竜の王国シリーズ

女神に贈る竜の宝珠


肆 平穏は破られる


 あれから数日。今までと比べると格段に穏やかな時間が過ぎていた。やはり魔物は現れるものの、里珠は村人たちと協力して退治することができた。
 一体倒せばそれだけ脅威が減っていくとあっては、どこの集落も戦いで疲労の滲む顔に笑顔は絶えない。
 緊張と不安とに曝されていた日々に比べれば、ずっと気が楽で心地いい。

 はず、なのだが。


 
「もう今日は魔物が現れることはなさそう……ね」
 村から出て辺りを見回り、里珠は結論を出した。つい先ほど、飛竜に乗った兵士が現れて近隣の集落も含めて巡回していったところなのだ。
 はたして、獅苑が言ったとおりに竜騎兵が見回ってくれることになったらしい。
 昨日までぽつりぽつりと現れていた魔物は、飛竜が姿を見せたせいなのか一切現れる様子がなく、こうして里珠が外に出てきたのだ。素晴らしいほどの効果だった。
 村長を始めとしてみな喜んで飛竜を迎えていた。きっと他の集落でも歓待されただろう。
(やっぱり、獅苑様は来ないんだなあ……)
 里珠の気持ちがなんとなく晴れないのは、そのせいだった。飛竜に乗って現れたのは獅苑ではなかった。
 でもわかってはいたのだ、「来る」とは最後まで言わなかったから。
 たまたま同じ目的で行き合っただけの人なのだ。
 里珠は腰に下げていた短剣を手に取る。
「魔物が現れなくなったら、返した方がいいよね……」
 昔から使っていたものだと言ったから。そのときは、巡回で来てくれた兵士に頼んでも大丈夫だろうか。
 里珠は短剣を胸元でそっと握りしめる。渡されたときは嬉しいと思っていたのに、このままずっと持っている方が、辛くなってしまう気がした。



 
 次の日、里珠は久しぶりに友人たちと一緒に洗濯にいそしんでいた。
 万が一に備え長槍と長刀は近くに置いていたし、腰には獅苑から譲り受けた短剣を手挟んではいたが、友人たちと世間話をするのも久しぶりだったのだ。

「里珠、もう少し残っていくの?」
「ええ、この敷布の汚れが落ちないから、もう少し頑張ってみる」
 川の流れの中で布と格闘しながら、里珠は川辺に上がっている友人二人に返事をした。彼女たちはすでに洗い終えた洗濯物を詰めた籠を抱えている。
「じゃあ私たちは先に戻ってるわよ?」
「久しぶりだから、洗濯の仕方を忘れたみたい」
「嫌だ、大丈夫でしょ、これからゆっくり思い出せるわよ、里珠」
 軽口を叩き合って、里珠は川上の村へと戻っていく友人を見送る。姿が見えなくなったところで視線を足元の敷布に向けた。
「本当、これじゃあ母さんに呆れられてしまうわね」
 戦って守るのもいいけれど家事もきちんとしなさいという小声が幻となって聞こえてきそうだ。里珠は苦笑すると再び汚れと格闘しようとした。


 突然。
 友人たちが消えたはずの川上から悲鳴が聞こえ、里珠は思わず顔を上げる。
(何!?)
 声の聞こえた方に見えたものに、里珠は息を呑んだ。
 敷布を引きずり上げ、とりあえず長刀を構えて飛び出す。うっかり靴を履き忘れたことに里珠が気付いたときには、既に友人たちのところへ追いつこうというところだった。
(油断してた……)


 洗濯籠が転がって辺りに布が散らばる。その中心に二人が倒れ伏していた。そこにいるのは、犬の姿に似た魔物。
 今まで現れていたのよりずっと小さい、牛ほどの大きさだ。
 くいと魔物の首が巡り、里珠の姿を捉える。目は二つあって、今までよりずっと犬に近い姿をしていた。
 長刀を構え、里珠はわずかに身動きしている友人たちへ叫ぶ。
「はやく村へ戻って!」
 とにかく友人たちの傍から引き離さなくてはならない。
 武器を持っているせいなのか、魔物は倒れ伏している娘たちから注意を逸らし、里珠の方へ真っ直ぐ向き直った。
 誘い出すようにゆっくりと後ろへ下がりながら、里珠は長刀の構えを変えていく。この大きさとはいえ、突進されればこちらが不利だ。


