が響いた。
 お忍びは、実はさほど珍しいことではない。座学、礼儀作法、歌舞音曲の練習……様々なことに疲れてくると、芳姫は必ず外に行きたいと言い出す。ちょっとした合間の時間、龍炎と芳姫は二人で馬に乗り遠出をすることが多かった。
 最近は龍炎も忙しく、芳姫に付き合うことができずにいたら我慢の限界が来たらしい。避暑代わりに水辺に行ったはいいものの、はしゃぎすぎた芳姫がぬかるみに足を取られそれをかばおうとした龍炎共々倒れて泥まみれになった――そしてすっかり汚れきった姿を目撃されたというわけだ。
 普段着ているものではなく、下働きの者と同じような姿なのは、そうして汚れるのを想定してのことだが、今回は確かに予想外の結果だった。
『まあ、鈴麗、そんな大きな声を出さないで。周りに気付かれてしまうでしょう?』
 振り返り様、芳姫は悪びれた様子もなくそこに立っていた黒髪の娘――鈴麗に対して、口元に人差し指を立てて声を落とすように諌める。確かにこの恰好のまま誰かに目撃されるのは良いことではなかった。
 指摘されて鈴麗も気づいたらしく、慌てて口を塞ぐしぐさをしてみせる。
『……何をなさったら、そんな泥まみれになるんですか……?』
 二人の恰好が気になるらしく、鈴麗はあからさまに不審そうな顔で尋ねてきた。馬に乗って遠出しただけでは、そうそうこうはならない。
『大したことはないんだ。泥に足を取られて転んだだけだ』
『そうなのよ、龍炎は私に巻き込まれただけだから、悪いのは私なの』
 芳姫とそろって答えると、鈴麗は急に顔色を変えた。先ほどまでの不審顔が嘘のような豹変ぶりだ。
『転んだ、って、大丈夫なんですかっ!? お怪我はっ!?』
 その慌てぶりが妙に可笑しい。それが抑えられずに、龍炎は笑ってしまう。
『ぬかるみに転んだだけだから、何もなかったぞ』
『池にも落ちていないから、安心してね』
 そういう問題じゃない、と鈴麗は文句を言いながらも、何事もなかったことに安堵した様子だった。



 静けさの中に揺らめいた、それは遠い過去世の記憶。
 淡いぼんやりとした風景の中にいた、黒髪黒眼の少女。今の見知った姿よりはいくつか幼く、すでに過ぎ去った時間なのだろうとわかる。人を心配するその様子は、数年たっただろう今と重なる気がしたけれど。
 それが、『龍炎の記憶』の中に初めて現れた鈴麗の姿だった。


 ――それは、本当は誰の気持ちなの?



2011.12.4


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