  ――― イ、タ 


 響いた声に、里珠は一瞬だけ動きを止めた。
(声?) 
 今のはなんだ、と思わずあたりを探る。

 
 次に響いた咆哮に我に返ると里珠は慌てて長刀を振るった。がちんと刃がぶつかる嫌な音がして、里珠の持つ長刀は魔物の牙を何とか受け止めた。両腕に思い切り体重がかかってくる。
 これは不利と判断し、里珠はすぐさま長刀を手放すと後ろへ飛びのいた。
 犬の魔物は長刀を噛んだまま、里珠との距離を詰めてくる。狙いを里珠に定めたのだろう、これならば友人たちが逃げる時間は稼げるはず。
 あとは置いてきた槍をとってくるしかない。
 背中を見せればまず間違いなく襲ってくるだろう。里珠は魔物を睨みつけたまま、ぎりぎりまで後ろ向きに下がり、何とか距離をとったところで振り返り走り出した。
 だが、先ほどいた川辺の、大きな石に立てかけておいたはずの槍がない。
 それはその傍に立つ人影の足元に真っ二つに折れて転がっていた。
 ――人ではない、魔物だ。人のように二本足で立っていて、トカゲの顔と尻尾を持っている。今まで見たこともない魔物だった。
 トカゲの魔物は里珠をその眼に捉えると、にたりと笑ったような気がした。何しろトカゲの顔なのだ、表情が読めない――しかし。


 見ツケタ 竜ノ 女


 トカゲの口が動いて、確かに音を紡ぐ。里珠は唖然としてトカゲの顔を持つ魔物を見つめるしかなかった。
「しゃべった……!?」


 憎キ竜ノ女 イタ


 搾り出すような片言の言葉に、里珠の背筋に悪寒が走る。その言葉の意味は里珠には計りかねたが、どうやら魔物が狙っているのは里珠自身らしかった。
 そっと後ろを振り返ってみると、先ほどの犬の魔物がじわじわと近づいてきている。
 なるほど、魔物の足元に明らかに弱い人間がいたにもかかわらずあっさり里珠に狙いを変えた理由もわかる。

 川のこちら側を逃げれば里珠の村。川面を抜けて向こうへ行けば森が広がる。この場合里珠がどちらへ逃げるべきかは明確だ。
 靴はトカゲの魔物の足元にある。
 足を犠牲にして森を突っ切るしかないだろう。手元にあるのは腰の短剣のみ。残念だが、村の人々へ援護を頼む暇もない。友人たちが村へ辿り着けばもしかしたら里珠が置かれている状況は伝わるかもしれないが、彼女たちの様子ではそれどころではないかもしれない。

 孤立無援だ。自分の力で何とかするしかない。
 覚悟を決め、里珠は勢い良く地面を蹴ると川面へと飛び込んだ。洗濯のできる浅瀬、転がる石にさえ気をつければなんということはない。そのまま森に飛び込んでしまえば身を隠す場所もあるはずだ。
 川を抜けて対岸へ渡った里珠が進もうとした先には、今度は泥でできた大きな人形のようなものが待ち伏せするかのように立っている。
(あれも魔物なの!?)

 言葉を喋るトカゲの魔物といい、ふたつ目の魔物といい、今目の前にいる妙な物体といい、今日初めて見るものばかりだ。これだけのものが既に森に入り込んで隠れていたというのだろうか。
 もしかして――、脳裏に過ぎる考えに里珠は心の中で否定する。
 獅苑は大丈夫と言った。もう魔物が増えることはないと言ってくれたではないか。 
 里珠は咄嗟に腰の短剣を引き抜くと目の前の泥人形を薙ぎ払う。僅差でそれを避けた泥人形はだがそのまますさまじい勢いで飛びのいた。反撃されるかと思った里珠は姿勢を崩しそうになったが、逃げていくそれを深追いはしない。
 短剣を戻すと再び駆け出し森に突っ込んだ。


 
 枝を切り払ったりかき分けたりする時間すら惜しい。木々の間をすり抜けながら、里珠はあたりに目を向ける。
 遠く近くにちらつく獣の目の光。それは明らかに森の動物たちではない。
 なんとか後ろの様子を確かめると、先ほどのトカゲの魔物と犬の魔物、そして泥人形が里珠を確実に追いかけて来ていた。泥人形は切り裂くような奇妙な悲鳴を上げながら――顔の部分は鼻のような盛り上がり以外は目も口もないのに。
「槍さえ壊れてなかったら……!」
 こんなに逃げるだけでは絶対に済まさなかったものを。里珠は心の中で毒づく。

 みしみしと何かがへし折れる音がする。追手が増えているのかもしれないが、後ろを確認する余裕がない。ただ、足音や鳴き声が明らかに多くなった。
 このままただ走っていてもどうしようもない。裸足で森の中を進むのは土台無茶な話で、盛り上がった根や散らばる枝葉、石が容赦なく里珠の足を痛めつける。
 いずれ力尽きるか躓くか、追いつかれれば終わりだ。どうにか体勢を立て直さなければいけない。
(この方向なら、ご神木のところに出るはず。そこなら……)
 里珠が森の中に入った位置と今向かう方角からいけば、もう少しで湖の端ををかすめて、西封村でご神木と呼んでいる幹太い高木が密集する場所に行けるはずだった。
 そのあたりの樹なら、登って足場とするのにもいいだろう。
 
 前方から咆哮がする。里珠が聞き慣れてしまった、魔物の咆哮だった。
(塞がれた……!)
 さほど遠くない前方に魔物の姿が垣間見えたとき、里珠は近くの低いところに張り出した枝をとっかかりに上へと登っていった。生い茂る枝を伝ってさらに隣の樹へ飛び移る。ご神木よりはずっと細いが、このまま下を走っていても挟み撃ちにされるだけだったろう。
 体重を支えられる限界の枝分かれの上で、ようやく一息ついてあたりを窺う。木の上自体は、魔物退治のために何度も上がったことがあるから、怖いことはなかった。
 一体どれだけの数の魔物がこの森にいたというのか。今ぱっと見回しても、里珠を追ってきた魔物と、前方にいた魔物とだけで両手を超えていた。それが全部里珠を狙って集まってきたのだ、偶然ではない。おそらく――あの泥人形の悲鳴。あれが目印になって魔物が寄ってきている。
 里珠は下を見下ろした。その根元に寄ってきた魔物は、さらに増えたようだ。遠くからもまだ咆哮が聞こえてくる。
 里珠がいるその樹を取り囲む魔物たちがこちらを見上げている。その中にあの泥人形もいた。その目も鼻もない顔がにやりと笑った気がして、里珠は唾を飲み込んだ。背中を冷たいものが走り抜ける。
 魔物たちの目に宿るものは、あえて言えば執念だったかもしれない。目指しているのは里珠だけだ。おそらくは里珠が彼らの手に落ちるまで退くことはないだろう。
 そして里珠の手元にあるのは獅苑からもらった短剣だけだ。下に群がる魔物を相手にするにはあまりに非力すぎた。
 どうすればこれを打開できるのか里珠は必死になって考える。隣の樹は今里珠がいる樹よりもいくらか太く、さらに高いところまで枝葉を伸ばしていた。このまま飛び移って移動するという無茶をする? それとも――
 どうしたらいいかと里珠は足元を見下ろして、そして驚愕した。 
「登ってくる……!」
 そういえばトカゲは壁を上がれるんだったかと馬鹿に冷静な思考が里珠の頭を過ぎる。先頭をきって里珠を追いかけていたトカゲの魔物がしっかりと幹にしがみつき、里珠のあとを追ってきているのだった。
 犬の姿をしているものは木を登れないだろうし、巨体を持つものはそれ以前に届かない。だから完全に安心していたのだ。
 やるしかない。ゆっくり考える暇もなく、里珠は隣の樹へと飛び移った。
 伸びる枝葉は先より頑丈で、なんとか登ることはできそうだ。トカゲに追いつかれる前に、少しでも距離を稼がなければならない。

 どこまでなら登れるかと見上げた里珠の視界を、巨大な鳥のような三つの影が高く過ぎっていった。
「! 飛竜!」
 慌てて枝を蹴ってさらに高みへと駆け上がる。だが、もう一度確かめても空は里珠の状況を余所にどこまでも青いだけで、期待したようなものはどこにもない。
「……そんなの、いるわけがないわね」
 自嘲の笑みを浮かべて、里珠は思わず呟いていた。
 しかも三つあったのだ。普通に考えてそんなことがあるわけがない。鳥の影でも錯覚したに違いなかった。
 いるはずのない人を呼んだところで、来てくれるはずもないのに。
 里珠を助けるものは何もない。自分の力で何とかするしかなかった。

 隣の木の幹をあがってくるトカゲの魔物を睨みつけて、里珠はできるだけ上へ登っていくことにする。少なくとも他の魔物は追ってこれないはずだ。どれだけ時間が稼げるのかはわからなかったが。
 だが、すぐに限界は来た。登れば登るほど吹きぬける風は強くなり、木が揺れるのだ。飛竜の高さにも何とか慣れたが、それは確実に支えてくれる足場があったからだ。今の足場は張り出した枝だけ。少しでも不安定になれば落ちるしかない。
 少なくともこの高さから転落すれば間違いなく助からない。そして、万が一に奇跡があったとしても、そこで待っているのは里珠を追ってきた魔物の群れだ。
 里珠の重みに足場の枝が軋む。幹にしがみついて、里珠は下を見下ろした。遙か真下に見える地上との距離に里珠は眩暈がしてくる。よくもこんなところまで上がってこれたものだ、我ながら酔狂としか思えない。
 そして、まだ遙か下ではあったけれど、トカゲの魔物は里珠のいる樹へと飛び移り、追いかけてきているのだった。
 里珠は腰元の短剣へ目を向ける。そして、里珠の周囲の枝には、細い分枝が伸び放題だった。
「こんなので時間稼ぎになるといいけど」
 枝にしがみつきながら、辺りの枝をきり集める様は相当珍妙に違いないが、それどころではない。片手に何とか持てるだけの枝を切ったところで、里珠は短剣を元に戻そうとした。
 勢い良く、足場の枝が横揺れする。下でどぉんという重い音がして、幹が揺さぶられた。きっと根元では業を煮やした魔物が巨体をぶつけてでもいるのかもしれない。
 さらなる横揺れに里珠の身体は宙に浮き、空に放り出されそうになる。慌てて両手で幹にしがみつこうとして、その手から短剣がすっぽ抜けた。
「っ! しまった……!」
 持ち手を失った短剣は一瞬太陽の光を反射して煌めくと、そのままきらきら踊りながら落下して、里珠の視界から消えた。――いっそのこと、魔物の頭にでも突き刺さってくれればいいと、里珠は反射的に祈っていた。

 もはや完全に丸腰だ。里珠はもう片手に残っていた枝の束を懐に押し込むと、そのうちの一本を構えた。実際のところ里珠は投擲が全くの不得手だった。狙い定めて投げてまともに当たったためしがない。しかもこんな危ない足場の上で下に向かって投げるのだ。
 それでも諦めきれずに里珠はトカゲの頭に向かって枝を投げつけた。せめてもと斜めに切り落とした枝はそれなりの鋭さを持ってはいたが、どうやら目くらまし程度にしかならないようだ。
 さらにもう一本。トカゲの額に当たったものの、角度が悪いのか力がないのか、その皮膚を軽く滑っただけだ。そうして最後の一本まで投げ続けても、トカゲの魔物が里珠へ近付いてくる速度は全く変わらなかった。
 懐にもう何もないことを確認すると、里珠はゆっくりと息をついた。
「……ここまでね」
 八方塞がりだ。これ以上は登れず、周囲に乗り移ったとしても同じことの繰り返しだ。丸腰で、しかも武器を持たない自分の非力さはよくわかっているつもりだ。逃げ場はなく、だからといって正面きっての勝負もできるはずがなかった。
 知らず里珠の口元に笑みが浮かぶ。もうどうしようもない。全身を襲う緊張も恐怖もこれ以上ないくらいだというのに、里珠の心に湧き上がったのは笑いだったのだ。

 トカゲの顔をした魔物がゆっくり近づいてくるのを見つめて、里珠はふと先ほど投げられた言葉を思い出す。
 憎き竜の女、とあの魔物は言った。
 それが何故自分を示すのか、里珠にはよくわからなかった。それでも、里珠が「竜」と聞いて思い浮かぶのは、あの、飛竜に乗った獅苑の姿だけなのだ。
 ――獅苑。
 その名は、里珠の心の中で繰り返される度に強く熱を帯びる。こちらを気遣ってとはいえ折角もらったものを手放してしまったことだけが悔しい。
 また何日かしたら巡回の兵士が来てくれるはずだ。そのときに、里珠のことも伝わるだろう。獅苑がこのことを知ったら、何を思うだろうか。
 ほんの一瞬でいいから、悼んでくれたら。
 目を閉じて瞼の裏に青年の笑顔を描いたとき、里珠の心はゆっくり凪いでいった。最後までこの記憶を抱いてられるなら、悪くはないかもしれない。
 伝えてもらうためには、なんとしてでも村を護らなければ。

「言葉がわかるし、知恵も回るようだから、あれが村を襲ったらきっと大変ね」
 里珠はさらに肉薄してくるトカゲの魔物を睨みつけて笑った。
 片言とはいえ人の言葉を話していた。里珠の槍を武器だとわかり先手を打って壊していた。今まで猪突猛進して村や人を襲っていた図体が大きいだけの魔物とは明らかに一線を画している。そんな知恵を持つ魔物にあれだけの数が統率されたとしたら、確実に集落が壊滅状態に陥るのは間違いない。
(そう、そのまま近づいてくればいい)
 里珠は、枝からわずかに身を乗り出した。
 目標の娘が逃げ場をなくして追い詰められていると、勝ち誇って襲い掛かってくればいい。ただ屈したりはしない。全力で地面に叩きつけてやるから。
 こいつだけは逃がすものか。
 トカゲの魔物は、里珠のいるひとつ下の枝分かれのところで動きを止めた。先にいる里珠を、どうやって捕まえるか、それとも落とすか、迷っているようだった。
 あと、少し。
 もう少しだけ近くに上がってきて、手の届くところへ来たら。
 飛び出す間合いを窺って里珠は思い切り身を乗り出す。


「里珠っ!!」


 声が聞こえた気がした。こういうとき、意外と願望は叶うのかも、と思った。


改稿版 2020.3.14

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